マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

米谷にかつてあった太鼓踊り

2017年12月11日 08時21分34秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良市米谷町の白山比咩神社拝殿に掲げている一枚の写真がある。

白黒写真でとらえた被写体はどうやら太鼓踊りの様相を描いた絵馬のように見える。

神社前の境内で何十人にもなる踊り子たちが躍る姿はいつの時代なのか、よくわからない。

丁髷が見られないことから明治時代以降のように思える。

中央に大太鼓。

太鼓打ちのバチさばき。

奈良市大柳生の太鼓踊りのようなシナイはないが、衣装はよく似ている。

色刷であればもっとわかりやすいが生憎の白黒。

日の丸扇のように見えるものもある。

社殿前にずらりと並ぶ羽織袴姿の人たちは編笠を被っている。

右手になにかをもって振っているように見えるから音頭取りの歌い手さんであろう。

『五ケ谷村史』に雨乞い行事のことが記載されている。

「稲作のうえで水は不可欠のものであり、夏場に日照りが続き水不足になることは、農家にとって一大事である。その打開のためには実際の用水の確保はもちろんであるが、神仏への祈願も盛んに行われた。例えば明治14年は日照りが続いた年であったらしく、米谷や北椿尾に、その時の雨乞い祈願の記録が残っている」とあり、ここでは明治14年7月14日に奉願した米谷町の事例を紹介する。

祈願文の「願状之事」、

一.戸毎灯燈

一.村中砂持
  右ハ 今日□十八日迄五日間
  降雨候者右振上之上壱ツ
  願満事可仕此有奉願候也
  明治十四年七月十四日 村民共
  白山比咩神社様

満願ともなれば、「奉願上候事・・」に、

一.子供相撲

一.花笠踊り

一.タンダ踊り
  右ハ 本月廿六日ヨリ晦日迄
  五日ノ迄降雨雨相成候者
            振上ノ上
  右三ツノ内壱ツ願満シ
  加致 奉願候也
  明治十四年七月廿六日 村民共
  白山比咩神社様

14日から18日までの各家は燈明をあげるか、それとも砂持ちをするかは、フリアゲによって決めた。

降雨が叶えば、そのお礼にまたもやフリアゲをして、子供相撲、花笠踊り、タンダ踊りを氏神奉納することにしていた。

米谷町の太鼓踊りは「神楽(※じんやく)踊り」、或いは単に「雨乞い踊り」と呼ぶこともあった。

また、囃子詞章から「テッテコ踊り」とも呼んでいた。

踊りは雨乞いの他に、4月1日(明治5年以降は旧暦から新暦に移行した関係で5月1日)に踊っていたが、昭和の7、8年ころに踊った雨乞い踊りが最後になるらしい。

『五ケ谷村史』に記された解説はさらに続く。

「この踊りの起源についてはいくつかの伝承がある。昭和11年2月14日に現NHK大阪放送局のラジオ放送でこの踊りを紹介された。そのときに使用された解説資料は故裏野秀吉氏が遺した小文に“神楽踊ハ三百六十有餘(※余)前時ノ領主平対馬守家老尾崎作左衛門様ヨリ天下泰平五穀成就祈願ノ為メ天正十五年(1587)三月村民ニ教ヘラレシ踊リニシテ・・後略”とある。大昔、天から米が降ってきたので喜んで踊ったのが始まりで、米谷の名がついたという言い伝えがある。さらに、百年以上も前に旧都祁村吐山(現奈良市吐山町)から来ていたオトゴシ(男衆)から習ったとも・・。」

