奈良市米谷町の白山比咩神社拝殿に掲げている一枚の写真がある。
白黒写真でとらえた被写体はどうやら太鼓踊りの様相を描いた絵馬のように見える。
神社前の境内で何十人にもなる踊り子たちが躍る姿はいつの時代なのか、よくわからない。
丁髷が見られないことから明治時代以降のように思える。
中央に大太鼓。
太鼓打ちのバチさばき。
奈良市大柳生の太鼓踊りのようなシナイはないが、衣装はよく似ている。
色刷であればもっとわかりやすいが生憎の白黒。
日の丸扇のように見えるものもある。
社殿前にずらりと並ぶ羽織袴姿の人たちは編笠を被っている。
右手になにかをもって振っているように見えるから音頭取りの歌い手さんであろう。
『五ケ谷村史』に雨乞い行事のことが記載されている。
「稲作のうえで水は不可欠のものであり、夏場に日照りが続き水不足になることは、農家にとって一大事である。その打開のためには実際の用水の確保はもちろんであるが、神仏への祈願も盛んに行われた。例えば明治14年は日照りが続いた年であったらしく、米谷や北椿尾に、その時の雨乞い祈願の記録が残っている」とあり、ここでは明治14年7月14日に奉願した米谷町の事例を紹介する。
祈願文の「願状之事」、
一.戸毎灯燈
一.村中砂持
右ハ 今日□十八日迄五日間
降雨候者右振上之上壱ツ
願満事可仕此有奉願候也
明治十四年七月十四日 村民共
白山比咩神社様
満願ともなれば、「奉願上候事・・」に、
一.子供相撲
一.花笠踊り
一.タンダ踊り
右ハ 本月廿六日ヨリ晦日迄
五日ノ迄降雨雨相成候者
振上ノ上
右三ツノ内壱ツ願満シ
加致 奉願候也
明治十四年七月廿六日 村民共
白山比咩神社様
14日から18日までの各家は燈明をあげるか、それとも砂持ちをするかは、フリアゲによって決めた。
降雨が叶えば、そのお礼にまたもやフリアゲをして、子供相撲、花笠踊り、タンダ踊りを氏神奉納することにしていた。
米谷町の太鼓踊りは「神楽(※じんやく)踊り」、或いは単に「雨乞い踊り」と呼ぶこともあった。
また、囃子詞章から「テッテコ踊り」とも呼んでいた。
踊りは雨乞いの他に、4月1日(明治5年以降は旧暦から新暦に移行した関係で5月1日)に踊っていたが、昭和の7、8年ころに踊った雨乞い踊りが最後になるらしい。
『五ケ谷村史』に記された解説はさらに続く。
「この踊りの起源についてはいくつかの伝承がある。昭和11年2月14日に現NHK大阪放送局のラジオ放送でこの踊りを紹介された。そのときに使用された解説資料は故裏野秀吉氏が遺した小文に“神楽踊ハ三百六十有餘(※余)前時ノ領主平対馬守家老尾崎作左衛門様ヨリ天下泰平五穀成就祈願ノ為メ天正十五年(1587)三月村民ニ教ヘラレシ踊リニシテ・・後略”とある。大昔、天から米が降ってきたので喜んで踊ったのが始まりで、米谷の名がついたという言い伝えがある。さらに、百年以上も前に旧都祁村吐山(現奈良市吐山町)から来ていたオトゴシ(男衆)から習ったとも・・。」
『五ケ谷村史』の解説文によれば、残された白黒写真で撮った絵馬(元の絵馬は行方不)は、装束の様相から明治時代以降のものと思われるそうだ。
拝殿前で紋付きを着た襷(たすき)がけの男が太鼓を打つ。
両側二人は口を隠すように扇子を持ち、鳥追い笠を被った「ウタダシ」が躍り唄を歌う。
「ウタダシ」とは奇妙な名称であるが、平成27年11月3日に拝見した京都府南山城村の田山で行われている田山の太鼓踊りに登場する「唄付け」と同じである。
奈良県内では見られない、特徴的な風流姿に感動したものだったが、ここ米谷で残された写真の被り物は鳥追い笠であったのだ。
こうした類事例は三重県に多く見られる。
両側一列に同じ格好で鉦を打つ人が左右に6人ずつ並ぶ。
中央に踊り子がたくさん。
左右二人ずつの6人が向かい合って並ぶ。
前列の踊り子は鉢巻き姿に房付きシデを振るシデフリ。
後列は背中に御幣。頭は鶏の羽根。
胸にカンコ(羯鼓)をつけて両手にバチを持つ踊り子たち。
さらには、手前に団扇で扇ぐように拍子をとる女性も描かれている。
米谷の太鼓踊りに奉納される踊り唄は「雨乞」、「駒引」、「堺」、「恋ひ」、「御寺」、「忍び」、「十九」、「山伏」、「鎌倉」、「鳴子」、「加賀」、「士族」の12曲。
安政五年(1858)写本の『宇多於と利』、並びに対象13年の『雨乞踊歌本』などの歌本が残されており、『奈良市史 民俗編』に大正の歌本全文が翻刻されているとあった。
