マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

中白木頭屋のオシメ入り座

2015年12月11日 12時00分08秒 | 桜井市へ
プラカードのような道具に「鬼」の文字を書いた鬼的を拝見した桜井市の中白木。

この日は座行事のオシメ入りが行われる。

トーヤの神さんと呼んでいる高龗(たかおかみ:雨冠に下は龍)神社の分霊を一年間祀るトーヤ(頭屋)はこの日の夜にヤカタを授かってくる。

戸数は9戸だけに9年に一度の廻りのオシメ入りである。

一年間、これまで家で祀っていた前頭屋は神社に戻す。

一時的に社務所で預かっていたヤカタ。

時間を見計らって社務所に来た受け頭屋はトーヤの神さんのヤカタを受け取って家に戻る。

その際、行程とも息がかからないように半紙を口に銜えて抱えてきたヤカタを家の神棚に収める。

見てはならない道中の神遷しの儀式は「遷しまし」と呼んでいる。

本来は真夜中の神事であるが、現在は陽が暮れた時間帯に行われている。

ローソクを灯した頭屋は二老。

86歳になる。



授かった神さんにアズキメシを供えていたのは当主に近し家人だ。

その間の氏子といえば、社務所に籠っている。

しばらく間をおいていた座中は頭屋家に参集する。

その間の頭屋家は夜食の準備していた。

かつては吉野膳と思われる高膳に料理を盛っていた。

今では長テーブルの「ナガゼン」。

料理の膳は「デン」と呼ぶ。

「膳」が訛って「デン」と呼ぶ。

奈良ではそう呼ぶ地域は多い。

ちなみに今では使わなくなった高膳は蔵で保管している。

「サイラ」と呼ぶサンマの開きは焼いて皿に盛った。



朱塗り椀はカマボコ、シイタケ、コンニャク、ニヌキタマゴ、ナガイモにキセラマメ。

砂糖、みりん、お酒を入れて醤油で煮た甘辛い味付けである。

写真では判りにくいが、椀底にとても大きく分厚いアブラアゲがある。

椀からはみ出しているからその大きさが判る。

これもまた味がよく浸みてとても美味いのだ。

濃い目の味は口に合う。

小皿に盛ったのはサクラエビを散らした大和マナの白味噌辛し和え。

大和マナは食べた瞬間飯に舌が反応する。

まるでカラシナのように思えたが、あくまで辛し和えである。

お酒の肴にいただく頭屋家の接待料理だ。



隣村の芹井や小夫嵩方住民から聞いていた中白木の摂待料理。

マツリのときはもっとご馳走になると聞いている。

「あんたの席もある」と言われていただく接待料理はとにもかくも美味しい。

昨今は仕出し屋などに注文するパック料理の膳が多くなったが、中白木は今なお手料理。

味わい深い味である。



皿に盛ったタタキゴボウもあればハンジロマメ(パンダマメ)も出てくる。



遷しましの「オシメ入り」料理はトーフ汁。



神さんに供えたアズキメシと漬物で〆となる。



座中はお酒も入って、お腹が満腹したという人が多い。

それほど美味しかった接待料理に満足する。

(H27. 3. 1 EOS40D撮影)

高樋町・春日神社ハルマツリの祈年祭・五社代参フリアゲ

2015年12月10日 12時00分38秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
知り合いの帯解住民が紹介してくださった奈良市高樋町の宮総代。