『五ケ谷村史』の解説文によれば、残された白黒写真で撮った絵馬(元の絵馬は行方不)は、装束の様相から明治時代以降のものと思われるそうだ。

拝殿前で紋付きを着た襷(たすき)がけの男が太鼓を打つ。

両側二人は口を隠すように扇子を持ち、鳥追い笠を被った「ウタダシ」が躍り唄を歌う。

「ウタダシ」とは奇妙な名称であるが、平成27年11月3日に拝見した京都府南山城村の田山で行われている田山の太鼓踊りに登場する「唄付け」と同じである。

奈良県内では見られない、特徴的な風流姿に感動したものだったが、ここ米谷で残された写真の被り物は鳥追い笠であったのだ。

こうした類事例は三重県に多く見られる。

両側一列に同じ格好で鉦を打つ人が左右に6人ずつ並ぶ。

中央に踊り子がたくさん。

左右二人ずつの6人が向かい合って並ぶ。

前列の踊り子は鉢巻き姿に房付きシデを振るシデフリ。

後列は背中に御幣。頭は鶏の羽根。

胸にカンコ(羯鼓)をつけて両手にバチを持つ踊り子たち。

さらには、手前に団扇で扇ぐように拍子をとる女性も描かれている。

米谷の太鼓踊りに奉納される踊り唄は「雨乞」、「駒引」、「堺」、「恋ひ」、「御寺」、「忍び」、「十九」、「山伏」、「鎌倉」、「鳴子」、「加賀」、「士族」の12曲。

安政五年(1858)写本の『宇多於と利』、並びに対象13年の『雨乞踊歌本』などの歌本が残されており、『奈良市史 民俗編』に大正の歌本全文が翻刻されているとあった。

(H29. 2. 8 EOS40D撮影)

米谷町白山比咩神社の神主渡し

2017年12月10日 09時14分15秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
かつては「烏帽子渡し」と呼ばれていた奈良市米谷町・白山比咩神社行事の神主渡し。

神主というのは職業神職でなく、村の神主である。

2月5日から1年間を務めた米谷町の村神主は翌年の2月4日までの年中行事を務める。

一年を無事に務め上げた村神主は次の村神主に引き継がれる。

その儀式を「神主渡し」と呼んでいる。

平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に記載されている「カンヌシワタシ」は、今も変わらない2月8日であった。

「カンヌシ(※村神主)の交替の日。古くは“烏帽子渡し”ともいった、という。サタニン(※佐多人・助侈人とも)がカンヌシの装束(※烏帽子・衣装など)、書類などを新しいカンヌシの家に持っていく。そして、翌日の百座(ひゃくざ)の準備をする。昔は山に入って百座で使う柴を作った。新旧カンヌシはサタニンに対して、それぞれ昼、夕食の接待をする」とある。

「カンヌシワタシ」の翌日の9日にしていた百座という行事は、現在行われていない。

『五ケ谷村史』に記載されている「百座」の行事に「カンヌシ交替の披露の日。昔はカンヌシの家に十一人衆が招かれて、昼にヨバレ。夜には神社でオッサンの名で呼ばれる上ノ坊住職によって仁王経が読経されたのち、親類なども集まって賑やかに飲食した」とある。

続いて「今は昼間に神社に集まり夕方に終わるようにしている。住職と新カンヌシが拝殿に座り、あとは籠り所に座ることになっている。旧カンヌシが準備を行い、サタニンがこれを助ける。十一人衆のほか、氏子総代のうち一人が陪席する」。

次に「肥後和男氏の宮座資料には、この日のカンヌシは十一人衆、サタニンとともに神社に参り、神前で“トリの盃”といって、一尺二、三寸ほどの盃を前カンヌシ、一老、二老の順に飲み廻し、最後に前カンヌシに返り、さらに新カンヌシが飲むという作法があったと記している」も書かれていた。

また、「百座の名称は地元では坊サン百人が読経したため、或いは、昔は夜通しで籠りをしたので、火を焚くのに柴が百駄もいったからなどといわれているが、仁王経に見える“仁王般若経護国品”の古事に基づく百座仁王講に由来する名称かと思われる」と結んでいた。

なお、宝暦六年(1756)書写本である『宮本定式之事 米谷村 社入中』に正月九日の行事とあり、「社僧・平僧によって仁王経が読経されたことが記されている。また、当日の食事の献立も、詳しく記されているので参考になる」と、村史執筆者の奈良市教育委員会の岩坂七雄氏が調査・報告されている。

