マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

和爾町和爾坐赤坂比古神社の御田植祭

2017年12月21日 09時32分12秒 | 天理市へ
天理市の和爾町で仕出し料理もしている「川北食料品店」さんが、この年に注文を受けて配達に来ていた。

配達先は奈良市米谷町の座行事だった。

そこで会話したからわかった仕出し屋さんは和爾町の和爾坐赤坂比古神すぐ横だったことだ。

和爾坐赤坂比古神行事の御田植祭を拝見したのはずいぶん前のこと。

あれから9年も経っていた。

当時、氏子らから聞いていた秋のマツリに特徴があるのだが、未だに拝見できていない。

マツリにお渡りがある。

一行は先に山の神に出かけて参ってから神社に向かう。

特徴というのはそれでなく、子どもたちが取り組む相撲である。

お札を手に入れようと真剣勝負の子供相撲は座中のうち中堅どころの人が行司を勤める。

大賞を勝ち取った男子は御幣を受け取る。

生まれたばかりの子供は泣き相撲の取り組みになると聞いていたが、マツリの日は体育の日の前日。

つまりは第二日曜日。

県内で最も行事が重なる日。

都合をつけるのが難しく、未だに拝見できていないので申しわけないと思っている。

神社行事は五人の長老、宮守(一年神主)と十一人の大老、若衆四人で構成されている大老会の名がある宮座二十人衆が務めていた。

宮座の役目を終えて引退になる人があって、若衆の座入りが認められる。

座中は一番若い人でも70歳を超えるくらいの高齢者であるが、皆元気だと云っていた。

しかし、あれから9年も経っている。

70歳だった方も80歳になっていることだろう。

入れ替わりに新入りが入られたとすれば半数ぐらいの顔ぶれが替わっているであろう。

顔繋ぎではないが、前回に拝見できなかったチンチロ付きの松苗を見たくなって訪れた。

9年も経っておれば神社の所在地は頭の中にあっても道中はどの道を行けば良いのか真っ白になっていた。

取材当日に道でも迷うことになっては、と思って前日の14日に道中下見に立ち寄っていた。

そのおかげもあってこの日は道に迷うことなく来られたが、駐車場はどうするか。

実は特定日だけ解放される富の森広場が駐車場になる。

神社より数百メートル南寄りの公園のような広場である。

特定日は4回。

弁財天祭(※7月7日19時善福寺の境内弁財天社開帳弁財天)は3日間、お盆は5日間、秋祭が5日間にお正月は一週間も期間だけであるが、弁財天祭っていつにされているのだろうか、存知しない。