鎮座する高樋町の春日神社は奈良市の旧五ケ谷村にある神社だ。

前月の24日は前もって神社所在地などを案内してくださった。

この日は生憎の雨降り。

時間ともなれば氏子たちが集まってくる。

傘をさしながら神社に参拝して手を合される。



本殿下に奉書で包んだ松苗を供えていた。

「牛玉 今宮寺 宝印」の文字を墨書したお札が奉書だ。



オン松とメン松が数本。束ねた松苗が崩れないように藁で括っていた。

当地ではイノコロと呼んでいる芽吹きのネコヤナギ(正式にはカワヤナギ)も一緒に括っていた。

この松苗はシキジ(式司)が予め作っておいた。

本数は70本。

村の戸数は90戸。

うち農家の70戸分を作っておく。

雨天でなければ本殿や末社三社の事代主命社(左右に二社)、天児屋根命社や小社の大日霊命社の前に並ぶ。

この日は土砂降りの雨。

ハルマツリの祭礼はやむなく拝殿中央の場で行われた。

参集するのは自治会、農家、組合、万青(まんせい)の人たち。

この日はおよそ20人だった。



祓えの儀、宮司一拝、献饌、祝詞奏上である。

祝詞に「としごいのみまつりに豊作を祈願する」とあった。

玉串奉奠、撤饌、宮司一拝で終えた宮司が話す。

「お米を守っていた松苗だと」解説された。

松苗を包んだお札はごーさん札であるが、今宮寺の存在を示すものはない。

かつては春日神社の神宮寺であったろう。



祭典が終われば一年当番のシキジ(式司)が下げる。

ハルマツリとも呼ぶ祈年祭を終えた氏子は神社下にある高樋町集会所に集まって1時間ほど直会をする。

高樋町は6垣内。

それぞれの名を付けた札がある。

「柳茶屋東垣内」、「柳茶屋西垣内」、「寺山垣内」、「西垣内」、「南垣内」、「中垣内」に「東垣内」だ。

垣内名を掲げた部屋に各垣内住民が籠りするが、固定ではなく変動するようだ。



直会が終わった会場は片づけられて所蔵していた掛図を掲げる。

掛図は表装しなおした雨宝童子。

一目でわかった掛図である。

天照大御神が日向に下生した、つまり地上に降り立ったときの姿だといわれる雨宝童子。

本地垂迹説によって天照大御神は本地仏とされる大日如来に化身した姿。

右手に金剛宝棒、左手は宝珠を持つ童子姿だ。



掛図下にさきほど春日神社に供えた松苗を置いてローソクに火を灯す。

氏子一同が拝礼する。



今では村行事になっているが、古い史料によればかつては「座」と呼ばれる宮座講の営みだった。

シキジ(式司)が修祓、祈祷をされて籠りをしていたようだと書いてあることから日待ち行事であったかもしれない。

雨宝童子に手を合わせた高樋の人たちは五社に参ってお札を貰ってくる代参決めをする。



村人の名を記した竹串を収めた振分(しんぷ)箱<横に「牛玉 今宮寺 宝印」>を振って出すのは自治会長。

おみくじ箱のように箱を揺すって振り出す。

五社は地元の春日大社や大阪・奈良県境山頂に鎮座する金剛山葛木神社、吉野山金峰山寺蔵王堂、京都の愛宕神社、三重の伊勢神宮。



1社につきそれぞれ2本ずつ振り出す。

2名を確かめて読みあげる。



神意で当たった人たちは一年前に授かったお札を受け取って代参する。

フリアゲ神事の正式名称は「代参振分(だいさんしんぷ)」である。



これらが終われば纏めた松苗を6垣内の代表者が持ち帰り各戸に配られる。

松苗は5月GW中にツツジ花を添えて苗代水口に立てる。

かつて村で火事が発生した。

それがきっかけで火伏せの神さんである京都の愛宕神社も代参するようになったという。

決まった代参の人たちは3月から5月連休にかけて都合のいい日を二人で選んで出かけるようだ。

ちなみに9月1日は八朔。

鯉ドーヤ(当家或は當家とも)が担う。

(H27. 3. 1 EOS40D撮影)

天理北店プライスカットの玉子たっぷり寿司セット

2015年12月09日 12時00分43秒 | あれこれテイクアウト
高樋町で行われた祈年祭。

集会所でしばらくの時間は直会だ。

その間は取材者も昼食を摂る。

当地へ来るまで先に天理北店プライスカットで仕入れておいた弁当を広げる。

天理北店プライスカットは天理市の別所町にある。

高樋町よりそれほど遠くない天理街道沿いにある。

およそ5km間の距離だ。

店内に入って品定めをする。

いろんな弁当もあるが無性に寿司を食べたくなった。

多くはいらない。

あれこれ悩んで選んだ玉子たっぷり寿司。

巻き玉子、玉子にぎりもあれば巻き寿司も。

ちらし寿司にはやや厚めの玉子も乗っている。

食事処といえばいつもの車中食。

前夜から降り出した雨はやまない。

空気も冷え込んでいる。

あったかーい弁当も良いが温める機械は車にない。

冷めて美味しい寿司と思ってこれにした。

ちらし寿司はやや薄め。

というよりも甘さがある。

子供や婦人向きの味だが、不味くはない。

どれもこれも玉子たっぷり。

美味しくいただいた玉子たっぷり寿司は税込みで303円。

お腹を満たすにはこれくらいが丁度いい。

なお、「袋は要りません」と伝えたら2円引き。

お得な買い方である。

(H27. 3. 1 SB932SH撮影)