上之坊の僧の荻英記が安政六年に書き留めた『定式』の翻刻は貴重な史料。

「百座」行事については下記に記しておく。

一.正月九日百座 御祈禱之定
  先社僧 平僧伴に 仁王経百座読誦(どくじゅ)致 法則 座頭ハ社僧より相勤候
  御祈禱の布施僧壱人に宮本京舛に三升ツヽ遣スなり
  同九日衆僧宮本拾壱人会献立ノ事

一.朝飯に 汁ハ せちりん(※七輪)にたうふ(※豆腐)を入べし

一.坪(※ひら)ハ 八切之たうふ(※豆腐)二切もり(※盛り)ミそ(※味噌)而(※しかも)に(※煮)る

一.壺ハ こんにやく だいこん ごうぼ(※牛蒡)

一.生酢ハ だいこん にんじん こんにやく しやうが みかん

一.引(※ひい)たり ごうぼ(※牛蒡) たうふ(※豆腐)
  次ニ 酒弐こん 三重の肴あり 衆僧銘々に茶壱包ツヽ 神主所江持参いたすべし
  次ニ 明神江参り 社僧社人そろへ候 而(※しかも)御経の休の節茶わんニ壱献三重の肴あり

一.中飯之事

一.汁ハ だいこん いも ごうぼう(※牛蒡)也

一.菜ハ なのあゑ(※え)もの斗(※ばかり)
  次ニ 酒弐献 三重の肴あり
  次ニ 御祈禱結願終バせん米頂 次 御酒二献ハかさ 
      三献めニ茶わん 三重の肴あるべし 以上

翻刻文書を拝読してわかった三献の儀に配膳される肴の数々。

今の時代から見れば、なんと質素な、と思えるが、当時の献立料理としては上々であったように思える。

現在においてもよく似ている米谷町のマツリに提供される料理は家庭の味付け。

煮物が主な料理に和え物も・・。

これまで幾つかの料理をいただいたことがあるが、どれもこれもとても美味しいものだった。

翻刻文書味付けはまったくわからないが、坪に盛った豆腐だけは(田楽)味噌で煮たもの思われる。

そこで思い出したのが2月に行われる「田楽飯」の名で呼ばれる座の行事である。

2月22日は「田楽飯」、5月から6月にかけては「筍飯」、10月の「松茸飯」、12月22日は「くるみ餅」。

宮座十一人衆が参集されてご馳走をよばれる座の四大行事の一つが「田楽飯」である。

この年は2月29日の日曜日に行われたと聞く。

行事日はだいたいが22日になっているが、村神主はもとより十一人衆の都合の良い日を選んで決めておられる。

その日は参籠所外にあるU字坑を利用して炭火焼き。



U字坑は横風を防ぐ鉄壁を細工している。

U字坑の底に置いて火起こしする炭の真上に網を乗せる。

その網に豆腐を置いて焼く。

本来であれば串を2本挿して豆腐を焼くのであるが、柔らか目の豆腐は落ちそうにもなる。

落ちては困るから網を置いて焼く。

そう聞いていた焼き豆腐は田楽味噌を塗りつける。

田楽豆腐が出来あがれば、座に運ばれる。

こういった作業のすべてをするのがサタニン(佐多人・助侈人とも)の役目である。

今ではコンロ代わりのU字坑であるが、昔は参籠所室内にあったされる囲炉裏であった。

今でも参籠所に囲炉裏を作って、その場で焼いて座に出しているところがある。

山添村の桐山では囲炉裏で御供下げした開きのサバとモチを焼いていた。

また、山添村北野の津越では正月初めに行われる初祈祷行事に、年番の年預(ねんにょ)が薬師堂内の囲炉裏で作る田楽豆腐である。

私は拝見していないが、米谷町もかつては同じようにしていたものと思われる事例である。

豆腐に串をさして囲炉裏の火で焼く。

水きりをたっぷりしておかないと豆腐が弛んで焼くのが難しいと話していたことを思い出す。

「デンガクメシ」の名がある行事は奈良市の米谷町以外に大和郡山市の外川町の宮座にもあると聞いたことがある。

座中の一人であった当時四老であったYさんが話してくださった「デンガクメシ」行事の時期は5月と聞いていた。

10月には座入りでもある「マツタケメシ」の行事もある外川町の宮座については、奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』にごくごく一部であるが、記されていた。

