マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

成願寺の牛の舌餅御供

2016年01月12日 07時37分25秒 | 天理市へ
何十年も前のことだ。

氏子たちから度々聞く雪が降った年のちゃんちゃん祭。

お旅所はとても寒かったと話していた。

雪は降らなかったが、この年は朝から降り続く雨天日だった。



成願寺町頭屋家の門神飾りのお供えは透明シートを被せていた。

降り続く雨にちゃんちゃん祭の神輿渡御はやむなく中止されたが、各大字の頭屋とトーニンゴによるお旅所神事は行われたと聞く。

「いつもならカメラマンがごっそりやってくるんやけど、今日は誰一人も見なかったな」と話す神社総代ら。

渡御をされなかったことから還幸祭は例年より2時間ほど早めて行われていた。



神事を終えて大幣をいただく成願寺頭屋はほっとした顔つきになっていた。

そのご苦労さはよく判る。

その場すぐ近くに居られたのは大字兵庫の二人だ。



かつて勅使を受け入れていた特定家は成願寺町頭屋家が奉った牛の舌餅を御供下げされて受け取る。

受け取った特定家は傍に居た兵庫の人足に餅を配る。



ありがたく受け取った人足の顔に笑みがこぼれた。

この年は大字兵庫の子供が演じる龍の口舞や大字新泉の翁の舞も所作されなかったが、新泉が打つ太鼓の音によって解散された。



成願寺人足は空っぽになったホッカイこと御供箱を担いで帰路につく。

ちなみに、本日授かった大幣は家に奉って翌年のトンドで燃やされる。

今年の調査は大字成願寺一本に絞って一連の在り方を拝見した。

大字萱生、中山、岸田は翌年に持越した。

(H27. 4. 1 EOS40D撮影)

成願寺のちゃんちゃん祭宵宮参り

2016年01月11日 09時20分27秒 | 天理市へ
連日訪れた天理市成願寺町の頭屋家。

ちゃんちゃん祭の宵宮に参る順番は毎年替わる。

大和神社に向かう各大字のほとんどが成願寺町の街道筋を行かねばならない。

成願寺が出発するまでの時間帯。

長柄の人たちが通り過ぎる。

その間の頭屋家は大和神社に捧げる御幣の米御供を調製していた。



2本の青竹に差し込む大幣。

そこに括り付ける米御供は大きなものもあれば小さなものも。

鈴なりのようになった米御供は他の大字には見られない。

調製中も通り過ぎていく大字兵庫や三昧田、佐保庄を屋内から見ていた。



同時間帯は牛の舌餅も調製する。

束ねた牛の舌餅をヒモロギで括って揃える。

牛の舌餅は御供箱に納めて運ばれる。



その箱周りに張る注連縄。

大和神社から授かっていた紙垂を取り付けるが枚数は不足して作業は中断する。



そろそろ出発するかと思えて屋外に出たときだ。

中高生ぐらいの子供が漕ぐ自転車数台が街道筋を駆け抜けていった。



成願寺町の頭屋家を出発する3人の人足は垣内の若い人。

宵宮参拝に出かける前に成願寺の氏神さんを祀る素盞嗚神社に向かう。



手にしているのは前日に搗いた吉野御供。

風呂敷に包んでいた。

街道筋で出会う町内の人たちに見送られて南へ向かう。



頭屋家は北垣内。

神社の所在地は南垣内。



移動距離は500mもある。

成願寺の素盞嗚神社はかつて天皇社と呼ばれていた。



神社灯籠に「奉寄進 牛頭天王御神前 川畑清蔵 天和二年(1682)七月八日 成願寺村」の刻印が見られる。

牛頭天王を祀る天皇社である。

素盞嗚神社に併設されたという八王子社がある。

かつて、成願寺の東北の地にあった八王子社は明治維新の際に素盞嗚神社境内に遷したと伝わるが、社殿は見当たらない。



鳥居を潜って吉野御供は氏神さんの素盞嗚神社石段に供えた。



3人の人足は揃って拝礼する。

次は南に向きを替えて頭を下げる。

頭を下げた方向は吉野の方角。



水の神さんを崇める東吉野村の丹生川上神社中社<※大正十二年までは蟻通神社>へ吉野御供を届け、参っていたと伝わるが、大和神社の宮総代を務める北垣内の長老もその記憶はなく、見たこともないという。