萱森天落神六社権現参拝

2015年12月08日 09時19分03秒 | 桜井市へ
桜井市の萱森。

何年か前に通りがかったときのことだ。

天落神六社権現に数人の人が居た。

神職が祓う幣を見たことがある。

時間がないので記憶だけの3月1日だった。

もしかとすればこの日だと思って出かけたが姿は見られない。

ところが赤い傘が動いた。

思わず車から飛び出して後を追う。

そこへやってきた二人連れの男性。

一人は存知しているHさんだ。

石仏を探していたという二人連れ。

連れの人はブログ「石仏み~つけた」を主宰するNさん。

奇遇な出会いに話題が盛り上がる。

その場にやってきたもう一人の男性は天落神六社権現社や線刻の宝篋印塔が見られる岩にもお参りされて手を合わしていた。

お話を伺った男性は榛原高塚の八咫烏神社氏子のMさん。

榛原伊那佐(比布か)がお住まいでときおり出かけては参拝しているという信心深い方だ。

高塚参りも存知しているようだが住まいの大字はそこではないようだ。

八咫烏神社の神職は存知している。

随分前のことだがススキ提灯の写真をフリーパーペー『やまとびと』に提供したことがある。

その後において神社を訪れたときにおられた神職は編集人だった。

出会いはここにもあったのだ。

いつかは高塚も含めて伊那佐界隈の伝統行事も取材したい。

男性とはいつかまた出会うことであろう。

(H27. 3. 1 EOS40D撮影)

八田伊勢降神社御田植祭

2015年12月07日 07時30分09秒 | 田原本町へ
田原本町八田に鎮座する伊勢降神社。

道路に面した処に建つ常夜燈がある。

左側に燈明講中の刻印。

右は二月吉日だ。

台座には「世話人 當村 安井源兵衛 合場村 山中惣三郎」に名が刻まれている。

つい先日に話してくださったSさんによれば、「安井源兵衛」は、200年前、京都の巨椋池に15町の土地を買ったという八田一番の地主だった。

常夜燈左横に砂を盛った小山がある。

それをSさんは「源兵衛山」と呼んでいた。

これもまた寄進なのである。

本殿下にある古い灯籠にも刻印があった。

「寛永三年(1634) 奉寄進伊勢振社 御□□昌所 九月吉」とある。

おそらく神社年代記を示す一番古い灯籠であろう。

神社名は現在の伊勢降ではなく伊勢振社であった。

八田(はった)の御田植祭は2月の不定期日。

Sさんが云うには、だいたいが26日から28日の間。

私が知るここ数年の範囲内では28日が多いように思える。

伊勢降神社の祭祀を勤める3人の宮守のうち年長の人が村神主。

宮司を先頭に家からお渡りをしてきた。

烏帽子を被り白装束姿の人が年長の村神主だ。

その後ろにサカキを手にした老人会会長がつく。

後方でホッカイを担ぐのは垣内の廻り当番。

御供や松苗を収めている。

神社に到着した一行は本殿前に並んで祓えの儀。

それから拝殿に登って神事が行われる。

御供の献饌、祝詞奏上の次が御田植所作になる。

幣と注連縄を取り付けた長さ2mぐらいのカシの木を手にする宮司。

カシの木の先は二股になっている。

「牛」の角に見立てたカシの木である。

「牛」を手にして立ち上がる。



少し前に出して拝殿床にトンと打って一歩進む。

時計回り周回しながら作法を繰り返す。

拝殿を神田に見立てて田んぼを耕す「牛遣い」の所作は、徐々に中央へ寄っていくように見えた。



宮司、村人がいうには御田植の所作は昔から変わりないと云っていたが、それは江戸時代からそうであったのかどうか判らない。

所作の次の玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた。

神事を終えたら奉った松苗を垣内の戸数分に分ける。



束にして垣内の代表者が持ち帰って各戸に配る。

このときにはモチ(一個)も配る。

いわゆるゴクモチである。

村で稲作をしている家ではGW連休明けにイロバナとともに水口に立てているという。

その場が集中しているのは神社の西側。

その時期ともなれば数戸が立てているという。

ちなみに農家でない家は神棚に松苗を奉るらしい。

(H27. 2.28 EOS40D撮影)