(H29. 2. 8 EOS40D撮影)
白黒写真でとらえた被写体はどうやら太鼓踊りの様相を描いた絵馬のように見える。
神社前の境内で何十人にもなる踊り子たちが躍る姿はいつの時代なのか、よくわからない。
丁髷が見られないことから明治時代以降のように思える。
中央に大太鼓。
太鼓打ちのバチさばき。
奈良市大柳生の太鼓踊りのようなシナイはないが、衣装はよく似ている。
色刷であればもっとわかりやすいが生憎の白黒。
日の丸扇のように見えるものもある。
社殿前にずらりと並ぶ羽織袴姿の人たちは編笠を被っている。
右手になにかをもって振っているように見えるから音頭取りの歌い手さんであろう。
『五ケ谷村史』に雨乞い行事のことが記載されている。
「稲作のうえで水は不可欠のものであり、夏場に日照りが続き水不足になることは、農家にとって一大事である。その打開のためには実際の用水の確保はもちろんであるが、神仏への祈願も盛んに行われた。例えば明治14年は日照りが続いた年であったらしく、米谷や北椿尾に、その時の雨乞い祈願の記録が残っている」とあり、ここでは明治14年7月14日に奉願した米谷町の事例を紹介する。
祈願文の「願状之事」、
一.戸毎灯燈
一.村中砂持
右ハ 今日□十八日迄五日間
降雨候者右振上之上壱ツ
願満事可仕此有奉願候也
明治十四年七月十四日 村民共
白山比咩神社様
満願ともなれば、「奉願上候事・・」に、
一.子供相撲
一.花笠踊り
一.タンダ踊り
右ハ 本月廿六日ヨリ晦日迄
五日ノ迄降雨雨相成候者
振上ノ上
右三ツノ内壱ツ願満シ
加致 奉願候也
明治十四年七月廿六日 村民共
白山比咩神社様
14日から18日までの各家は燈明をあげるか、それとも砂持ちをするかは、フリアゲによって決めた。
降雨が叶えば、そのお礼にまたもやフリアゲをして、子供相撲、花笠踊り、タンダ踊りを氏神奉納することにしていた。
米谷町の太鼓踊りは「神楽(※じんやく)踊り」、或いは単に「雨乞い踊り」と呼ぶこともあった。
また、囃子詞章から「テッテコ踊り」とも呼んでいた。
踊りは雨乞いの他に、4月1日(明治5年以降は旧暦から新暦に移行した関係で5月1日)に踊っていたが、昭和の7、8年ころに踊った雨乞い踊りが最後になるらしい。
『五ケ谷村史』に記された解説はさらに続く。
「この踊りの起源についてはいくつかの伝承がある。昭和11年2月14日に現NHK大阪放送局のラジオ放送でこの踊りを紹介された。そのときに使用された解説資料は故裏野秀吉氏が遺した小文に“神楽踊ハ三百六十有餘(※余)前時ノ領主平対馬守家老尾崎作左衛門様ヨリ天下泰平五穀成就祈願ノ為メ天正十五年(1587)三月村民ニ教ヘラレシ踊リニシテ・・後略”とある。大昔、天から米が降ってきたので喜んで踊ったのが始まりで、米谷の名がついたという言い伝えがある。さらに、百年以上も前に旧都祁村吐山(現奈良市吐山町)から来ていたオトゴシ(男衆)から習ったとも・・。」
『五ケ谷村史』の解説文によれば、残された白黒写真で撮った絵馬(元の絵馬は行方不)は、装束の様相から明治時代以降のものと思われるそうだ。
拝殿前で紋付きを着た襷(たすき)がけの男が太鼓を打つ。
両側二人は口を隠すように扇子を持ち、鳥追い笠を被った「ウタダシ」が躍り唄を歌う。
「ウタダシ」とは奇妙な名称であるが、平成27年11月3日に拝見した京都府南山城村の田山で行われている田山の太鼓踊りに登場する「唄付け」と同じである。
奈良県内では見られない、特徴的な風流姿に感動したものだったが、ここ米谷で残された写真の被り物は鳥追い笠であったのだ。
こうした類事例は三重県に多く見られる。
両側一列に同じ格好で鉦を打つ人が左右に6人ずつ並ぶ。
中央に踊り子がたくさん。
左右二人ずつの6人が向かい合って並ぶ。
前列の踊り子は鉢巻き姿に房付きシデを振るシデフリ。
後列は背中に御幣。頭は鶏の羽根。
胸にカンコ(羯鼓)をつけて両手にバチを持つ踊り子たち。
さらには、手前に団扇で扇ぐように拍子をとる女性も描かれている。
米谷の太鼓踊りに奉納される踊り唄は「雨乞」、「駒引」、「堺」、「恋ひ」、「御寺」、「忍び」、「十九」、「山伏」、「鎌倉」、「鳴子」、「加賀」、「士族」の12曲。
安政五年(1858)写本の『宇多於と利』、並びに対象13年の『雨乞踊歌本』などの歌本が残されており、『奈良市史 民俗編』に大正の歌本全文が翻刻されているとあった。
(H29. 2. 8 EOS40D撮影)