伝承によれば丹生川上神社参拝を終えた人足は供えた吉野御供を持ち帰り、地区に配っていたそうだ。

今日では氏神さんに供えて参るようになった。



参拝を済ませて頭屋家に戻っていく人足は下げた吉野御供を抱え持つ。

帰りは風呂敷に包んでいない。



戻る途中に出会う町内の人に御供をさしあげる。

以前は子供たちが吉野参りを済ませた御供配りを待っていたそうだ。

子供も少なくなった昨今。

明日の祭りの準備をしながら待っていた大人に手渡す、しかないようだ。



たたまた遊んでいた子供に餅をあげようと声をかけたら寄ってきた。

素盞嗚神社の吉野御供参りを終えた成願寺町の頭屋家は人足とともに大和神社へ向かう。



宵宮参拝に米御供御幣を奉る。



神事を終えたら代わりに産子幣を授かって頭屋家に戻ってくる。



翌日のちゃんちゃん祭の還幸祭に供える牛の舌餅をホッカイとも呼ぶ御供箱に詰め込んだ。

足らなかった紙垂は宵宮参拝のおりに貰ってきた。



注連縄を張って四方に紙垂を付けて祭り用具の調製を終えた。

これらを確認された頭屋家ならびに人足たちは満足顔で解散されたが、明日は雨になるかも知れない。

(H27. 3.31 EOS40D撮影)