調査報告書によれば、当時の外川町は8軒・八人衆の宮座であった。

時期は不明であるが、外川町全戸の20戸になったとある。

かつては八人衆が一般座衆の上位にあったと書いてあるから、八人衆以外の座衆は12人にもおよぶことになる。

また、座中は15歳で入座していたようだ。

話題は米谷町に戻そう。



座中めいめいがやって来て参拝される。

この日も本社殿に参って般若心経を唱える上ノ坊寿福寺住職。

四日前に行われた薬師さんのオコナイの際にもお世話になった方である。

2月11日は自坊の大師堂で大師和讃を唱えているという。

甘酒も接待するというから、『五ケ谷村史』に記載されている“米谷の大師レンゾ”であるような気がする。



座中も参拝されるなか、住職一人が座って年頭の心経を唱えていた。



このとき、参拝されていた83歳、五老を務めるYさんは我が家の墓石に文政年間の記銘があるから是非とも取材して欲しいと願われた。

いつか機会を設けてお伺いしたいものだ。

この日に神職は出仕することがない。

前述したようにかつては翌日9日にしていた「百座」の御祈禱之定があった。



しなくなった理由は聞いていないが、あったと話してくれたのは住職である。

「社僧」に「平僧」が伴って唱えていた「仁王経百座」の読誦(どくじゅ)である。

「座頭ハ社僧より相勤候」とあることから、座頭は社僧でもある。

と、いうことは、住職は社僧でもあり、座頭でもあるわけだ。

本日の斎主は社僧であるが、神主渡しの行事であるからには主役は新旧お二人の村神主さんである。

上座に座った中央は四日前の2月4日が最後のお勤め。

一年間の米谷町の年中行事を務めてきた九老のNさんは、この日に十老のTさんに村神主を引き継ぐ。

実際の任期期間は2月5日から翌年の2月4日まで。

行事が始まる9時までに烏帽子や装束に幣棒、神主帳簿、参籠所築写真などをサタニン(佐多人)が新村神主家に運んでいたという。

神主用具などの引き渡しは、先に済ませていたのだった。

「今日でやっというか、ようやく無事に務めることができた。一年間は長かった。特に毎度の掃除に手間がいった。神社境内から参道の掃除は半日で終えることもあったが、落葉の量によっては一日がかりもあった」という。