ともかくこの日は御田植祭。特定日でもない。

神社におられた自治会役員や大老会の皆さんにお願いして停めさせてもらった場所は公民館前。

神社前の消防団施設はいつ何時もあるので不許可。

南にある公園の扉が開いておれば、そこに、といわれたが閉扉状態。

「公民館前ならなんとかいけるやろ」と、ギリギリ、キワキワの位置に停めさせてもらった。

ありがたいご指示に感謝する。

和爾町は東、中久保南、中久保北、北西、北東の5垣内。

集落は西に寄って集中しているが、エリアはとても広くて東側は町の5/6を占める田園地区である。

和爾坐赤坂比古神社本社殿は拝殿の向こう側に鎮座する。

中央に本社を配して右が春日神社。

左に八幡神社である古社。

10年前にも聞いたことがある本社殿が建つ土地は横穴式古墳の上に鎮座しているということだ。

年号を刻んでいる灯籠は見つからなかったが、手水鉢に「文政三辰(1820) □□□ 奉納 若連中」が見つかった。

さて、拝見したいのは松苗作りである。

行事を始める前の1時間前から作っていた松苗作り。

今は最期の追い込み作業中と聞いて大慌て・・。



稔りの稲穂(粳米)にチンチロ付きの松苗を括って固定する。

半紙を巻き付けて紅白の水引で括ってできあがるところを撮らせてもらった。

御田植祭が始まるまでの時間帯に撮らせてもらった祭具がある。

牛役が被る牛面に田主が操るカラスキとマンガ。



それにスキと二つのヒラグワを使って御田植祭の所作をする。

前回も拝見していたと思うが、あらためて確認した「牛頭面箱」に墨書があった。

箱の蓋に「奈良縣磯城郡上ツ郷村大字小夫 彫刻人 桒山辰蔵 大正六丁巳(1917)年五月」とある。

箱の横面にも墨書があった。

「大正六年八月新調 氏子総代 冨森定雄 池村富次郎 松岡順三」。

桜井市小夫におられた桒山辰蔵氏に発注して作ってもらった牛頭は当時の氏子総代であるご三方が寄贈されたことがわかる記銘である。

いまから丁度、100年前に新調された牛頭を被るのは宮守さんのようだ。

和爾坐赤坂比古神社の年中行事はこの年は代理ですと云っていた女性神職が斎主を務めたが、宮守の名で呼ばれる一年交替の村神主(中堅)もおられる。

祭典に捧げる御供当番は毎回交替する大老が務める。

秋祭の宵宮もあれば大祭に(勤労)感謝祭、元旦祭の本日の御田植祭である。

また、境内の掃除当番は大老20人のうち2人ずつが交替する月当番も決められている。

松苗が出来あがって祭具も調えたら春祭とも称される祈年祭(としごいのまつり)神事が始まる。



大老たちは本社殿と拝殿の間に設えたスチール椅子に座って神事に臨む。



自治会役員は松苗御供や神饌を供えた拝殿に座って始められた。



祓詞、修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、宮司一拝で終えた。

一同は退座されて境内に移動する。

「これから伝統的な行事を、元気よい形にしてください」と宮総代の挨拶を受けて、直ちに動き出した1人の大老。



最長老の一老がわが身で使っている杖を用いて線描きをする。

ほぼ決まっているかのようにちょちょいと□に描いた線は田作り初めの畝のように思えた。

ちゃちゃっと地面に書いた区画は実に正確。

まるで定規を当てていたかのような真っすぐな線描きである。

御田植祭の所作をする神聖な祭場である。

はじめに登場した農具はヒラグワ。



撫でるような感じで畝を作る。

逆に畝作りをしていたヒラグワが中央で落ち合った。

特に決まりのない畝作りは二人ですれば早くなる、というような感じであった。

ヒラグワ役の二人が退いたと同時に牛役が登場する。

牛役は面を被る人と後ろで支える二人がかりで所作をする。



牛の後方は田主が操るカラスキ曳き。

「モォウー、モゥッー」というような感じで上下に首を振る牛。

腰を下ろし加減にして足も。

左右にも首を振る巧みな演技に感動する。

動きも良いし、鳴き声も大きな声で「モォォー、モゥー」。

田主がその度に手綱を操って「ちゃい、ちゃい」。

よくみればカラスキの後ろにはマンガもついていく同時進行の牛耕である。

纏めてやっちゃえ、という感じなのだろうか。

平成20年に訪れたときの所作を振り返ってみれば、同じであった。

若干の違いがあったのは最初に登場するヒラグワで耕す所作である。

今年はヒラグワ二人が同時に動き出したが、お互いが逆の方向に向かって耕した。

ところが平成20年ではヒラグワにスキ、もう一つのヒラグワ役の三人が一列揃いで耕していた。

どこかの年度に変化したことも考えられるが、和爾の大老たちの動きを見ているとなんとなく基本形はあったとしてもある程度は自由、おおらかさをもっているのかもしれない。

高鳴る大きな声で「モォォー」と、最後に一声。

カラスキ、マンガで曳く牛耕も時計回りの一周で終えた。

線引きから始まって田んぼを耕すまでの所要時間は4分間。

見ている間に終わったという感じであるが、御田植祭の所作は耕すだけで終わることなく、田植えもある。



神事に奉納したチンチロ付きの松苗を下げて大老めいめいが田植えの所作をする。

手にした松苗は田んぼに見立てた祭場に植える形をする。

植えるといっても松苗を立てるわけではなく、神さんに向かって寝かすような恰好で植えていく。



整然と並べた松苗は37束。

綺麗に植わった。

例年作る松苗の束数は30束。

余分に数束を足して作っていた。

ちなみにかつては50束も作っていたというから農家の戸数も多かったのだろう。

植付け状態を確認したら、直ちに撤収。

ではなく形式は撤収のようにも見えた稔りの稲刈りを想起されよう。

こうして今年の稔を予祝する祈年祭、並びに御田植祭を終えた大老や自治会役員は神職ともども公民館内で直会をされる。

先に片づけておくのは拝殿に掲げた幕下ろし。



その役目は自治会役員が担っていた。

豊作を願った松苗は趣のある公民館の玄関の出入り口付近に置いて、貰いに来る人を待つ。



松苗は苗代をした際に水口などに祭る。

だいたいが5月3日から5日の期間中になるようだと話してくれたOさん。

苗代が決まれば取材させてもらっても構わないですかと声をかけたら、午前中で風が吹いてなければ、という条件付きで了解してくださった。

一方、四老のKさんは何人かで、営農センターで籾さんをカルパー処理、それから直播きをしているという。

カルパー処理した籾は動力散布機で撒いているが、池水の都合で日程が決まる。

苗代を作らず直に撒くから営農直播き方法も興味が湧いた。

営農センターができるまでは直播はしていなかったが、今では主流になったという工程は是非とも拝見したいと申し出たら、こちらも取材願いを承諾してくださった。

ありがたいことである。

かつてイロバナを添えていた苗代に「あんじょう育ってください」と手を合わせていたという大老もおられる。

当時は、6月末頃に田植えをしていた。

昭和10年生まれのUさんが伝える子どものころに見ていた苗代作業である。

親父さんからはあまり話を聞くことはなかったが、お爺さんが話していたことは今でも覚えていると云いだす囃子詞。

「イリゴメ喰わなきゃ、亀はます(ぞ)」の台詞で囃して苗代に立てた松稲苗付近にあったイリゴメを食べていた。

イリゴメは煎った米のことで苗代に蒔いていた。

蒔いていたという表現であるが、直接苗代場に蒔いたわけではなく、お盆に盛っていたものだという。

イリゴメはぽん菓子と同じ米やった。

ホウラクで煎ったら爆ぜ(はぜ)て大きくなる。

米ぬかについたイリゴメは花のようになったと云う。

爆ぜたら1/3ぐらいが大きくなる。

まるでポン菓子と同じような膨らみ方である。

イリゴメだけでなくキリコもホウラクで煎っていた。

イリゴメやキリコは子供のお菓子であった。

現在のような飽食ではない時代。

81歳になるUさんが子供のころといえば10歳。

70年も前であれば戦後間もないころである。

私も戦後だが、生まれた年は昭和26年。

それでも食べ物はまだ豊富でなかった時代に育ったと思っている。

県内各地で高齢者が話す戦後の暮らしはひもじ(※空腹の意)かった。

苗代に供えたイリゴメやキリコはそのころに育った子供にとっては美味しいお菓子である。

ここではキリコを煎っていたが、揚げるキリコも聞いたことがある。

それが現代になれば袋入りのアラレになるのだ。

そんな美味しい供えたイリゴメやキリコをくれなきゃ「亀を這わすぞ」ということである。

台詞は「イリゴメ喰わなきゃ、亀はます」であるが、正確に云えば「イリゴメ喰わさなきゃ、亀を這わす(ぞ)」のようだ。

苗代に育つ稲苗。

その場に亀がおればどうなるか。

芽が出たての苗代田に亀が這うと苗がやられてしまうということだ。

足が短い亀が苗代田を這えばせっかく育った苗を腹で潰して苗を倒してしまう。

つまりは食べたい子供は亀を苗代に放して悪さをしてしまうぞ、ということになる。

田主にとってはそんなことされたら困ってしまう。

堪らんからお菓子をあげるから放さんといてよ、ということである。

山添村北野の津越で行われたヤッコメ行事にでてきた台詞は「やっこめ(焼米)くらんせ ヤドガメはなそ(※放そう)」だ。

焼き米は煎り米である。

亀はヤド亀になっているがまったく同じ意味をもつ台詞である。

津越だけでなく桜井市小夫の台詞も「やっこめくれな ドンガメはめるぞ」だ。

亀はドン亀になっているが、「はなそ」も「はめる」も苗代田に亀を放り込むということだ。

ちなみにキリコは二ノ正月に搗いたカキモチである。

搗いたカキモチは棒のようなもので薄く伸ばした。

伸ばしたその端っこは包丁で切る。

切るモチだからキリモチであるが、端っこは細切れ。

それをキリコと呼んでいた。

つまりは二ノ正月(1月の末)に搗いた寒の餅であろう。

寒に搗いた餅はカキモチにすると聞いた地域もある。

カンノモチは寒の入りから寒の内ころにカンノミズ(寒の水)で搗くと話してくれたのは大和郡山市矢田町の住民

モチを包丁で切って天井に吊るした竹にぶら下げる。

それがカキモチであった。

そのような話題を提供している最中に松苗を買っていく人がいる。

神さんに豊作を祈願した松苗は1束が10円。

箱に180円もあることから松苗は18束も売れていた。

実は私も購入した。

1本と云わず、2本でも、3本でもと云われて賽銭代わりに購入した松苗は記録として自宅保管することにした。

ちなみに神社の年中行事は、この日の御田植祭以外に1月1日の元旦祭、4月15日の春の祭、9月1日の総会を兼ねた八朔祭の他、9月18日の宮守を引き継ぐ交替行事などもある。

(H29. 2.14 SB932SH撮影)
(H29. 2.15 EOS40D撮影)

始めから高けりゃさらに上昇する

2017年12月20日 09時07分51秒 | むびょうそくさい
この日のお通じはもひとつ。

きばることはできないからじっと我慢の子。

もよおしもあるのに出るものが出ない。

こういうのもストレスになる。

それが心拍数を上げる要因になったのかどうかわからないが受付段階で高い脈拍を示した。

心拍数は62拍。

これまでにない状況に不安を感じる。

一般的に60拍台であればなんの問題もない正常値。

心臓病になる前であればごくごく普通の心拍数である。

朝、特に起床時は37-39拍状態。

循環器医師からみても異常な状態。

それをテレビでつとつと伝える。

非常に危険な状態に不整脈もあれば死に至らしめるとテレビの向こうで伝えていた。

それを知ったひな壇にいるMCもコメンテーターも、えーーー、である。

危険な状態で日々を暮らしている私は、いったいなんだ。

いつかは訪れるかもしれない急展開。

不安は毎日やってくる。

ただ、私にとっては高い状態であっても、普段着感覚。

異常さを感じないのが怖い。

そういうことだが、この状態を引き起こしているのは前述のストレスである。

確信をもっていえると思うが・・・。

心電図機器の装着時の脈拍は62-63。

これまでにない心拍数にリハビリ療法士も気づく。

準備運動を経たスクワット運動での心拍数は63-64拍。

この状態は毎度の状態である。

特におかしなことでもない。

ややキツ目のスクワットであれば69-71拍。

これも前回と同様の心拍数である。

ただスクワットを終えたら下がらずに上昇して72-75拍。

この点はいつもと違う状態である。

設定された目標心拍数は62拍。

すべてにおいて上回っている。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は137-54。

心拍数は61-62拍だ。

踏み始めて1分後のワークは55。

そのときの心拍数は65-66拍。

回転しだしてから2分後の心拍数は72-73拍。

ぐんぐん上昇する。

早い段階での心拍が70拍台であれば嬉しいのだが、なんとなく不安を感じる。

6分後の血圧は157-51。脈拍は77-79拍。

11分後の血圧は126-49。脈拍は77-78拍。

16分後の血圧は130-46。脈拍は80-83拍。

ここら辺りになれば異様に上昇した心拍数に益々の不安を感じた汗、汗、汗、である。

21分後の血圧は145-54。脈拍は79-80拍。

汗、汗、汗は盛んににじみ出る。

ラスト、26分後の血圧は146-55。

脈拍は80-82拍で終えた。

70拍どころか80拍台に押し上げた原因はなんだろうか。

心配そうに顔を覗き込む・・・ことはなくアナログ的指標を差し出す。

いつもなら楽々であるが、なんとなく不安を感じて「楽」より若干の下に指さした。

ちなみに退室後の心拍数は67拍だった。

これもまたみたこともない数値である。

(H29. 2.14 SB932SH撮影)

笠・初釜笠蕎麦の奉納

2017年12月19日 08時46分47秒 | 桜井市へ
笠山坐荒神社の社務所内で暖をとらせてもらっていたときのことだ。

白い作業服、それも板前さんのような恰好をされた男性が社務所の扉を開けて、この日にできたばかりの初釜蕎麦を持ってこられた。

男性は「荒神の里 笠そば処」の蕎麦造り職人。

料理人といえばいいのか、それとも板前さんと呼べばいいのか・・。

「荒神の里 笠そば処」は笠山坐荒神社の鳥居前にある食事処である。



この日の蕎麦の栽培地は辺り一面が真っ白。

帰るころには、真っ青な空が広がっていた。

日差しが強くなれば、雪解けも盛ん。

真っ白な雪帽子を被っていたハウスの屋根はすっかり雪解けになっていた。



神社に持って来られた一枚の盛り蕎麦。

神司(かんづかさ)が受け取った蕎麦は、この日の最初に釜茹でした蕎麦である。

初釜の蕎麦は、農家さんで云えば野菜、果物などの作物の初成りに相当する。

お米で云えば初穂である。

初成りや初穂は神さんに供えて、稔りに感謝するとともに奉納するのである。

初出来の初釜蕎麦はお店が営業している期間中は毎日にできあがるが、初釜奉納をするのは毎月の1日と15日に土曜、日曜に祝祭日だという。

受け取った初釜蕎麦は三方に盛って拝殿に向かう。



千載一遇のチャンスに撮影をお願いしたのは言うまでもない。

たまたまに出くわした初釜笠蕎麦の奉納に板前さんはおられない。



神司一人で神さんに捧げられた。

(H29. 2.12 EOS40D撮影)