成願寺のちゃんちゃん祭の御供餅搗きの日

2016年01月10日 09時16分01秒 | 天理市へ
これまで何度か取材したことがある大和神社のちゃんちゃん祭。

昨年のことである。

還幸祭に戻る渡り行列についていく人足に遭遇した。

御供箱をオーコで担ぐ人足は大字成願寺町の人だった。

御供箱に墨書された文字は「寛永貮拾壹年(1644) 大和大明神 卯月朔日成願寺村」だった。

372年前から今でも祭りに使っている箱を地元では「ホッカイ」と呼んでいた。

充てる漢字は行器であろう。

これには還幸祭に供えられる牛の舌餅と呼ばれる御供餅が納められていた。

餅は大字の頭屋家で搗く。

その家を探していた。

餅粉に塗れた板を掃除していた家があった。

そこには大和神社を表記した門神のお飾りを立てていた。



この日のお供えは塩、洗米、水にシイタケ、コンブ、インゲンマメだった。

この年の頭屋家は門神さんの飾り付けで見つかる。

天理市の成願寺町は大和神社一の鳥居前の街道筋にある大字。

江戸時代に発展した上街道(初瀬街道若しくは長谷街道とも)であるが、かつては古代の街道の一つに挙げられる上ッ道である。



この年の大字成願寺町の頭屋家は北垣内。

前年は東垣内で翌年は南垣内。

次の年は西垣内になる垣内廻りの全容を拝見するには4年もかかる。

ちなみに新町は入氏子ではないことから廻り垣内に該当しない。

御供餅は二種類ある。

大和神社に供える牛の舌餅と吉野参りに供える吉野御供と呼ばれる餅である。

着いたときには既に終わっていた。

木臼に杵で搗いていた。

一息ついた北垣内の住民はキナコを塗したテイワイモチ(手祝餅)をよばれていた。



香りがいいキナコモチは柔らかめ。

杵で搗いたから美味しいという。



餅搗きを終えた垣内一同は大和神社に参拝する。

「御供餅搗きを終えました。明日は宵宮、明後日のちゃんちゃん祭が無事に終わりますように・・」と願って拝礼する。



ちなみに成願寺町にはトーニンゴは存在しない。

牛の舌餅が主体であるからトーニンゴは古来より免除されているという。

かつては成願寺町に頭屋講があった。

一の鳥居からずらりと並べた竹を渡すように立てていた。

縦の長さが270cmぐらいもあったという。

それを「シンダテ」と呼んでいたが、何代か前の当主がこの地に建てたときにはすでに衰退していたと話す。



大和神社の参拝を済ませた一行は搗きたての吉野御供を置いてある頭屋家でもてなし料理をいただく。

いわゆる直会である。



今では主料理がオードブルになっているが、かつては生茹のカマスゴとカマボコだけが肴だったという。

カマスゴは稚魚イカナゴの成魚。

もっと大きくなったらカマスになると思っている人は多い。



カマスはスズキ目サバ亜目のカマス科。

カマスはスズキ目ワニギス亜目のイカナゴ科。

魚の種類が違う。

カマスゴを食べるのが苦手で辛いんやという人も多く、一尾で「堪忍してや」といいながら食べていた。

頭屋家の床の間に掛軸がかかっていた。



「トコガミ」と呼ばれる神さんは一年ごとに垣内で廻される。

頭屋家で掲げる「トコガミ」は大和神社の祭神である(日本)大國魂大神、八千弋大神、御歳大神の三神。

23日の宮入の日に掲げたという。

「トコガミ」はそれほど古いものではなく、戦後数年経った昭和30年(32年かも)に新調されたようだ。

ということはもっと古いものがあったはずだ。

ちなみに「トコガミ」はちゃんちゃん祭を終えたら次当番の垣内に引き継がれる。

掛図を下ろして講箱に納めて引き継ぐようだ。



御供餅搗きを終えた頭屋家に「こんなのがあるんや」と紹介してくださったガラス瓶。

それには「お医者がススメル滋養のお菓子 乳菓カルケット 一包一○セン」の凹み文字があった。

瓶を整形する際に作られるエンボス加工である。



もう一つの面には「ビンハ常ニ店頭ヘ 品ハイツモ一パイニ」の文字がある。

調べてみれば大正時代に中央製菓が発売したカルシウム入りビスケットを入れていた瓶だった。

かつて頭屋家は街道筋で乾物のほかいろんな商品を売っていたなんでも屋さんだった。

店はやめたが瓶は果実酒作りで再利用をしていた。

ところで、「十銭」で売っていた時代はいつだろうか。

「そんなん記憶がないで」という住民たち。

調べてみれば、「銭」の時代は昭和28年末までだった。

かつてはボンネットバスが通っていた上街道筋で商売をしていた頭屋家。

テイワイモチをいただいていた場で目線を上げた。



そこには網目が大小さまざまなトーシを架けていた。

粗い目もあれば細かい目もある。

奥さんの話しによれば今でも使っている現役ふるいのトーシ。

横から見れば文字があった。



下ろしてもらって拝見した文字は墨書で「山辺郡朝和村学校前 □□ 昭和22年7月新調」とある。

戦後間もないころに作られたトーシであった。

他のものも昭和22年の記銘墨書がある。

カルケット瓶もそうだが、これもまた頭屋家のお宝だと思った。

(H27. 3.30 EOS40D撮影)

ツバメの番い争い

2016年01月09日 09時56分06秒 | 自然観察会(番外編)
天理のあるトーヤ家にツバメがやってきた。

以前からあるツバメの巣がある天井にむき出しのガイシや電線。



そこに留まっていた二羽のツバメにもう一羽のツバメが飛んできた。

鳴き叫んでツバメが追い出しをはかる。



何度もやってきては追い出す。

メスツバメの取り合いのように思えた。

(H27. 3.30 EOS40D撮影)