この日の供え物は旧村神主が調えたようだ。

海の物、山の物に里の物以外の決まった神饌は白米に小豆である。

参籠所建物に立てかけた長い木の棒がある。



2月1日に行われた小正月行事のときに置いたものだ。

『五ケ谷村史』に記載されている2月1日の「小正月行事」である。

宮司は神前で祈祷し、住職は拝殿で神名帳を読みあげ、般若心経を唱える。

十一人衆、氏子総代、佐多人が参加する神事である。

ミヤモリ(村神主)は漆の木を7本供えると聞いている。

祭典が終わってからに薬師堂で行われた“ゼニ カネ コメ”の作法もする。

このときのごーさん札の文字は中央に「米谷宮」を配置している。

「寿福寺」を書かれたごーさん札の2枚で一対。

両方が揃って漆の木に挟んだ。

挟むところはT字型に割いた部分に、である。

種蒔(苗代)と田植えの両方に立てるというから、それぞれがどちらかになるようだ。

この日に立ててあった長い木の棒は漆(うるし)の木である。

数えてみれば7本である。

この漆の木は持ち帰って苗代に立てていたが、JAから苗を購入するようになってからは、苗代作りをすることがなくなったので立てることもない。

そのようなことで残っているのであるが・・・2カ月後に調べた結果では、苗代作りをしている家はごくごく僅かの数軒であった。

うち1軒は、このことを知らずにわざわざ漆の木を探していたのであった。

神主渡しの座料理は仕出し屋さんに発注したパック詰め料理。

座中が座る席に配膳された。

パック膳の他にも手料理がある。

甘く煮た2種類の豆にキズシやタコの造り、コウコと野沢菜の香物も配膳するが、一人一皿でなく、何人かが一枚を取り皿する料理である。

こうした行事の料理膳などをメモしていた男性は十一老のUさん。

翌年の村神主を勤めることになっているから、この一年の村神主を勤める十老のTさんの動きも見ていくようだ。

一同、揃ったところで一年間も村神主を勤めたNさん述べられるお礼の挨拶。

村神主を勤めるまでのころ、大病をした身体であったが、こうして無事に勤めることができたのも皆さん方のおかげであると述べていた。

それではお神酒と言いかけたときに、一老さんから待て、である。

新しく勤めることになったTさんの新任挨拶もある。

Tさんも大病を抱えている。

2年間に亘る大病に神主勤めを受け入れられるのか不安だった。

今も絶えず、一か月に10日以上も通院治療をしている身。

いつ何時、という身体的事情もあるが、皆さん方に励まされて務めさせていただくことになりました、と述べてから乾杯した。



新旧が交替する場にお神酒を注がれるサタニン(佐多人・助侈人とも)さんがせわしくなく動かれる。

この場は村神主が十一人衆を接待する場であるが、慰労する場でもあるようだ。

この日は所用があって途中で場から引き上げせざるを得なかった。



前述したように、神主道具の引き渡しはすでにおわっているが、儀式はそれからになる。



儀式は注いだ酒を飲み交わす三献の儀であろう。

その盃は大盃である。

行事が始まる前に拝見していた大盃は朱塗りの武蔵野大盃(村史では一尺二寸盃)である。



大正三年(1914)十二月に奉納された武蔵野大盃を納めていた箱の蓋裏面に墨書があった。

「能登國輪島町 製造本店熊野寿十郎 □□国上野赤坂町 ・・・上田榮吉」とあった。

漆塗りと云えば石川県輪島市で生産されている輪島塗漆器をすぐさま連想するぐらいである。

儀式は拝見できなかったが、旧村神主や住職の話しによれば、宴が終わる直前に、この武蔵野大盃を上座に座る住職に酒を注いで飲んでもらう。

その次が村神主。

そして、一老から二老、三老・・・の順に大盃を廻して注いだ酒を飲んでいく廻し飲みをしているらしい。

酒を満々と注いだ大盃を座中が一杯ずつ廻し飲み儀式は大和郡山市の横田町で行われている春祭の際に町内の長老四人を祝う一気に飲み干す廻し飲みの儀式がある。

その廻し飲みは乾杯代わりともと話していたことを思い出す。

横田町の儀式は拝見したが、米谷町は拝見していないだけになんとも言えないが、話しの様相から似ているように思えた。

(H29. 2. 8 EOS40D撮影)