凍える笠の雪景詣

2017年12月18日 09時36分05秒 | 桜井市へ
祝い歳になった人が参る「トシホジの祭」があると知った桜井市笠。

天満神社の行事である。

東座、西座の十二人衆が担う行事であるらしい。

「トシホジの祭」は桜井市の三谷と同じく42歳になった初老の厄祓いや還暦・米寿祝いのようである。

話してくださったのは三谷の行事に出仕していた橋本宮司だった。

宮司が続けて云われた行事は「蟇目祭(ひきめさい)」。

いわゆる年初に村の悪霊払いに行われる弓打ち神事である。

同じ読み名であるが、充てる漢字が「引目祭」になる行事は奈良市柴屋町の八坂神社行事だった。

笠の笠山坐荒神社で行われる行事を取材したのは随分前のことだ。

平成15年1月28日は大字笠にある竹林寺から笠山坐荒神社までお渡りをする神輿を撮っていた。

平成18年の9月28日は竹林寺で行われた神事も撮らせてもらったことがあるが、他の年中行事はまったく知らなかった。

いや、知ることもなかった駆け出しのころである。

橋本宮司は笠の笠山坐荒神社も出仕されていたので、「トシホジの祭」も「蟇目祭」も教えてくださったが、つい最近というか、昨日に亡くなられたと訃報が届いたそうだ。

その笠の笠山坐荒神社に仕えている男性と知り合う機会があった。

平成25年の12月20日に訪れた笠の村。たまたま尋ねたお家が笠山坐荒神社に仕える男性宅であったが、それを知ったのは後年に送られてきた年賀状で知るとは思っても見なかった展開である。

笠山坐荒神社に仕える身。

神司の役目を担っているという男性が教えてくださった天満神社の行事に東座、西座がある。

男性は、また、東座の一老を務めているHさん。

千森垣内の牛頭天王社のテンノオエシキ復活されたご仁である。

昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』に笠の当屋座のことが書かれている。

正月当屋は1月10日。

三月当屋は3月3日。

大当屋の意である「大頭(だいとう)」は10月25日。

一生に三つの当屋をするが、10月25日の大頭を務めると正月当屋は務めずに、3月当屋になるなど、実にややこしい。

その10月25日には東座、西座から2組が出て祭典をしているようだが、詳しく知るには座の人たちに面識をもつことが第一と考えていた。

それを繋いでくれるのは神司のHさん。こ

の日は前日に降った雪で笠山坐荒神社参道入口に建つ鳥居前はパリパリに凍っていた。

ここへ来るにはさほどでもなかったが、神社に辿り着けば、車走行にはもっとも危険な状態。

もっとも歩くのもパリパリの参道を行くには滑らないようにと気を付けて歩いた。

笠山坐荒神社は後ほどに参拝するとして先に向かったのは笠の天満神社である。

笠山坐荒神社の参道はずっと白い道が続く。

急な階段を降りる場合は足元を見ながら慎重に下っていく。



1月、4月、9月の大祭に竹林寺から出発した神輿はこの階段を登って笠山坐荒神社に向かう。

この日の積雪状況を見てくださればわかると思うが、1月大祭の25日がこの状態になっておれば、登りも下りも難しいことが理解できる。

階段下に下りても参詣道はパリパリ。

通年が日陰になる参詣道には誰一人として遭遇することはなかった。

階段下ってからおよそ5分。

積雪でなければもっと早く着く。



天満神社の境内は一面が真っ白に埋まっている。

足跡も獣の足跡も見つからなかった。

蟇目祭の行事があったとすれば打たれた矢が残存している可能性もある。

そう思って探してみるが、真っ白な状態では見つかることもない。

寒さと冷たさに指の先が痺れそうになってきた。

本日はここまで。

Hさんは毎日のように笠山坐荒神社に出仕していると云っていたから、この日も、と期待を込めて出かけたら、社務所におられた。

Hさんの話しによれば、本来は19日であったが、今はその日に近い日曜日と聞いていた。

そうであったが、この年は8日の月並祭で行ったという。

8日は水曜日。

ちなみに平成27年は8日が日曜日だったそうだ。

8日は大雪が舞う日になった。

行事どころではなかった風雪に仕方なく2日遅らせた10日の金曜日に蟇目祭をしたという。

ちなみに『桜井市文化叢書 民俗編』では蟇目祭を結鎮講(けっちんこう)の行事として書かれていた。

「天満神社の境内に的の鬼をつくり、桜の弓に緒の弦を張って、ススンボウの矢を7本作って、神主が東西南北に天と地と鬼を打つ。この神事は2月29日である」とあったから、Hさんが云っていた19日は29日の勘違い、それとも私の聞き間違い・・・。

(H29. 2.12 EOS40D撮影)