八田のこと

2015年12月06日 09時18分40秒 | 田原本町へ
もしかとすればこの日にされるとも聞いていた八田の御田植祭。

祭典に就く前に松苗や御供を唐櫃に納めて運ぶ村神主らのお渡りがある。

この日は雨降り。

お渡りはされることはないだろうと思いながらも出かけた田原本町の八田。

云うまでもなく、気配がなかった。

やってきたのは軽トラに乗ってきた男性。

神社ではなく鳥居向かいにあるハウスだった。

男性は以前にお見かけした人だった。

懐かしい顔に誘われてハウスで迎えてくれた。

男性が云うには今年の日程は28日

村の通信がそう伝えていたそうだ。

昭和6年生まれのSさん84歳。

かつて宮守を勤めたことがある。

今では悠々自適で自前のハウスで野菜などを栽培している。

八田の神社は伊勢降神社。

官幣大社の小社に挙げられたこともあったそうだ。

同名の伊勢降神社がもう一カ所に鎮座している。

国道を挟んだ西隣の天理市庵治町に鎮座する。

庵治町の伊勢降神社が女神で八田は男神だという両伊勢降神社であるが、庵治町の女神さんが男神の八田から分社したそうだ。

八田(はった)は150戸の集落。

東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内である。

西八田に常宝寺がある。

伊勢降神社より北方にある常宝寺は奈良市の律宗唐招堤寺の末寺。

石見公(いわみこう)が寄進して創建したと唐招堤寺古文書に記されているらしく寺の由緒書に記しているそうだ。

石見公という人物はどこのだれであるのか判らないと云う。

もしかとすればだが、三宅町に石見(いわみ)の地がある。

そこに住んでいた石見公と考えてみたが・・・。

Sさんが所有する古地図がある。

それによれば八田伊勢降神社より東北方角に向かう道筋があるらしい。

天理市の合場の地である。

その道は八田が所有する地であったそうだ。

なんらかの事情があって道は合場になった。

代償に合場が所有する畑地を八田に譲った。

交換条件である。

そのことが関連しているかそうか不明であるが八田伊勢降神社に寄進された燈籠に合場の「ジンベエ」の名が刻まれているそうだ。

所有する古地図には「ダイモン(大門)」とか「テライリ(寺入)」、「ハカマエ(墓前)」が記されているらしい。

いわゆる小字名である。

地図で思い出されたSさん。

八田には豊臣秀吉時代に作られた「検地帳(天正十九年か)」があるそうだ。

検地したのは秀吉でなく配下の奉行だったようだ。

今でも村総代が大切に保管しているらしい。

八田伊勢降神社に出仕されて神官は田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社宮司。

八田の神事を勤めている。

宮司が勤める郷社に田原本町の八田をはじめとして唐古、小阪、鍵や天理市の海知町、武蔵町がある。

元々の八田は法貴寺の郷社関係でもない、唯一の郷社だった。

明治時代に入ったころかどうか判らないが法貴寺から頼まれて郷社入りをしたそうだ。

その件について話すSさん。

八田の宮司は江戸時代末期まで二階堂(上之庄)の廣井氏だったと話す。

その関係かどうか判らないが、費用持ちは他村よりも半額という条件で郷社入りをしたようだ。

今でも会計はそのようになっていると話す。