桐山戸隠神社造営正遷宮

2016年01月08日 09時32分17秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
20年前の平成7年3月28日に正遷宮を行っていた山添村の大字桐山。

氏神さんを祀る神社は戸隠神社だ。

現宮司は隣村の奈良市丹生町の新谷忠氏。

前々回の仮殿遷座は昭和50年2月26日。

本殿遷座は昭和50年3月28日であった。

当時の宮司は奈良市丹生町の新谷一氏。

現宮司の父親であろう。

前々回の昭和30年3月に仮殿遷座が、同年4月2日には本殿遷座された印の棟札が残されている。

当時の宮司は前儀一郎の名であった。

それより以前の明治43年12月15日に仮殿遷座。

本殿遷座は明治44年3月7日であった。

社掌の名は谷垣傳重郎であった。

こうした史料から丹生町の新谷家宮司による祭祀に移り変わったのは前回々の昭和50年辺りである。

戸隠神社には遡ること280年前の棟木が残されている。



元文二年丁巳(1737)の棟木に書いてあった神社名。

当時は九頭大明神社と呼ばれていた。

同棟木に「阿闍梨法印宥盛」の名が見られる。

かつては僧侶によって行われていた証しである。

大正四年の宮座調査によれば明治の神仏分離までは隣村の奈良市北野山の明王院住職が遷宮をしていたようだ。

奈良県東部山間では20年ごとに本殿を建て替えるゾーク(造営;式年造替)儀式を行う地域は数多い。

山添村桐山では20年目だが、同村大字広代は10年おきだという。

同じく大字菅生は12年ごとだ。

旧都祁村の上深川では18年。

山添村大字片平も同じ18年周期だ。

地域によって周期が異なるゾーク(造営)祭典には村を出た外氏子も参拝され賑やかになる。

この日は天手力男命を祀る戸隠神社の正遷宮。

翌月4日には造営奉祝祭も行われるので、是非来てほしいと造営委員長らに願われて撮影に入る。



風雨にさらされることのないように建て替えた簀屋根で覆った本殿は天手力男命を主神に春日大神も相殿する。

末社は春日若宮神社、秋葉神社、杵築神社の三社。



一の鳥居や二の鳥居など、鮮やかな朱塗りが美しい。

昨年のマツリにはまだできていなかった玉垣も綺麗になっている。



下遷宮が行われ、一旦は社務所におられた神さんはこの日の夜の正遷宮斎行によって戻られる。



正遷宮神事は、はじめに修祓、斎主一拝、仮殿開扉、仮殿祝詞奏上。

次に本殿遷座祭が行われる。

還幸準備に粛々と氏子が動く。



白い手袋をはめて白いマスクをする。

耳にかける部分はヒモロギ。

予め配られたときに調整をしていたから手際よく進められ、氏子たちは難なく境内に降りた。

社仮殿がある社務所前に設えた神隠し。

白い布で覆ったヒトガキは4人がもつ。



神遷しは社務所などすべての灯りを消す。

足元を照らすのは懐中電灯だけ。

かつては提灯だったと話す。

氏子ら一同が「ヲーー」と警蹕を発声しながら本殿下の拝殿に移動する遷幸の儀式は撮影禁ず、である。

この映像は神遷し前の状態。

神さんは写っていない。

神さんは氏子が持つ白い幕のヒトガキに隠されて遷される。

神職が伝えていた神さんを遷していく際の衣笠。

それも準備されていたが見ることはできなかった。

主神(天手力男命)、春日大神の四柱(茨城県鹿嶋市鹿島神宮/千葉県香取市香取神宮・大阪府枚岡神社<天児屋根命・比売御神>)、末社三神(春日若宮社・秋葉神社・杵築神社)も本殿に戻されてようやく点灯する。