勝原の子供涅槃

2017年12月17日 09時03分53秒 | 山添村へ
山添村の大字勝原の子供涅槃を取材したのは8年前。

平成21年の2月21日だった。

勝原の子供涅槃は大きく分けて三つの段階がある。

はじめに米集め

そして、オヤが接待役を務めるヤド家で昼の膳のよばれ。

昼食を済ましたら薬師寺のお堂廻りを駆け抜けて竹でオヤを叩く試練なども。

再びヤド家でよばれる夜の膳の3部構成行事である。

平成21年は12人の子どもたちによって涅槃行事が行われた。

今年はオヤを入れても3人だけになった。

しかも、前日から降った雪は大雪。

降り積もった雪道を歩いて村全戸を巡る米集めは大人の判断で中止された。



やむを得ないことであるが、午前中にもてなしをしてくださったS家の玄関には、子どもたちに渡す白米はお盆に盛って待っていたが、叶わぬことになった。

勝原の涅槃には昭和56年から記帳してきた『涅槃帳』がある。

内訳の一つに図もある献立がある。

椀は五つ。

大きい皿に盛るコンニャク、豆腐、ほうれん草、人参で作る白和え。

少し薄味で調理する里芋に三角切りの大根に焼き豆腐の煮しめ。

小さい皿に盛る漬物に小切りの豆腐を入れたすまし汁と白ご飯は昼の膳の献立。

なぜか夜の膳の献立は書いていなかったが、但し書きに「昼食後はぜん(※膳)に名前を書き置き夜、そのまま使う」とあった。

また、「ごはん、すまし汁はざしき(※ヤド家の座敷)で子供がよそう。おにぎり(黄な粉にぎり)はこない人の分と2つぐらい寺(※薬師寺)でたべてもらうこと」とあった。

涅槃行事に諸祭具を要する。

祭具はオヤ家(当屋)からオヤ家(当屋)に引き継ぐものもあれば、区長保管もある。

また、供える御供や食事はもとよりオヤ家が食材まで揃えて料理もする。

オヤ叩きをする笹竹は竹林から伐り出す準備もあるから主体はオヤ家である。

『涅槃帳』に書いている諸具を列挙しておく。

一つは薬師堂本堂に掲げる釈迦涅槃図である。

保管責任者は区長である。

薬師寺正面入り口にかけて、その前に黄な粉おにぎりを大重に入れて供える。

その両側に2本のローソクを立てる。

二つ目は、黄な粉おにぎり。

薬師寺で配る分以上に2個作っておく。

配るのは昼食に来られなかった子供だけとし、半紙や新聞紙を用意することとか、どんぶり山盛りの表記もある。

またビニール袋へ入れることも書いてあった。

三つ目が、膳に食器。

これらは薬師寺にあるから区長や公民館長に連絡しておく。

四つ目は、叩く笹竹に半紙。

御幣状態に切っておいた紙片を子どもたちが竹に括り付ける。

五つ目に、呼び使いで、保育所の子どもより呼ぶこと、と書いていた。

他に、区長にお願いする村のマイク放送とか、夜は同じメニューの膳を作り、ご飯だけはかやくご飯(※)とメモ書きもあった。

奈良県内で呼ばれるかやくご飯はイロゴハン、或いはアジゴハンとかばかりである。

郷土の言葉は親や村人が伝えてきた名称。

しょうゆ飯が訛ったショイメシの呼び名もあるが、実はかやくご飯(混ぜご飯の呼び名もある)は大阪である。

昨今は炊き込みご飯とか五目ご飯は一般的。

関東に倣えという具合になった時代。

この『涅槃帳』にメモっていたかやくご飯の記入者は大阪で育った女性が嫁入りした結果ではないだろうか。

そう思うのである。

尤も、この年に取材したオヤ家(当屋)の人はアジゴハン若しくはイロゴハンと呼んでいた。

基本的な涅槃の献立料理は決まっているが、その他にも子どもたちが大好きな見計らい食がある。

昼食の見計らいは、まめたき、サラダ、コロッケ、ハム(焼きブタ)、かまぼこ、さや豆のみそあえ、冷ややっこ、ウインナー、キュウリ、果物だった。

当初に書かれていた別途料理は変化があった。

コロッケは抹消されて唐揚げに。

さや豆のみそあえはハンバーグに。

冷ややっこはエビフライ。

キュウリはモテトサラダに。

いつしか変更したポテトサラダも、まめたきもかまぼこも消えた。

大人の料理はことごとく消えて子どもたちが食べたいという料理になっていた。

夜の膳も変化があった。

当初の料理は昼の膳の残り物にスパゲティ、ナスのでんがく、あじご飯(※)である。

ここでもわかるように『涅槃帳』本来の記帳はかやくご飯でなく、あじご飯なのである。

夜の膳で消えた料理はナスのでんがく。

追加した料理がフルーツポンチである。

こうしてみれば年代は不明であるが、子どもの好きな料理に変っていく様子がよくわかる。

変化は料理だけでなく、合間に出すお菓子にもあった。

午後3時ころに渡していた袋詰めのお菓子は150円程度。

それが300円になっていた。

お菓子は夜の膳を済ませてから帰宅する子どもに持たせていた。

それも同じように一人、ひと袋ずつに詰めた当初のお菓子は300円だった。

物価が上がったのか、それとも子どもたちの要望で増量したのかわからないが、500円になっていた。

お菓子の注文先注記は「上嶌」とある。

「上嶌」は大字勝原にある和菓子製造会社の上島製菓である。

隣村の毛原で行われた節句行事に供えるチマキは上島製菓製であったことを付記しておく。

諸要綱はこれまでだが、『涅槃帳』にあるのは各年に引き継がれてきたオヤ家(当屋)の実施日と家名に参加した子どもの人数である。

この日の午前中にもてなしてくださったS家は昭和58年の2月13日がオヤ家。

参加人数は16人だった。

昭和56年に起こした『涅槃帳』の実施年月日は毎年ではなかった。

昭和56年から平成2年までは毎年であったが、平成3年は空白だった。

主役対象となるオヤ家(当屋)を務める子どもは15歳の中学3年生。

その年は対象年齢の子どもがいなかったということである。

平成6年、10年、11年、14年が空白の年であった。

私がかつて取材した年は平成21年。

平成18年、19年、20年は3年連続の空白の年であった。

先にも伝えたが、今年の子どもたちはオヤを入れても3人だけ。

この年にオヤを卒業する子どもは高校生になって参加資格を失う。

残った2人の子どもはまだ小学生。

次の年も次の次に年も対象者は不在。

その明くる年になってようやく調うが、笹竹でオヤ叩きをする子どもは一人。

オヤに対してたった一人で戦うことになる。

昭和56年から記帳し続けてきた『涅槃帳』。

これまでの時代では考えられなかった状況は否が応でも実現してしまうのが辛い。

午後一番に始めると聞いていた薬師寺に向かう。

平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に勝原の涅槃講を報告している。

「釈迦入寂は陰暦の2月15日。大字勝原の15歳男子をかしら(※頭)を筆頭に、村で生まれた長男たちによって涅槃講の会式を行ってきた。室町時代の前期。勝原氏と称する土豪が支配していた。村の氏寺として薬師寺を建之したころから、涅槃講会式が始まったと推察される」と書いてあった。

明治31年、豊央(とよなか)小学校を開設した以降から、陰暦でなく新暦の2月15日前後の日曜日に移された。

そして、昭和28年より、長男枠を解いて、15歳以下の男子すべてを参加できるようにした、とある。

昭和10年までの薬師寺は本堂だけであったが、その年と昭和37年の2度に亘って改築し、本堂と庫裏が同じ棟になった。

さて、涅槃講会式の子供涅槃である。

先にも書いたようにこの年は大雪になったことによって米集めは中止されたことになったので、『やまぞえ双書1 年中行事』から行事の在り方を以下に書いておく。

涅槃の日は15歳男子が、当屋になる。

その年に15歳男子が一人になる場合もあるが、同い年生まれが複数人ある場合は、最年長男子が年下の子どもたちを接待する親当屋(オヤトウヤ)を務めることになる。

早朝、年下の子どもたちを従えて村の全戸を巡ってお米貰いに出かける。

天竺木綿布で作った米集めの袋を背中に背負って一軒、一軒巡っては、村に人から涅槃に対してお米を寄進してもらう。

「ネハンですけどー」と声をかけた玄関口。

子供たちは、声を揃えて「ネハン キャハン オシャカノスズメ」を囃(はや)す。お家の人が入れやすいように、お米集めの袋の口を拡げてやる。

今ではお米だけでなく、お菓子も貰って、次の家に向かう。

「キャハン」は足を保護して歩きやすくする脚絆布。

「オシャカノスズメ」はお釈迦さん寄進する米を拾うスズメ。

お釈迦さんの修行を見習って、その使いとなった子供たちがお米を集めるという説である。

また、米を食べる雀ではなく、「涅槃の勧め」が訛った「ネハンのスズメ」という説もある。

こうした詞章は県内各地で伝承されている。

大和郡山市椎木町・光堂寺の涅槃会である。

今では子どもの涅槃を見ることもないが、平成3年10月に発刊された『(大和郡山市)椎木の歴史と民俗』によれば、昭和10年頃までは子供の涅槃があったそうだ。

子供たちは「ねはんさんのすすめ ぜになっとかねなっと すっぽりたまれ たまらんいえは はしのいえたてて びっちゅうぐわで かべぬって おんたけさんの ぼんぼのけえで やねふきやー」を三辺繰り返しながら村中を廻ってお供えのお金を集めていたようだ。