Sさんとの話題は広がる。

「デンダラ」を知っているかと云われる。

「デンダラ」は水屋箪笥。

なぜに「デンダラ」と呼ぶのか判らないという。

「ダラ」は水屋箪笥の棚では・・・と云う。

もしかとすれば「デン」は「膳」であろう。

県内各地で行事に供えられる御膳(ごぜん)がる。

れを「オデン」とか「デン」と呼ぶ地域がある。

「オデン」は「御膳」が訛った表現だ。

「デン」は「膳」のことである。

こういう事例を知っていた私は「デンダラ」は「膳棚」をそう呼んでいたのであろうと思った。

そのことを伝えたSさん。

謎が解けたと笑顔になった。

そういえば前年に訪れた八田で懐かしのポン菓子が販売されていた。

村で喜寿(77歳)や米寿(88歳)の祝いにたくさんいただいたと云う砂糖。

これとお米を提供してポン菓子を作ってもらう。

何人もの祝い人がおれば祝いの砂糖がたくさんになる。

消化するのに最適なポン菓子の材料に消えていく。

「そんなことをしているのはうちの村だけでは・・・」と話すSさん。

県内各地の行事や風習を取材しておればそうでもないことに気がつく。

大和郡山市の長安寺町でもまったく同じように米寿祝いに二袋の砂糖を各戸に配る。

桜井市の小夫嵩方では随分前に廃止になったが、当時の祝いは箸であったと聞く。

廃止された現在は神社に奉仕料として供えるそうだ。

また、宇陀市室生下笠間ではオボン(盆)、チョウシ(銚子)、メシジャクシ(飯杓子)<一般的にはシャモジ(杓文字)>などが配られていた。

今では祝いの品を配ることのない村の風習だ。

Sさんも聞いていた他村はシャモジだった。

「いまでもそんなことをしているのか」と云われたことがあると話す。

Sさんは84歳。

米寿になるころに意見を述べて砂糖の量を減らしたい考えがあるという。

風習は大切なものであるから中断することは考えていない。

大量になる砂糖の量を減らす改善だと云う。

そんな話題も提供してくれたS家は富士講の一員。

五人組みになるそうだ。

講員は新旧交替しているが、昔から勤めているのは私一人だけだと云う富士講の集まりは、今でも一月、五月、九月に廻り当番の家で掛軸を掲げて灯明を灯すそうだ。

「富士山」の文字がある掛軸には猿も居る。

紛れもない富士講を示す掛軸を拝見したくなって取材をお願いした。

かつての集まりには料理膳も出ていたそうだ。

支度がたいそうになってご馳走は取りやめたが、掛軸を掲げて手を合わすのは今でも続けているという。

掛軸は他にも大峰、役の行者・不動尊を描いた掛け図があるという。

八田には富士講以外に庚申講や伊勢講もあったそうだ。

庚申講は解散して守ってきた掛軸は性根を抜いてお寺さん(西方寺かも)に預かってもらった。

伊勢講は掛軸を掲げることもなく会費だけは集めている。

貯まった会費は講中の奥さんも連れて旅行に行くように改定したら、「たいそう喜ばれて」と云った。

(H27. 2.26 記)

高樋町の行事

2015年12月05日 08時39分38秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
2月10日より開催されていた「山の辺の道<奈良道>を守る会」主催の「第2回フォトコンテスト入選写真展会」会場で高樋町の自治会長を紹介された。