本殿献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、御扉閉扉、斎主一拝、退下されて正遷宮を終えた。



神さんは本殿に遷られたあとの仮殿には、後日に本殿内に納められる天蓋が吊るされていた。

神事を終えた氏子たち。



いつものように御供モチを押し切り機械の大きな刃で切り分ける。

炭火に火を点けた囲炉裏でモチを焼く。



そこにはこれもまたいつものように大きなサバを焼く。

これらをいただき直会に移る。

来月の4日は「造営奉祝祭」が行われる。

(H27. 3.29 EOS40D撮影)

桐山のねはんこ

2016年01月07日 09時34分15秒 | 山添村へ
山添村桐山で「ねはんこ」が行われると知ったのは3年前。

仕事や行事取材が重なって取材ができていなかった。

子供たちが「ネハンコンジ アズキナナショウ」を囃して村を巡ってお米貰いをすると聞いていた。

5歳ぐらいから小学6年生までの年長の男の子が対象だと話していたN婦人。

70年前のことを思い出した。

当番のヤド家でゲントウ(幻燈)をしていた。

夜遅くまでみんなが見ていたと話す。

今ではヤド家の営みから場を公民館や観音寺に移った。

観音寺の堂内に大きな涅槃図を掲げているのは檀家総代や観音講の人たち。

いずれも高齢者である。

かつては男の子だけで行われていた桐山の「ねはんこ」。

行事は「ねはんこ」の呼び名であるが、本来は涅槃講の営みである。



村全戸の27戸が講中であった涅槃講の始まりは宝永七年(1710)二月十五日であったと藤堂藩藩士の日記に書いてあるそうだ。

少子化に伴って男の子は少なくなり、やむなく女の子も加わるようにした。

いつしか村の子供も少なくなり今では大字北野にある頼みの保育園児が観音堂にやってくる。

お米貰いの本来の唱文は「ねはんコンジ、コンジ ねはんコンジ、コンジ 米なら一升 小豆なら五合 銭なら五十銭(または豆なら一荷)」であった。

「コンジ」は「献じ」或は「顕示」であるかも知れない。

今でも「ねはんコンジ コンジ ねはんコンジ コンジ」を繰り返していたことを覚えている長老は91歳。

集落1戸ずつ巡って野菜とかを貰っていたのは男の子だけだった。

当番の家に貰ったものを持っていってご馳走を作ってもらった。

長老は続けて話す思い出話。

桐山には水車があった。

そこでコメツキをしていた。

搗いた米は一斗缶に入れて運んだ。

運ぶ道具はオーコだったから何人かが居たのだろう。

運んでは戻ってしていたコメツキだった。

長老が住む垣内は山の上のほうにある大久保。

荷車をこしらえて牛に引っ張ってもらっていた。

荷車にソリが付いていた。

昔のことである。

下り坂はソリで下った。

勢いがあるのでブレーキ付きのソリだったという。

垣内に電気は通っていなかった。

吉田という電気屋が村にあった。

動力がたいへんやろ、と云って山の上まで電気を繋げてくれた。

それからソリは使わなくなったと話す。

昨年まではお米貰いをしていた。

お米貰いはお菓子貰いになっていた。

いつしかお米もお菓子でもないお金貰いになった。

集落を一戸ずつ巡っていくお金貰い。

細くて急な角度がある山道を園児が歩くには無理な山道。

崖から落ちて怪我でもされたら・・と判断されて中断を決断された。



時間ともなれば集まった園児たちがお堂にあがって円座になる。

涅槃図を掲げたお堂で数珠繰りをする園児たち。



保育園の先生も一緒になって数珠を繰る。

「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」を唱えながら数珠を繰る回数は8回だ。



保育園児とともに数珠を繰る高齢の観音講の人たちは「膝が悪いので失礼します」と申し訳なさそうに云っていた。

園児たちが立ち去った観音堂は観音講の人たちの例月営みの場になる。



導師を務める檀家総代がご本尊に向かって般若心経を唱える。

それからよばれるカレーライス。

かつてはヤド家でよばれていたが、今では公民館である。



桐山の子供たちは「いただきます」と手を合わせてからカレーライスを食べる。



子供が食べやすいあまーいカレー味が懐かしい。

(H27. 3.27 EOS40D撮影)