椎木の詞章は「ねはんさんのすすめ」である。これを「ねはんのすずめ」と呼んでいたのは奈良市日笠の子供の涅槃だった。

今では廃れたが、奈良市菩提山町にあった子供の涅槃も「ねはんのすずめ」だった。

こうした詞章事例は山添村の桐山でもかつては「ねはんコンジ、コンジ ねはんコンジ、コンジ 米なら一升 小豆なら五合 銭なら五十銭(または豆なら一荷)」であった。

「コンジ」はなんとなく「献じ」のように思える米集めである。

桐山事例ではもらう米の量が明確で、「米なら一升」である。

対して勝原では三合程度の量である。

ただし、初入講する男の子が生まれた家は一升の米を寄進するのが習わしであると『やまぞえ双書』に書いてあった。

また、昭和33年までは玄米であったから、当時は村内の家から臼を借りた子どもたちがウスツキ(臼搗き)をして白米にしていたそうだ。

集めたお米はオヤ家(当屋)に手渡されて、昼の膳、夜の膳に配膳される子どもたちがよばれるご飯になるのだが、この年は、その昼の膳の接待も中断された。

そのようなわけもあって始まった子供涅槃である。

先に薬師堂に来られていたのはオヤ家(当屋)のN夫妻。



下の子どもを接待する15歳男子の両親は本堂に大きな釈迦涅槃図(※縦1m76cm×横1m67cm)を掲げていた。

平成21年に訪れた際に拝見した釈迦涅槃の納め箱。

黒ずんだ箱は相当古いと察してじっくり拝見したことを覚えている。

このとき一緒に見てもらっていたのがSさんだった。

釈迦涅槃図は1670年以前とされていたが、箱の蓋にあった墨書年号は、なんとなく寛政年(1790年代)のように思えた。

もう一度拝見してみたい。

そう思っていたが、涅槃図そのものに年号を墨書していたことがわかった。


上部右側が「勝原村持(※現物は手へんでなく木へん)物」で、上部左側に「寛文拾庚戌(1670)ニ□□」とあった。

『やまぞえ双書』によれば、納めていた涅槃図箱の墨書年号は「寛政九(1797)丁巳年二月九日」。

涅槃図と箱の年代が異なっているのは、江戸時代に涅槃図をよそから購入したとある・・・。うん?。

で、あれば、箱より古い涅槃図を買ったことになるのだが。

年代は箱より古い・・・。

なんで・・。



そして、オヤ家の父親が作業しだした、幣で作った護符の括り付けである。

このころも雪は舞っていた。

吹雪とまではいかなが、冷たい外気に作業をしていた。

本来は子どもたちがする作業であるが、この年はオヤ家がしていた。

涅槃の祭具が揃ったところで会式が始まった。

本来であれば、護符括りした竹を担いでオヤ家を出発する。

薬師寺までの道中においても「ネハン キャハン オシャカノスズメ」を囃すのであるが、オヤ家で昼食も摂っていないので、これもまた省略された。



本堂に登った子どもたちの前には重箱に盛った黄な粉を塗したおにぎりがある。

大きなおにぎりは一つずつナイロン袋に詰めて御釈迦さんに供えていた。



燭台に立てたローソクに火を点けて一同は揃って参拝する。

きちんと正座して手を合わせて拝んでいた。

今年の会式はこうして始まった。

記念写真を撮った子どもたちは一斉に本堂を飛び出した。

下の子どもは護符を括り付けた笹竹を担いで走り出した。

スタートラインについたわけでもなく、運動会のようなバンという鉄砲の音もなく、突然のごとく走り出した。



今年は下の子どもが二人。

年齢差は1歳か2歳ぐらいの差。

走る勢いが違うから離されてしまう。

走る場所は薬師堂廻り。

反時計回りに駆け抜けていく。



その様子を見守るオヤの男子は本堂にあがる階段に座っていた。

参加できるのは男子だけ。

女の子は見ることしかできない行事である。

雪が積もった寒い日であっても、村の行事を一目見ておこうとやってくる人もいる。

平成21年は参加者が12人もいた。

親家族は高齢者とともに見に来ていたことを思い出す。



堂廻りの儀式は静の姿で見守るオヤと駆け回る動の姿の子どもたちで描かれる。

下の子どもは2人。

足が早い男の子に下の子どもは離されるばかり。



一周早く追いついてしまった。

一周遅れであっても13周も廻らなければならない堂廻り。



オヤの男子は数えていたのだろうか。

「疲れたわ」という年少さんの声の余韻もそのままに、オヤ叩きが始まった。

二人の前に登場するオヤ。

立つ位置は特に決まっていない。

笹竹を手にする子どもたちはオヤを遠巻きに。

人数が多ければ、取り囲んでしまうような状況になるが、1対2ではモロの戦い。



バシバシとしばくように叩く長い笹竹を振り下ろす。

叩くつもりがしかりと掴まれた。

その一瞬、翻ったオヤは笹竹をがっつり握って離さない。



掴んだ竹は両手で握って足で踏んだ。

踏んで両手をぐっと引き上げたら折れた。

オヤの勝ちである。

一方、年少の子どもはただただ見ているばかりで戦いどころではない。

戦意喪失したのか、オヤの成すがまま。

この子の持つ竹は叩きもできないうちに勝負がついた。

時間にして1分もかかっていないオヤ叩きの儀式はこうして終えた。

『やまぞえ双書』の記述では、「ネハン キャハン オシャカノスズメ」の声を張り上げて、オヤを叩くとあったが、台詞どころではなかった。

すべての竹を折って儀式を終えるオヤ叩きは、子どもから大人への通過儀礼だとされる。

竹を折る行為は子どもに戻らないという覚悟を表しているのだろう。

オヤは15歳の中学3年生。

昔は元服の年であることから、大人社会に出る試練でもあるようだ。



オヤ叩きを終えた子どもたちは、もう一度本堂にあがってお釈迦さんに手を合わせる。

オヤの父親も一緒になって手を合わせていた。

堂内に掛けていた時計は午後1時45分。

儀式を始まる前に拝礼していた時間帯は午後1時31分。

短時間で終えたのがよくわかる。

一連の儀式を終えた子どもたちは、この日の涅槃会に参加できなかった子たちに食べてもらうために、本堂下に建つ民家まで下っていった。

その間のオヤの親は供えた黄な粉おにぎりを下げて、集まっていた人たちに配っていた。

丸盆に盛った黄な粉おにぎりを少し崩して箸で摘まむ。

摘まんだおにぎりは、参拝者が拡げた手のひらに落とす。



箸(はし)は使わずに手で受けのテゴク(手御供)でいただく。

黄な粉の味は涅槃の味だというお釈迦さんのおすそ分け。

これら一連の行為もまた、涅槃行事の一つであった。

涅槃講会式を終えた子どもたちはオヤの家に集まる。

オヤ家の心を込めて接待する料理もあるので、是非いらしてくださいと云われて大雪の道を歩く。

着いた時間帯は午後4時50分。

会式を終えた子どもたちはオヤ家で遊んでいた。

遊んでいたのは下の子たち。



オヤを務める男子は庭に積もった雪を箒で掃いていた。

普段からこうして親の手伝いをされているのだろう。

しばらくしたら、ヤド家のおばあさんが夜の膳を始めますから座敷に上がってくださいと云われて靴を脱ぐ。



大人入りした孫はこの日はじめてのご飯を椀によそう。

昼の膳がなかっただけに夜の膳料理は親の心がこもっている。



特に目から毀れるほどに可愛がっているおばあさんにとっては一番大事なことである。

「こうするんよ」、と先に教えていたのか、よそう手付きも慣れているように思えた。

夜の膳の献立は主食のアジゴハン(イロゴハンとも)。

アゲサン、チクワ、ゴボウ、シメジに鶏肉をどっさり入れて炊いたそうだ。



もう一つの椀はコンニャクに豆腐、ほうれん草、人参で作った白和え。

中央に配した椀盛り料理は里芋に三角切りの大根と焼き豆腐を薄味で煮たもの。

その他、コウコの漬物に豆腐のすまし汁の5品である。

黒色の高膳は村のマツリのときも使用されると聞いている。

高膳に乗せられない子どもたちが大好きな料理は畳に置く。

平成21年もそうしていた膳以外の料理は現代版。

ハンバーグにベーコン入りケチャップ味のスパゲティ皿。

唐揚げにチキンナゲット、エビフライなど。プチトマトを乗せたフライ盛りはマヨネーズを混ぜたソースを付けてよばれる。

チャーシュー肉にポテトサラダも盛ったごちそう料理。

ヤド家のご厚意をいただいて、釈迦涅槃図に手を合わせていた子供たちが夜の膳を共にする場面を撮らせてもらった。



しかも、炊きたてのアジゴハンも食べていってくださいと椀に盛ってくださった。

とても美味しくてお代わりを迫られたが、ここは遠慮する。

長時間に亘って取材させてもらったヤド家のN家族にはたいへんお世話になった。

一連の行事を案内してくださったS家に感謝する。

この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

この日は大雪で米集めは出来なかったが、涅槃の釈迦さん参拝にお堂廻り、オヤ叩きも体験した勝原の子どもたち。

ヤド家がこしらえた美味しい涅槃の料理を舌鼓。

勝原の歴史を紡ぐ子供たちは、村の行事を体験することで継承していくのだろう。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

巡り合えたあじさい節句

2017年12月16日 08時56分26秒 | 民俗あれこれ(護符編)
長居をするにつれ溜まってきたものが気にかかる。

徐脈もちの関係で利尿剤を服用している。

少なくとも1時間に一度は排尿しないと身体が膨満、浮腫みになる。

トイレを貸してくださいとお願いして使用させていただく。

それからしばらく経ったことだ。

同行取材しているKさんがトイレに吊っている包に文字があるという。

もしかとしてこれは、といって確認した。

紙包に書いてあった文字は日付である。

家人に尋ねた「これなんですのん」の答えは「毎年の6月に庭に咲いているあじさいを摘んできて包んでいます」という。

では、「この文字はなんですのん」とまたもや問合せ。

これは女性が、シモの世話にならないように祈願するまじないのようなものだと教えてくださる。

このあじさい花のまじないはある民俗本に載っていたと云ったのはKさんだ。

地域は不明であるが、なんとなく山城町の上狛のようだった、という。

女性だけに信ぜられた民間信仰。

Sさんの奥さんの母親が住む桜井市芝の友だちから聞いたまじないを嫁入り先のS家に伝えたという民間信仰。

そのことを知った義母は、それは良いことだと、私も一緒にしたいと云って続けてきた民間信仰である。

こうした民間信仰は母親、或いはおばあさんから子どもに伝えていくのが常であるが、年齢を遡る逆の形態が面白い。

さて、このあじさいのまじないには呪文がある。

ほぼ半年前にトイレに祭っていた紫陽花はとっくに枯れている。

一年間はそのまま放置して翌年に新しい呪文を書いた紙で、新しく摘み取った紫陽花を包んでいるから、拡げて中身を見せてくださった。

呪文の願文は「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」。



さて、それがどういう意味をもっているかわはまったくわからない、という。

願文に日付はもとより、願主の名前、生年月日も半紙に書く。

書いた願文は紫陽花を覆い隠すように包んで水引で括る。

それをトイレにもっていって、逆さに吊る。

手を合わせることのないまじないである。

ネットで調べた「鳥枢沙摩明王」は、「うすさまみょうおう」或いは「うすしまみょうおう」読みとする密教の明王の一尊。

真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗などの諸宗派で信仰されるとあった。

しかも、である。

飯島吉晴氏が報告された論考『烏枢沙摩明王と厠神』があると・・。

「鳥枢沙摩明王」はトイレの神さま。

「うっさま明王」の名で親しまれているらしい。

また、陳甜氏が論考された『ポックリ信仰研究序説:ポックリ信仰の諸相(東北文化研究室紀要)』によれば、「鳥枢沙摩明王」はトイレの神様也。

「不浄を厭わず、不浄な場所に巣食って諸病災厄の因をなす魔鬼の類を抑える呪力を有するために、厠(かわや)の守護神」である。

ごく普通の一般家庭では、周囲の人の世話をする役目とされる嫁に面倒をかけたくない、とりわけシモの世話にならんように、という願う人は多い。

大事なことはS家の嫁と姑は、お互いがシモの世話にならんようにと思いやっていることである。

シモの世話の件に関しては嫁、姑間のことでもないと思っている。

親子、或いは義理親子であっても、男女関係なくご互いが、寝たきりにならず、家族の世話もかけずにポックリと逝く安楽往生が理想ではないだろうか。

葛城市染野の傘堂祈願もシモの世話にならんようにとする民間信仰。

方法論が違うだけで願いは同じだと思っている。

呪文の「オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」は鳥枢沙摩明王のご真言であったが、何故に紫陽花であるのか。

何故に6月の節句であるのか、謎は残った。

ちなみにネットをぐぐって得られたあじさい祈願の方法である。

あじさい神社で知られる兵庫県相生市若狭野町野々に鎮座する「若狭野天満神社」のHPで「魔除けあじさいお守り」を詳しく紹介されていた。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