自治会長は神社総代も兼任する。

お会いしたその日、是非とも村の行事を取材してほしいと願われた。

早いうちに下見を兼ねた聞取りをいたしたく訪問した。

訪れた時間帯は夕方近い。

仕事を終えて戻ってこられた自治会長は早速地域を案内してくださる。

まずはお寺さん。

細い道をぐぐっと急坂・急カーブを登れば本尊薬師如来坐像を安置する瑠璃山安明寺に着く。

ご紹介してくださった住職は自治会長らとともに地域を盛り立てようと尽力されているチームメイト。

本尊は快慶作と考えられている。

安明寺の創建は正暦三年(992)であるが、中世に戦乱などで荒廃する。

嘉永七年(1854)6月15日に発生した伊賀上野大地震で本堂が崩壊。

門跡寺院圓照寺宮文秀女王が孝明天皇などからの下賜金を基に門跡寺院円照寺の学問所として慶応三年(1867)に再興された。

「山村御殿の学問所再興には門跡が籠に乗って来てくれた」とお二人が云う。

本堂から見下ろした境内に桜がある。

地元有志の奉賛会が20年前に植樹された桜は大きく育ってくれたと笑顔で話す。

高樋町は7垣内。

安明寺垣内に寺山、南、中、北、東、西垣内である。

なお、東、西垣内は茶屋があったことから柳茶屋とも呼ばれている。

五ケ谷精華地区はほとんどが藤堂藩。

高樋町だけが柳生藩になるという。

本堂は平成元年に改築された。

屋根に光り輝く16花弁の菊のご紋がある。

高樋町に二つの神社がある。

一つは春日神社で、もう一つは舎人(とねり)神社である。

写真は春日神社。

12月1日に懸けた注連縄が美しい。



手前に建つ灯籠には「宮座中」とあった。

かつては宮座制で営まれていたに違いないが、寄進年代は不明だ。

春日神社の直近行事は3月1日

昼前に春日神社の祈年祭が行われたあとに社務所で直会がある。

自治会長、総代らの挨拶を経て乾杯する。

それから1時間は直会の会食。

「えーころになったらフリアゲをする」という。

高樋町は89戸。

フリアゲで決める代参はすべての村人が対象者ではなく、およそ80戸が対象になる。

フリアゲは京都の愛宕山、大阪・奈良県境にある金剛山の寺、三重の伊勢神宮、春日大社、吉野の蔵王堂など五社寺に参ってお札を拝受する代参者を決める。

代参者は予備も入れて10人。

80戸から選ぶことになるから8年に一度の廻りだ。

まだ、当たっていない人の名を書いた細い竹は四角い箱の中に納めておく。

その箱をカタコト振って竹を取り出す。

これをフリアゲと呼んでいる。

出てきた竹を取り出して副会長が世帯主の名前を読みあげていると話す。

もう一つの舎人(とねり)神社の春マツリ行事は4月第一日曜日。

朝から神社周りを清掃して11時に式典が行われる。

昔はこの場で盆踊りをしていた。

ゴクマキもあった。

モチマキのモチには五円玉、十円玉を入れていた。

神さんが降りてくる人がお告げをしていたというが、今では会食だけのようだ。

秋のマツリは白装束姿でお渡りをすると話していたので近いうちに取材したいものである。

ちなみに高樋町で雲母を採取することができたそうだ。

その場所も探してみたい。

(H27. 2.24 EOS40D撮影)

サンヨー食品十和田バラ焼き焼きそば

2015年12月04日 09時16分37秒 | あれこれインスタント
一週間前に車中食した明星大盛ぶぶか特製にんにく醤油豚骨らーめん。

イオン大和郡山店で買っていたカップラーメンだ。

その日は本日いただくサンヨー食品十和田バラ焼き焼きソバも買っておいた。

いずれも特売だったラーメンは初もの。

萱森の行事取材を終えて奈良市別所町や高樋町に出かける午後の取材。

昼食するカップ焼きそばはB-1グランプリを獲得したそうだ。

ご当地グルメを袋麺で売っている賞品は見たことがある。

値段はといえば割合高め。

一般的な袋麺よりも高い。

カップ麺ならぐんとお安くなる。

味はどんなものだろうか。

興味が惹かれるネーミングに「十和田バラ焼き」が気にかかる。

バラ焼きとは何ぞえである。

「十和田バラ焼き」は2009年に「「十和田バラ焼きでまちを元気に」という合言葉で結成された市民ボランティアが開発したようだ。

カップ裏面に書いてあった「バラ焼きはほどよく熱した鉄板に醤油ベースの甘辛いタレで下味をつけた牛バラ肉と大量のタマネギをじっくり。タマネギがあめ色になるまで焼きしめる」とあった。

開発といっても地元では昭和30年ころに誕生したメニューのようだ。

お湯を入れて3分間待つ。

お湯捨てしてからドロっとしたタレを麺に落とす。

落とすというよりも絞りだす、である。

タレを麺に絡めて特製のにんにく風味の七味ふりかけをパラパラ。

香りが漂ってきた。



今まで体験したことがないような香りだ。

どことなくスジ肉をたっぷり煮込んだような感じ。

どちらかといえば脂の臭いがキツいのだ。

悪臭ではないがバタ臭い香りである。

麺はややぐらいの中太。

ガツン手前の噛みごたえのある麺にタレが絡んで口に入る。

七味がパンチを利かせているが、にんにくの香りは感じない。

で、メインの牛バラ肉の味はといえばオモシロイである。

二日経っても味を覚えている十和田バラ焼き焼きそば。

癖になりそうだ。

(H27. 2.24 SB932SH撮影)