新世代のOB会

2016年01月06日 09時18分41秒 | メモしとこっ!
一か月前、さよならマイクロOB会に参加していたDさんから聞いていた定例のOB会。

日程・時間・場所をメールで伝えてもらっていた。

60歳を超えた定年満了組の男たちの集まりだ。

過去、何度か誘われて参加していたシニア会。

平成26年2月も出かけていた。

平成23年5月にもでかけたシニア会。

当時はOB会と云っていた。

そのころのメンバーは私より若干年上の年代若しくは同年代だ。

今回、声をかけてくださったメンバーは若干年下の年齢。

64歳の私より下ということは4歳下になる。

今月末にも満了する者もいる。

顔ぶれは若くなっていた。

会合の場は大阪・本町の船場センタービルの地下2階。

予め聞いていたお店の場はネット地図で確かめていた。

地下鉄御堂筋線・本町駅より徒歩数分。

一旦は外に出て船場センタービル9号館を探そうと思っていたが誘われるように歩いていった地下通路。

船場センタービル9号館地下2階に直結していた。

ドアをくぐって入った地下2階。

いろんなお店がいっぱいあるレストラン街。



ここではと思って数メートルも歩けば会合場所の中華料理居酒屋の「珍八香(ちゃこ)」があった。

店内を覗いてみたが予約席はない。

個室もない。

一杯飲み屋の様相だ。

集まる時間は17時。

めいめいが来られる時間帯で集まると云っていた。

ドア付近で待っていたが馴染みの顔は現れない。

何組かの団体が店を出る。

旅連れのような服装だった。

店の客は少なくなっていた店内。

奥のほうから手招きする二人連れ。

ここだ、ここだというように手を振っていた。

場所はここであったのだ。

ジョッキ片手に飲んでいたテーブルに盛った料理がある。



つきだしにフライものと5切れのギョーザ。

なんでもほろ酔いセットというようだ。

フライを天ぷらに換えることもできる。

数日前から口がうずうずしていた油もん料理。

カツ丼を食べたかった。

セットはフライが5品。

キャベツはどっさりある。

タレをつけてよばれる。

中ジョッキが小ジョッキか判らない生ビールはゴクゴク。

すぐになくなってしまう。

そこへやってきた初老男性の元上司は私より10歳上。

今でも現役だそうだ。

その後に続々と現われた若年層の7人や同年齢の定年二人組。

いつもなら5、6人らしいがこの夜は13人。

積もる話もあれば勤務していた過去形の話に盛り上がる。

彼らが思い出す入社直後のそれぞれの先輩の思い出話は尽きない。

中華料理のメニューはふんだんにある。

造りもあればスルメ天などの揚げ物も・・。



チューリップは食べ応えがある。

この会合には鬼平はいない。

思う存分話して楽しんだ3時間半。

支払いは一人当たりで3500円。

これなら何度も出かけたいが、近況報告や生存確認する会合は2か月に一度。

彼らの半数は現役続行の仕事人。

ちょっと行こか、と思えば行けるちょうどいい期間幅だが、街の風情はしばらくの期間は空けたい。



帰りの電車は座れたが座席の下から熱風。

むっとするような暑さでしんどくなった。

十数年前はビジネスマン。

これが毎日だったと思う通勤電車。

耐えるに堪えられない。

(H27. 3.26 SB932SH撮影)