勝原・S家のもてなし

2017年12月15日 09時06分35秒 | 山添村へ
白の世界を拝見していた山添村の勝原。

この日は子供涅槃が行われる。

当初の予定では朝から2人の子どもが集落全戸を巡ってお米集めをする予定であったが、生憎の大雪にやむない決断がくだされた。

午後に始まる薬師堂での行事はあるが、何時間も待つことになる。

この日にお邪魔した家は昨年の11月16日に行われた奈良県主催の「農とつながる伝統祭事フォーラム」を主に担当する職員さんだった。

ひょんなことから出合ったSさんとは、これもまた昨年の12月4日、山添村大西で行われた新嘗祭で再びお会いした。

仕事の関係もあってマツリに供えられる芋串の取材をしておられた。

奇遇にもこの日に同行取材していた写真家Kさんも居た。

そこでお願いした勝原の子供涅槃の取材願いに承諾してくださった。

ありがたいことであるが、涅槃行事が始まるまでの時間はたっぷりある。

どうぞ、ごゆっくりと云われても、ほんまに申しわけない、といいつつ家人に甘えてついつい長居してしまう。

シャーレのよう見えた容器の蓋に落としたビーンズ。

さまざまな種類があるから実にカラフル。

点々のある文様は鶉のように見えるから鶉豆のネーミングがある。

それ以外はなんの豆であろうか。

緑色に鶯色。

淡い黄色もあれば白色に茶色も。

これら含めて鶉豆なんだろうか。

いや違うような気がする。

形から云えばやや扁平。

レンズ豆なんだかなぁ。

ネットをぐぐって一つ、一つを検証するのもなんだかなぁ。

昼食までの時間帯は、初めて拝見したあじさい節句に感動するやら、写真家Yさんが当村で世話になっているO氏と山添村で開催する山添村の風景写真展示会への取り組み方などを相談する日でもあった。

そろそろお昼ご飯、といわれてS家のもてなし料理をいただく。



自家製のコンニャクに味付け。

漬物は白菜、蕪。いや、違った、日野菜漬け。

大盛りの漬物もあれば、ハムに茹でブロッコリーに胡麻和えサラダも。

主役はカレーライス。

これがまた、美味しいんだなぁ。

なにもかも世話になりっぱなしで、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

勝原・雪掻き道造り

2017年12月14日 09時38分47秒 | 山添村へ
子供涅槃が行われている山添村の勝原を訪れるのは、実に5年ぶり。

平成24年の8月28日以来である。

訪問目的は八柱神社で行われていたという風の祈祷であったが、最近なのか、ずっと前なのかわからないが神社付近におられた婦人の話しでは中断したと云っていた。

ついでといってはなんであるが、元日行事の歳旦祭も尋ねたが、これもなんとなくしていないような口ぶりだった。

歳旦祭は村の人の初老祝儀式も兼ねていた。

初老の祝いは県内事例に多くあるようだが、未だ拝見できていない村行事である。

山添村の大塩でも元日に数え42歳になった初老や61歳の還暦に米寿を祝っている。

天理市山田町の下山田では元日ではなく4月21日のお大師さんの日に、大塩同様に数え42歳の初老、61歳の還暦の人たちの厄払いに祝っていた。

勝原の歳旦祭には酒を並々と注いだ高砂盃を飲み干す習慣があった。

祝いの謡いはザザンザーである。

酒杯のザザンダーも拝見したかったが、叶わなかった。

昨年のことである。

11月16日に橿原市の施設である橿原市立かしはら万葉ホールで奈良県主催の「農とつながる伝統祭事フォーラム」を聴講していた。

会場で担当されていたS氏と知り合うことになった日である。

S氏のお住まいが山添村の勝原と聞いて子供涅槃を思い出した。

平成21年の2月21日が実施日だった。

取材ができるまで4年間も経っていた。

子供涅槃にオヤを務める15歳の子どもがいなければ、行事はない。

対象となる子どもは中学3年生。

4年前に下見をさせていただいたときはまだ小学5年生だった子供がこの年にようやく15歳になる。

その間は対象の子どもがいないから、行事をすることはできない。

待ち続けてようやく拝見できたときはとても嬉しかった。

勝原の子供涅槃は大きく分けて三つの段階がある。

始まりは米集め

そして、オヤが接待役を務めるヤド家で昼ご飯をよばれ。

昼食後は薬師寺のお堂廻り駆け抜け、竹でオヤを叩く試練などがあって夜の膳もヤド家でよばれる3部構成の行事である。

今年もするが、人数は3人になったと話してくれたSさんに取材をお願いしたのは言うまでもない。

ちなみに平成21年に取材した子供の涅槃は当方のブログにアップしている。

アップされた写真に、私の子どもが映っていると云う。
このときの人数は12人。

人数が多かったこの年は2組に分かれてお米貰い。

私が同行した組にお子さんがおられた。

しかも、である。

オヤ家の父親とともに記念の写真を撮っていたもう一人の男性がSさんだった。

なんという奇遇であろうか。

当時、撮らせてもらった写真はオヤ家のK家には差し上げたが、Sさんはアルバムを見ただけのようだった。

あらためて現画像をメール添付で送らせてもらったら、大層喜んでくれはった。

奇遇な出会いに、交わる経緯もあって再訪する勝原は前夜から降った雪で辺り一面が真っ白になっていた。

名阪国道は除雪していたので難なく走って来られたが、神野口ICを出て勝原に向かう農道からはバリバリ状態。

慎重に運ぶハンドルさばきにスタッドレスタイヤが効果を発揮してくれるには時速20kmが制限速度。

1.8km先の勝原に着くまではドキドキだった。

目的地はさらにそこから下った公民館駐車場で落ち合う集合地。

子供涅槃を是非拝見したいと申し出ていた写真家Kさんと、風景写真家のYさんとともに勝原入りである。

実は朝から始まる予定だった小学生2人の子どもの米集めは大人の判断で中止となった。

米集めに大雪になった50戸余りの勝原集落全戸を巡るには滑って転げることが考えられる。

そういう判断である。

朝の9時。

道先案内人に誘われて雪景色いっぱいが広がる勝原集落を眺めながら歩く。

その先に見える人影が動いた。

近づいてようやくわかった雪掻き作業。



青色のスコップで庭先や道に積もった雪を掻いていた婦人。

このお家はたしか、平成21年に子供涅槃にヤド家を務めたK家。

婦人はそのことを覚えておられた。

懐かしい昔話をしている暇はない。

右下に下りていく里道。

点々と続く足跡は一直線

人間の足跡ではないような気がするが、ゆっくり観察している場合でもない。



K家のお爺さんも出動する雪掻き道具は手造り。

勝原は大雪になることがままあるらしく、道具は降ってからでは間に合わないから、予めに作っておく。

形はスコップのようだが、道具を押して雪を掻き集める。

集めた雪は、適度な場所に捨てる。

これを繰り返すことで道路は車も走らせることができる。



屋根に積もった雪よりも先に作業をしたのは足の確保であった。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

名阪国道を下りた村里は白の世界

2017年12月13日 09時13分59秒 | 自然観察会(番外編)
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった・・・」から始まる文をついつい連想してしまうトンネル越え。