萱森高龗神社御田植祭

2015年12月03日 09時20分36秒 | 桜井市へ
2年ぶりに拝見する桜井市萱森の御田植祭。

ごーさん札の文字は正されたのか確認したかった。

2年前の頭人は引継ぎが誤っていたのか「牛王」と墨書すべきところを「牛玉」になっていた。

それが気になっていた。

書は「牛王」だった。

正常に戻っていたごーさん札に一安心する。



寶印を押したら昨秋のマツリに献じた洗い米を注ぐ。

ごーさんはオヒネリにして御田植祭に供える。



祭壇に置かれた御田植祭の諸道具。

一木造りの牛頭の面、スキ、二種のヒラグワ、カラスキ、マングワ。



「ナエ」と呼ぶ稲の穂を添えた芽吹きのネコヤナギの木、麻と呼ばれるヤマウルシのごー杖、ドモカンサの木で作った弓、矢に竹で編んだ鬼の籠もある。

ドモカンサはニシキギの木とも呼ぶマユミ(檀)の木である。

赤い実をつけるドモカンソはF家の竹ヤブにあった。

今年は見つけることができずに代用の木を使ったと話す。

萱森の御田植祭は高龗神社拝殿内で行われる。

神事に供える御供がある。

一際大きいモチは2段重ねの鏡餅。

施主は3升1臼搗いたそうだ。

スキで畦切り。



ヒラグワでクワ打ち。

いずれも時計回り。

次に登場した牛使い。

カラスキを曳いて田を起こす。

「ちゃいちゃい」と云って綱を引けば「モー、モー」と鳴く牛役。



反時計回りに一周。

一木彫りの牛面の内部は空洞でなく重たい。

手で抱えて所作をする。

マングワに替えて再び登場する牛。



ヒラグワで水田を均してから「ナエ」を植える。

御田植祭を終えてから数か月。

田植えの日を迎える。

この日に授かったナエを田んぼに運ぶ。

ナエは田植えを始める場に横倒しに置く。

コメバナと呼ぶユキヤナギやツバキのイロバナを添えて田植えをすると話していた。



田植えが終われば村から悪霊を追い出す鬼打ち儀式が行われる。

宮司が天、地、東、西、南、北に向けて矢を射る。



とどめは鬼の的。

拝殿の隅に置かれた鬼の籠を目がけて真正面から射抜く。



平成25年に取材した記事をここに挙げておく。

(H27. 2.24 EOS40D撮影)

小夫嵩方天照皇大神社の祈年祭

2015年12月02日 07時35分32秒 | 桜井市へ
桜井市の小夫嵩方は大字小夫の分かれの村。

隠居の村と呼んでいたのは老婦人だった。

1週間前に小夫の天神社で祈年祭の御田祭が行われた。

隠居の村の分のハナカズラや松苗も供えて神事が終われば小夫嵩方の天照皇大神社に運ばれる。

いつ運ばれたか存知しないが、2月20日に訪れたときは神社回廊に置いてあった。

ハナカズラは13本。

村の戸数分である。

祈年祭には初老・還暦・米寿を迎えた氏子を祝うトシイワイがある。

今年のトシイワイは対象者がなくて、祈年祭だけになった。

昨年末に亡くなられた住民は米寿直前だったそうだ。



親戚筋にあたる家は参拝もできないが、四十九日を過ぎておれば神職の祓いを受けて参拝できる。

階段下で祓ってもらって上がるが、暗闇の撮影ではピントも合わず、ストロボ発光しても難しい。



小夫嵩方の献饌は神事前に行われる。

県内事例では珍しい在り方だと思える。

手水で手を洗い清浄な身体で拝殿に登る。



神事は修祓、祝詞奏上など一般的な作法であるが、小夫嵩方に贈られたハナカズラや松苗も祓ってくださる。

神事を終えればそれを持ち帰る。



田植え初めに田んぼの端に置く家は数軒がしているという。

神事を済ませた氏子たちは社務所で直会。



会食の最後に出汁湯を注いだにゅうめんの汁椀を配膳する。

(H27. 2.22 EOS40D撮影)