写真展に向かう道すがらに拝見する角振新屋町の隼神社

2017年12月09日 08時41分50秒 | 奈良市へ
プリントはとても綺麗。

そこそこ上手い秀作が並ぶ素晴らしい作品群。

手慣れた造りの作品作り。

これまでいろんな写真展会場で、或いはSNSなどで、何度も見たことがある定番映像に感動するものはない。

度肝を抜くような、これはどうやって撮ったの?か、この映像はどこで撮ったのとか、というようなドキドキ・ワクワク感を味わえる作品を見てみたい。

なにより違和感をもったのは、あるイベントの公式写真についてであった。

停めた駐車場に戻る帰り道も隼(はやぶさ)神社の前を通る。

鎮座地は奈良市角振新屋町(つのふりしんやちょう)。

神社右に建つ地蔵堂に延命地蔵を安置する。

ネットによれば毎月の24日は地蔵さんの縁日。

近くかどうか知らないが、阿弥陀寺住職の法要をしているらしい。

地蔵像は立像ではなく、珍しい片脚を踏みさげて座る半跏像。

ところで隼神社で思い起こすのが薩摩隼人。

現在の薩摩隼人ではなく、古事記に登場する海幸彦を祖人とする九州の大隅・薩摩地域に居住していた隼人族である。

大和朝廷に制圧されて、後に朝廷に服属した隼人族。

宮廷守護や歌舞教習の任に就いて、大嘗祭などの節会に隼人舞を演じたとある。

未だに拝見していない隼人舞。

ぐるぐると渦を巻くような盾の紋様に特徴があったように思うのだが・・。

ところで、大和の宮廷を守護し、隼人舞をしていたと伝わるが、奈良県内では舞うことはない。

2010年、警固の職に就いた隼人族が居住したとされる京都府京田辺市大住・大住隼人舞保存会(昭和46年結成)が舞った場は平城京跡。

1250年ぶりに、古都奈良の都で披露された。

ちなみに大住は“おおすみ“。

かつての居住地であった九州の大隅(おおすみ)と同音。

地名は旧地を充てる漢字を替えていたことがわかる。

それはともかく、今まで何度も通っているのに、これは何っ、と思って撮っておいた。

ネットによれば境内に植わっている木は柿の木であるらしい。

その木に注連縄を架けていた。

長さは割り合いあると思われる注連縄を樹木の幹回りにぐるぐる巻いているのであれば、晦日若しくは正月に地域の人たちが架けているのだろう。

注連縄にエフ札のようなものがあるのが、気になるが・・。

と、思ったが違っていた。

きちんとした紙垂れのシデであった。

その奥に建つのは弁財天社である。

毎朔日が月次旬祭であるようだ。

なお、大祭は年に4回。2月1日の祈年祭。

例祭は7月7日に8月1日もある。

〆が11月21日の新嘗祭であることから、新年を迎えた1月1日の歳旦祭に注連縄を架けているように思える。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)

天理ハッスル3の自家製筒かき揚げで食べる我が家のかき揚げうどん

2017年12月08日 09時33分07秒 | カンタンオリジナル
これは美味い。

思わず声が出てしまったぐらいに旨い。

美味い要素は一体なんであるか。

それは具材よりもかき揚げを揚げる天ぷら油による。

良い天ぷら油は香りが良い。

この日に食べたうどんは一般的なうどんであっても冷凍うどんであっても味はほぼ同じ。

うどん麺は異なるので食感は違うが、出汁の香りは同じだ。

一口食べてわかる麺の出汁に天ぷら油がからんで舌にからみつく。



香りも良いが出汁に甘さがあるのだ。

先日食べたラ・ムー葛城忍海店で買ったかき揚げでうどんを食べた。

まったく違う味わいは出汁の香りと甘さである。

具材はもちろん違う。

ラ・ムーはゴボウの食感が鼻につくが、ハッスル3にはそれがない。

ゴボウはなくサツマイモとタマネギ、ニンジンに少量のインゲンマメ。

ゴボウのアクがないのも嬉しい。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)
(H29. 2. 8 SB932SH撮影)

本日、調子良し

2017年12月07日 09時10分47秒 | むびょうそくさい
前週と違って本日は身体が軽やかである。

受付を済ませて測った血圧と脈拍。

125-70の血圧に脈拍は56拍である。

その調子で行こうと思ってリハビリ室へ。

心電図機器の装着時の脈拍は53-54拍。

微妙な差はあるが、気にするものではない。

準備運動の脈拍は52-53拍。

スクワット運動は61-63拍。

ややキツ目のスクワットになれば69-71拍。

実に順調である。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は118-54。

脈拍は57-58拍だ。

踏み始めて1分後のワークは55。

回転しだしてから2分後の脈拍は66-67拍。

ぐんぐん上昇して3分後は70-71拍。

早い段階で70拍台の脈拍が嬉しい。

6分後の血圧は141-59。

脈拍は64-65拍。

11分後の血圧は148-60。

脈拍は67-68拍。

窓を開けて外気の空気が部屋に流れる。

爽やかな空気が額や顔にあたる。

気持ちいい風に汗はでない。

不整脈はまったくみない。

ほぼ完全な状態が嬉しい。

16分後の血圧は147-55。

脈拍は67-68拍。

21分後の血圧は143-60。

脈拍は67-68拍。

ラスト、26分後の血圧は136-58。

脈拍は67-68拍で終えた。

自転車を下りて身体を落ち着けたときの脈拍は58-59拍だった。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)