真っ赤な紅葉の場合もそう思って口走ってしまうこともあれば青空に広がる海に遭遇したときも・・・。

突然に現れた景色に感動することもあれば、ここは異次元やとか思うこともままある。

この日はトンネルではなく、名阪国道の神野口インターを降りたときに、思わず口に出た「真っ白やっ」。

景色よりも現実的なことはタイヤの心配。

目的地までいけるかどうか、だった。

積雪量はどれぐらいだろうか。

数台が通ったと思われる轍に合わせてハンドルを握る。

タイヤは新品同様のスタッドレスタイヤ。

滑りはまったくなく動じないタイヤにまずは一安心。

とはいっても運転を疎かにすればとんでもない結果になる。

そう思える積雪量に平坦では味わえない登り下り道に緩やかなカーブライン。

登りは苦にならないが下りは慎重そのもの。

外気温は低い。

外の寒さで身体も震えるが、内心は怖さの震えである。

目的地も村の道もよく知っているカーブライン。

もう少しだ、もう少しと思いながら低速運転。

距離は1.5kmぐらいだからそう遠くはない。

遠くはないが、近くでもない距離に身も心もヒヤヒヤである。



とりあえず着いた場は集落に入る一つの道。

目的地はさらにそこから下った400mのところだ。

集合地の公民館駐車場に着いたときはほっと安堵した。

この日の行事は子供涅槃

あまりの積雪に午前中行われる予定だった米集めはやむなく中断した。

危険性はないに等しいが大人の判断で決断された。

そういう事情もあってこの場で佇む真っ白な世界に溺れ込む。



深みに入ったわけでもなくカメラレンズが勝手に動き出す。

前が見えないくらいの吹雪状態。

実際はそこまででもなくレンズの悪戯のようだ。



しばらく待っておれば青空が広がった。

小屋の屋根から滴が垂れる。

凍りついたツララは何本も垂れ下がっていた。

街で育った私は真っ白な雪の世界に憧れる。

憧れだけでは生活ができない

雪国の暮らしは風景だけでは生活できない。

毎度のニュースで紹介される雪掻き作業。

人身事故が発生する場合もある。

呑気に見ている私はこれでいいのかと思ってしまう。

雪が降れば真っ先に出かけるというカメラマンは多い。

雪国の暮らしなどしたこともないカメラマンはただただ写真を撮るだけ・・・。

それはともかく白の世界から氷の世界に転じるツララがある。



屋根の積もり具合で積雪量がわかりそうなもんだが・・・というようなことを書いている私も非体験者である。

ところでこれは何だ。



何者かが残した足跡であるが、人が歩いた足跡とは思えない形。

鳥の足ではない。

写真ではわかり難いが動物の足跡に違いないが、ワンコではないようだ。

ネコ、キツネ、タヌキ、それともアライグマ。



足跡がずっと向こうまで続いているが後を追う気にはなれない。

落ち着いていた降る雪。



白い雲が西の方から流れてきた。

とたんに横降りの雪が降る。

降るという表現でもない。

降るという言葉のイメージは深々と降る、である。



横殴りの場合はどういう風に表現すればいいのだろうか。

夕方になってようやく降る雪が止まった。

風当り、ではなく雪当たりの樹木は名前の通りのユキヤナギ。



じゃなかったっ・・・ネコヤナギ。

もう一本は黄色がちらほら。

雪帽子を被った蠟梅も狼狽し・・・・洒落にならんけど・・。



これってニワノサンシュウ・・。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

3度も往復した雪の日の確定申告in奈良図書情報館

2017年12月12日 08時38分04秒 | メモしとこっ!(確定申告編)
あぁーー、やっと平成28年分の確定申告が終わった。

今年はそれに加えて平成27年分の医療費控除もしなければならない。

前年度は開胸手術に焼却処置もした。

そのときの治療費は相当な額になったが、医療費控除を整備する気力も生まれなかった。

そういう状況であることを税務相談員は翌年に申請してくださいと云われた。

なんでも前年にかかった医療費は控除申請ができるということだった。

それから1年経った平成29年の2月。

2年分の医療費に支払った領収書を一枚、一枚を検証して日付け別に整備する。

それと同時にエクセル表に入力してデータ整備する。

これまで医療費控除をしてきた方法だが、今回は少しの手間が要る。

歯医者さんや内科、或は皮膚科など多様な治療であるが、控除申請する場合はすべてにおいて領収書を添付しなければならない。

確定申告においては当たり前の作業である。

受診者、続柄、医療機関、日付、医療費/調剤費、交通費などの検証をする。

支払い医療費の互恵をしてそれで完了だ。

日付順に並べた領収書は束ねてパソコンで出力した一覧表を添付して完了だ。

慣れてはいるが、今回の受診件数は例年よりとにかく多い。

平成27年は心臓の病に入院治療。

一回当たりの支払いも高額。

これについては市役所で受理、発行してもらった認定書をもって高額医療費限度額内で支払う。

入院治療をしたのは平成27年7月と8月。

それから数カ月も入院処置した。

その場合も高額医療費となったので認定書提示で支払額は抑えられた。

年齢によって限度額は異なるが、ありがたい制度に感謝する。

かつてない医療は将来に亘って続くと想定され、支払いだけでなく一切の治療関係書類含めてファイル化している。

1件の受診が後々もわかるようにクリヤーファイルに綴じている。

そのファイルから抜き出して医療費を整備する。

取り出しては控えのコピーをとる。

受診件数が多いから時間はけっこーかかった。

平成27年分で丸一日。

平成28年分で丸一日もかかった。

厚さでいえば8mmの平成27年分。

平成28年分はそれよりも枚数が増えて15mm。

分厚いし支払い総額も大きい。

例年と違うのはもう一点ある。

患者さんを送迎していた仕事に就くことはできなくなった。

所得収入と云えば厚生年金と企業年金に連合会年金の三つ。

連合会年金は勤めた期間が短いからたったの2千円。

たったといっても無駄にはできない生活年金。

ありがたく頂戴している。

雑収入も少ない。

不自由な身体になったが一本の講演料もある。

少額ではあるが源泉徴収されているので還付の対象になるはずだ。

間違いなく対象になる高額の源泉徴収は企業年金。

これも今年度までの支給。

来年はぐっと所得額が減る。

切り詰める実年金生活が待っている。

所得にならなかった雑所得がある。

10年間一括払いの地震保険付き損害保険である。

これは昨年の8月に満期となった。

支払いができる年代ではない年齢。

将来を見据えて継続はしなかった。

むしろ満期金がなければ生活できない時代を迎えていたのである。

満期金も雑所得である。

保険料を差っ引いた額に控除金額の50万円を差し引く。

計算すれば一時所得金が「-」になる。

こういう場合は確定申告をする必要はない。

保険会社もそう電話で伝えていたが、支払調書は発行して欲しいのである。

そういうことだが、後々に税務署から問われるのではと思って、本日の相談に掛けた。

計算された結果は・・添付も申請も不要の言葉に安心する。

二日間かけて整備した資料や医療費控除一覧表に公的年金源泉徴収票、雑所得の支払調書、生保保険料控除証明書、共済掛金払込証明書、国保口座振替納付済通知書、介護保険料納付書兼領収書などを臨時相談場の奈良県図書情報館に持ち込んだ。