向かいの丘のスイセン

2016年01月05日 09時51分31秒 | 我が家の花
スイセンが咲きだすのは12月半ばころ。

好きな香りに酔う。

3月になれば普段よく見かけるスイセンとは違うスイセンが咲きだす。

これは自宅向かいの丘に咲いていた黄色い色のスイセン。

香もないスイセンは八重咲が変化したものと思えるが名前は知らない。

変わり咲きのようにも思える八重咲きスイセン。

もしかとすればディックウィ(ェ)ルデン。

近いけど、なんとなく花弁の形が違う。

花弁のヨレヨレ感がなんとなく夏の花のヤブカンゾウに似ている。

改良された園芸種の一品だと思うが、なんとスイセンの品種は1万品種もあるそうだ。



この日は我が家に黄色い花を咲かせたレンギョウも撮っておいた。

(H27. 3.25 EOS40D撮影)

山辺三山部赤人墓春彼岸の念仏講

2016年01月04日 10時04分28秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
濡れ地蔵会式の際に聞いていた春彼岸の念仏講行事。

祭事場は榛原額井岳麓の山辺三(やまべさん)にある伝・山部赤人墓だ。

山部赤人は奈良時代、柿本人麻呂と並ぶ万葉を代表する歌人の一人。

後世に「山辺赤人」と表記されることもある。

墓がある地は十八(いそは)神社・額井岳~戒場山・戒長寺間を巡るハイキングコースルートの戻り道にある。

この日も重装備した多くのハイカーが歩いていた。

隣村になる額井。

鎮座する十八神社下の道路。

少しばかりの空スペースに5台の車が停まっていた。

戻ってきたハイカーは乗ってきた車に便乗されて山を下っていった。



伝・山部赤人墓より北方を眺める。

山麓にある田畑の向こう側の山は大字戒場の戒場山だ。

午後、麓下より車で登ってきた山辺三の念仏講。

西村や中村、笹畑垣内の住民であるが、この日の参拝は少ないようだ。

大字名の山辺三。

西村、中村、笹畑の三カ大字が寄せ合わさって、そう呼ぶようになったそうだ。

赤人墓周りを綺麗に清掃する。

花立てにシキビを添える。

御供を供えてローソクや線香に火を点ける。



法要をされるのは融通念仏宗派の西方寺の住職である。

読経はおよそ10分間。



鬱蒼とした杉林に音が消えていく。

一人ずつ焼香されてからは鉦を叩いて「なんまいだー なんまいだ」。



法要はこうして終えた。

山登りハイカーは法要などに気にもかけずに通りすぎていく。

地図を見ていたハイカーは行く道を見失った。

地元の人に聞けば判るだろうと思って尋ねていた。

向かう先は天満台バス停。

杉木立を下っていった。

ここらでもイノシシ荒らしが多い。

下る道はケモノ道に近い状態だと思うが、無事に辿り着けただろうか。

(H27. 3.21 EOS40D撮影)

長閑な彼岸日

2016年01月03日 09時58分47秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
彼岸の日に立ち寄った榛原山辺三。

昨年の秋に訪れたことがある地である。

彼岸の念仏講行事は昼からだった。

それより数時間前はどこで過ごすか。

長閑な山辺三の景観を拝見したく訪れた。

行事の場は額井岳の方角にある。



山は見えても、この場からは見えない行事の場は伝・山部赤人墓。

しばらくは白梅から見上げる額井岳を遠望する。

ぐっと右に寄せたら農小屋が見える。



トタン屋根で覆った小屋は長い木材に青竹もある。

ハザカケの道具であるかもしれない。

その横には紅梅が咲いていた。

さらに右へ寄れば家屋がある。

住んでいるご主人にお会いしたことがある。

昨年のことだ。

秋の収穫時のイネコキ
を撮らせてもらった。

前月は刈り取った稲を天日干しするハザカケもあった。

ここには風景写真を撮る人たちがときおり訪れるという。

紅梅の色が春の訪れを醸し出す。

下には白梅も咲いていた。

八分咲きだった。

ここでずっと佇んでいたかったが、そういうわけにはいかない。

(H27. 3.21 EOS40D撮影)