天理ハッスル3の季節の弁当の竹の子ご飯

2017年12月06日 09時09分35秒 | あれこれテイクアウト
勾田町の初午祭ポスターを拝見しているうちに昼ご飯の時間帯になった。

勾田町から西方。

すぐ近くにあるスーパーはザ・ビッグ・エクストラ天理店もあるが、ハッスル3にした。

久しぶりに同店で販売されている弁当を買ってみよう。

かつて何度も食べたことがある弁当はどれもこれも美味しかった。

お値段も安くて美味しい弁当をもう一度、である。

お魚屋さんのお寿司コーナーもある。

美味いのは間違いない。

ハッスル特製の寿司コーナーもある。

ついつい手が伸びそうになる巻き寿司類。

その場から一歩、二歩、三歩・・。

「今日はこれ!!売り切れごめん!!」のでっかいPOPに目が吸い込まれる。

1パック398円の「季節のご飯弁当」がタイムサービスに税抜き298円で売っていた。

本日の「季節のご飯弁当」は“竹の子ご飯”。

Na1966mmの文字は見えなかった。

塩分量に計算すればおよそ5g。

まーいっか、である。

透明パック蓋からわかるふんだんな具材が美味しそう、である。

味付けしたご飯に色がある。

錦糸たまごにニンジンのいりもある。

細いキクラゲなど山菜もある。

甘そうな煮豆、塩焼き鮭、かき揚げ天、ちくわ天、ひじき煮、玉子焼き、鶏の照り焼きにトウガンのように見えた餡かけダイコン煮もある。

これを買わなくてどうする、である。

弁当売り場の向かい側は揚げたての天ぷらコーナーもある。



そこにあった筒かき揚げ。

美味しそうな揚げ具合のかき揚げは自家製と書いてある。

自家製はこれに限っているわけではなく、棚すべてが自家製ではないの、と疑問をもつが・・・。

店内にある電子レンジで1分間。

車に持ち込んでいただきまーっす、だ。



これは美味い。

美味すぎるぐらいに旨い。

特に旨いのはトウガンのように見えた餡かけタレに塗れているダイコン煮である。

とろっとした食感につるっと口に吸い込まれる。

面白いことに煮干しエビがついている。

あしらいが気に入った一品である。

ま、なにはなくとも竹の子ご飯は味がある。

美味いに尽きるご飯は“ご飯”だけでも充分である。

ちなみにとても惜しいと思ったのは鶏の照り焼き。

脂身がないのが難点ではあるが、それよりもタレの味が薄め。

焦げ目をつけるぐらいの焼きもほしいし、濃いめのタレであれば・・と思った次第だ。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)

勾田町の初午祭ポスター

2017年12月05日 08時37分55秒 | 案内看板
奈良市興隆寺町の年中行事を教えてもらってからは天理市の竹之内町に車を走らせる。

行事日が決まれば出荷場に村行事の実施日を伝える資料が貼りだされる。

念のためのと思って立ち寄ったがなかった。

神官の都合がまだ決まっていないようだ。

そこより下って国道に入る。

ここら辺りは勾田町。

交通信号もそう書いてある。

そこより数百メートルも走らない処に何かが掲示してあった。

文字は「初午」だ。

初午とあればハタアメ。

念のためと思って急停車。

掲示してあったポスターは勾田町に鎮座する春日神社の境内社で初午祭をするという案内だ。

春日神社はかつて取材した処である。

場所はそこより戻らなければならない地。

それはともかく初午祭は2月末の日曜日になっている。

この年の初午は12日。

二番目の午の日であれば24日。

ぜんざいをふるまうとあることから日曜日にしているのだろう。

こういった行事の情報はメモに残しておく。

今年は無理だとしても、いつかは訪れたい行事はメモっておけば忘れることはない。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)