持ち込む日は9日を予定していた。

相談日は15日までだ。

終わり近くになれば焦ってしまう。

開設日の近日であれば込む可能性が高い。

そう思って取材のない合間に予定を立てた。

ところがだ。

前日に伝えられていた通りの雪マーク。

朝から降っていた雪は草木や土を真っ白にする。

ゴミ出ししていたブルーシートも真っ白。

ゴミ収集車が取り去ると同時にシートを折りたたんで回収する。

雪降るなかの作業に隣組も出て合計4人がかりの回収作業。

尤も3人は毎回出ておられるんだけど・・・。

それはともかく出かける時間帯も考える。

順番待ちや対応に時間がかかる人もいる。

状況はその日に訪問された相談者によってさまざまだが、だいたいの時間はこれまで相談・入力・検証までの時間でわかる。

およそ1時間半から2時間かかることは必至である。

昼を過ぎても構わない。

2時間を予想していて10時半には着きたいと思っていたこの日は雪が降る日。

すっかり周りの景色は冬の色に染まっていた。

我が家の中庭も外庭も。

そして向かいの山も。建築中の新県立病院に入る導入路を建設している。

丘だった山は崩されてその下に道路を敷設する。

来年の今頃はさらに変貌していることだろう。

降った雪は積もってはいるが道路は水浸し状態。

僅かにミゾレっぽい氷状もある。

車は十分に走れる。

外は寒い。

エンジンが温もるまでしばらく待つ。

たぶんにこの日の確定申告相談者は少ないだろう。

そう思って動き出した。

県道もそうだが、住宅地もすっかり人の気配がない。

車の往来もトンとない。

いつもなら信号待ちで渋滞している県道もスイスイ走る。

柏木町の大通りに出てもそうである。



いつもより早く着いた奈良図書情報館の駐車場も少ない。

館外で整理券を配る職員さんは防寒着の着ぐるみさん状態。

受付はこの整理券の番号で呼び出される。

待合室はほぼ完全な空き状態。

着いた時間は午前10時35分。



現在の呼び出し番号は169番。

待ち番号が159番だからここにいる相談者はたったの10人。

例年ならここに100人も待つぐらいなのに・・・。

寒い日は家から出たくない。

道路は凍っているかも知れない。

高齢者でなくとも危ない日は避けて明日にしようと思ったのか、とにかく少ない。

雪の日の予想は当たった。

数分も経たないうちに呼び出し。

早速、今回の確定申告のポイントを説明させてもらった。

受けてくれた相談員は若手のお嬢さん。

雪が舞うこともあったのか、それとも初めての場であったのか奈良図書情報館の位置がわからなくてうろうろしたらしい。

とにかく説明すべき点は2年間の医療費控除。

平成27年分をみてもらったら入院した時に市役所から補填されましたか、という。

その通りである。

高額医療費は免除ではないが国保限度額適用された支払いをしている。

それを記載して計算している。

これは問がない。

入院と云えば加入している保険の補てんがあったか、なかった、である。

我が家はあった、である。

入院給付金が下りて補填されている。

入院は3度もあった。

それぞれ退院後に診断書をとって給付申請をした。

受理されて保険金が下りた。

それが補填である。

迂闊にもそれが抜けていた。

1年前のことなのに、ありがたく受け取った保険金はすっかり忘れていた。

その件は仕方なく家で再整備して再訪するしかない。

後回しである。本来の平成28年分の確定申告に集中する。

特に気になっていた10年満期の地震保険である。

前述したようにこれについては一切が不要。

持参した書類を検証して貰って持ち帰りである。

そこでふと云われた相談員の言葉。

地震保険の確定申告はないのですか、である。

そういえば保険会社からは地震保険満期に伴って火災保険に切り替えたが、それもないな、である。

保険料控除証明が届いていないことに気づいたが、それがあったとしても差っ引く税がないから、あっても無用である。

ま、いっか、ということで年金関係や雑所得の書類を検証していただく。

そこで気づかれた相談員の言葉。

支払調書に日付がないですが、問題とはならないと判断します、ということだ。

少額だからそうされたと思うが、発行元の団体には後日に伝えておこう。

もう一つの確認事項。

かーさんがもらっている公的年金である。

働いていないから収入はない。

ないが、公的年金はある。

それが高額であれば、扶養控除から外れて独自に申告せねばならない。

金額は100万円を越えているが、年齢が65歳以上。

その場合であればギリギリのところで免除となり、扶養控除扱いになった。

あとは支払っている国民健康保険税や介護保険料。

持参した書類から金額だけを記載された。

書類提出は不要である。

一連の検証をしているときに気づかれた相談員。

私が説明したなかに医療費支払い日に出費した交通費である。

低脈拍状態は今でも続いているが身体を動かせば正常値になる。

動いておれば問題はない。

そういうことで主治医からは運転可能のお墨付きをもらっている。

そこに至るまでの数か月間は運転をしてはならぬ指示があった。

通院はどうするか。

車ではなくバス、電車の交通機関の利用である。

その場合は控除申請ができる。

その期間は10日間。

往復で960円だから出費は9600円にもなる。

そういう理由で一部の期間については交通費を記載しているといえば、心配された。

申請を心配されたわけではなく、私の身体のことを心配された。

そんな低い脈拍で大丈夫なのですか、である。

そう、これが私の現況。

それでも生きていますと笑っていったら、笑顔で返された。

こうした検証を終えて次はデータ入力のパソコンコーナーへ移る。

ここにも受付がおられて、セルフできますか、と問われた。

いつもそう問われるが、セルフはしない。

補助者がついていても入力は専門の人に任せる。

アルファベット、数字、漢字の入力もあるが、メニュー画面に慣れていないから画面が遷るたびに戸惑いが発生する。

表示された内容を読みとるまで時間がかかる。

そういう理由で慣れている人に対応してもらった方が早い。



そう思って選択した受付番号は88。

ダブル末広がり番号であるが、申告とはなんら関係がない。

10分ほど待って先ほど検証してくださった相談員どうように書類などの説明をする。

申告の状態は人によってまったく違う。

そう思うから、つい説明したくなる。

纏めた医療費一覧表は領収書の枚数が多いから1.5cm。

しかも指定の収納、計算値を表記する『平成28年医療費明細書』袋のサイズはB5。

払った医療費領収書は一番大きなサイズでA4。

この袋に入るどおりがない。

どこからともなく大きな袋を探してくれたパソコン入力職員。

官庁関係は未だにBサイズなのか。

いい加減時代がかわったのだからAサイズの導入をされたらどうかと進言したい。

尤も今回の束ねた書類の厚さは1.5cmだからもっと大きな袋を要する。

平成29年も同じような枚数になるであろう我が家の申請。

特別版を自作しないといけないのかな。

パソコン入力はいつもの通りにパスワードを入力する。

私が知る範囲にはないパスワードは税務署職員しか知り得ない記号番号。

セルフの場合や自宅でe-taxする場合はどうするんだろうか。

入力は支障なく済ませて配偶者・扶養者も確認する。

確認が終われば郵貯か銀行振り込みかの選択。

これもいつも通りなので指定口座の番号もメモってでかけていた。

これまで、それを反らずに自宅に居る家人に確認をとったものだ。

最後だったかどうか覚えてないが、マイナンバーの確認だ。

確認といっても番号を入力して自分で確かめる。

暗証番号の再確認のようなものだが、マイナンバーは配偶者・扶養者すべての確認が必要だという。

えー、である。

確定申告の案内にはそんなことは書いてあったっけ・・。

自宅に戻ってから探してみたが、記載はない。

ここに来て初めて知った配偶者・扶養者のマイナンバー確認。

個人証明に免許証のコピーを持っていたが、それは要らないという。

要る場合は、ご自身のパソコンからe-tax処理して税務所送付する場合だけだという。

配偶者・扶養者は用意してないですと応えたら、それではいいですとなる。

こんなんでいいのか、である。



すべてを終わって駐車場。

カードを挿入して表示された金額は100円。

入庫時間が10時28分で出庫は12時25分だ。

相談者はいつもより少なかったが結局は2時間コース。

ま、そんなもんだが自宅に戻って昼ご飯。



申告から戻った時間は午後1時前。移転というか、奈良県総合医療センター(旧奈良県立病院)導入路工事中の場はまだ雪解けやまず・・だ。

済ませて指摘された生命保険等補填額を掻き集める。

エクセルデータも修正して一覧表も再作成して再びやってきた相談会場の奈良図書情報館。

午後2時半の受付番号は404番になっていた。

朝に来たときから235人も来ていたということだ。

前年の平成27年2月4日に着いた時間帯は午前11時半で347番。

本日がいかに少ない日であるか、よくわかる。

並ぶことなくすぐさま相談員が待つ席を指示される。

今度は若手の男性職員。

事情を話せば直ちに検証してくださる平成27年の医療費控除。

生命保険等補填額が抜けていたので再訪したと伝えて一覧表を提示したら、合算計で支払い額と差引するのではなく、入院給付であるならそのときに支払った金額単体で差し引きするのです、と云われる。

合算であれば保険金が高額でマイナスになる。

そうではなく事情発生した単体ごとに差引計算をするというのだ。

午前中に伺った相談員はそのことを私に伝えていないから、またもや自宅に戻って修正しないと、といえばこの場で対応してくれている相談員はちょこちょこっと一覧表に鉛筆書きで記入される。

それで合計をすればいいのです、と云われる。

なるほどそういう具合に計算するのか。

一旦戻ることなく、入院給付金支払い票を添付しているので、一覧表は訂正数値を記入すればいいという。

なるほど。これもまた勉強になる。

これをクリアーしたらパソコン入力だ。

受付で待つ人数は2人。

早くも回って来た。

こういう事情でパソコン入力と指示されてきたと伝えたら、これはできませんという。

えっ、である。

入力者はアルバイトではないが、スタッフさん。

専門職の職員に助け舟を呼ぶ。

その人はこちらへ来てハンド作成になるという。

それは知らなんだ、である。

そりゃそうである。

専門職の職員が別途テーブルに置いたシートは『平成27年分所得税及び復興特別所得税の更正の請求書』である。

見るのは当然ながら初めてみる書類である。

職員が指示する通りに記載してくださいと云われてボールペンで書く。

郵便番号、住所、名前を書いて・・・あれえ。そこには「印」の文字。

これって印鑑が要りますよね、といえば、そうですと答える。

本日の確定申告相談は検証して入力で済む。

印鑑なんぞまったく不要である。

印鑑が要るって早く言ってよ、と思わず口に出る。

専門職の職員は申し訳なさそうに、訂正(更正)書類は税務事務の取り扱い上、押印が必須であると云われる。

そうなんだ、としか言いようがないが、印鑑は持ち合わせていない。

そうであれば書類に必要事項を記入されて後日でもいいから押印して直接税務署に持参していただければ、受け付けますという。

相談時間は午後4時で終わる。

それまでに印鑑を押して戻ってきたらすべての申告が終わる。

そう思って、指示された項目の書き込みを急ぐ。

記入項目は請求の目的。

記載は「平成27年分所得税」だ。

次は更正請求する理由で「医療費控除もれ」と書く。

次は添付した書類で「医療費の明細」。

請求額の計算は前年に確定申告した「控え」より、総合課税の所得金額(雑、一時)の2項目、所得から差し引きする金額(雑損医療費控除、社会保険料控除、生命保険料控除、地震保険料控除、配偶者控除、扶養控除、基礎控除)の7項目である。

記載項目はまだある。課税される所得金額税、差引所得税額、再差引所得税額、復興特別所得税額、所得税及び復興特別所得税の源泉徴収額、所得税及び復興特別所得税の申告納税額、還付される税金に枠外に書いた差引された実際に還付される金額である。

あとは還付税金を受け取る金融機関の名前、本支店、口座番号で終わった。

すべてが指示されるがままに書いた更正の請求書である。

一旦は会場を出て自宅に戻る。

大慌てでシャチハタでない印鑑で押印する。

再び会場目指して車を走らせる。

受付会場は受付を終えていた。

裏口から入って請求書と医療費明細を提出する。

受け付ける男性はやはり専門職。

理由がわかれば対応も早い。

マイナンバーにある個人番号を記入してすべてを終わった。



退出した時間は午後3時51分。

ギリギリの間一髪で終わった。

長くかかった確定申告の一日はこうして終えた。

そんな甲斐もあって我が家に還付金が振り込まれることになった。

ありがたい還付金は2種類ある。

いずれも平成28年度の申告の際に更正された平成27年の医療費控除の結果である。

恩恵の一つは税務署直接的な税制還付金。

発生月日は3月8日で、3月末に5564円が口座振り込みされた。

もう一つの通知は4月22日に届いた市税務課からの通知である。

ひょっとすれば還付はあるのか、それともないのか。

期待していなかった。

すっかり忘れていたころの4月22日に届いた通知も還付金が発生した。

それは市・県民税。

この額は我が家にとっては大きい過誤納税額は17500円。

ありがたや、ありがたやであるが、病気にならんほうがもっと良いが・・・。

その後の6月に市民税が確定した。

その結果は雑所得に対してとなる金額で今年は1400円になったということだ。

(H29. 2. 9 SB932SH撮影)