興隆寺町の八坂神社の民俗探訪

2017年12月04日 09時20分25秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に書いてあったオコナイ行事は旧五ケ谷村の各村にあったそうだ。

先に拝見した米谷町は2月4日に行われる薬師さんのオコナイに2月1日の神社行事の小正月であった。

南椿尾町も「オコナイ(ショウゴンとも」」はあったが、戦前までのことである。

毎年の3月1日に地福寺と八坂神社の両方でしていたが、現在は八坂神社の祈年祭行事のようだ。

白米を包んだ半紙を松に巻いた松苗の祈祷が主と書いてあった。

もう一カ所が「オコナイ・弓のマトウチ」をしていたという興隆寺町である。

昭和50年のころまでは行われていたという行事はどのような形式であったのか。

40数年前のことであるから体験、記憶をお持ちの方もおられるかもしれないと思って出かけた。

2月7日に上之坊或いは中之坊から住職が来られて、トウヤの家で行っていたと村史に書いてあった。

午前中はトウアの家で勧請縄を作って、午後がオコナイ。

住職はご祈祷されて、その途中に「ナンジョウ」と声を挙げたら柳の木で床を叩いた。

実際は床直接ではなく板を敷いて叩いていたようだ。

昔は法螺貝も吹いて太鼓も打ち鳴らした。

最後に牛玉宝印を両手に押してもらって、それを懐に入れる真似をしたとある。

宝印を押した半紙は柳の木に挟んで1本ずつ貰って帰った。

それは苗代の籾蒔きのときに東大寺二月堂下で貰ってきた松苗と一緒に水口に立てたとあるが、二月堂修二会の松苗ではなく、おそらく春日大社で行われた御田植祭に祈念された松苗と思われるのである。

それはともかく、オコナイが終われば勧請縄を掛けに行く。

縄は村の下手の入口にあたる所の谷あいに張った。

林宏氏の調査資料によれば、昔は正月の7日が「ユミノマトウチ」と云って当日の導師である“米谷の真言のオッサン“が、四角の竹の枠に紙を貼った的に向かって「ウチゾメ(打初)」を、続く神主も打ったとある。

それが「弓のマトウチ」である。

村史が記録した行事の在り方に期待はもてないが、村の行事取材の入口に辿りつきたいと思って出かけてみることにした。

興隆寺町に鎮座する八坂神社の地は存じているが、未だ立ち止って拝見したことがない。

神社の入口は広い場がある。

一年に何度も通る旧五ケ谷村の街道。

名阪国道ができるまでは、奈良市街地から天理市福住に向かうメイン街道であった。

すっかり寂れたには違いないが、往来する車の量はままある。

スピードを出し過ぎてしまいそうな街道。

急なカーブ道もあるからカーブミラーは見逃せない。

特にここ興隆寺町の八坂神社の前はほぼ直角。

向こう側が見えないから要注意である。

神社駐車場と思われる場に車を停めて階段を登れば、正月飾りの残り物を思われる葉牡丹があった。

境内は綺麗に掃除されている。

実は3日前の2月4日もここに来ていた。

そのときはもっと綺麗な状態だった。

三日間に吹いた風によって木の葉が舞い落ちていた。



さらに登れば本社殿に着く。

朱の鳥居にかかる手造り注連縄は割り合い太目である。

頭を下げて参拝する。



これといった特徴はないが、社殿にお伊勢さんでたばってきた、と思える天照皇大宮のお札を括り付けていた。

もしかとすればお伊勢さんの代参があるのでは・・。

ここで待っていてもどなたも来られない。

下ってバス停留所辺りに建つ民家を訪ねてみる。呼び鈴を押したらご婦人がおられたので神社行事の「オコナイ・弓のマトウチ」を聞いてみた。

その結果は「ない」である。

30云年前に嫁入りしたが、その行事のことは聞いたことがないという。

嫁入り前のことだから昭和の時代に中断されたような感じであった。

毎月の1日に月参りの佐平(さへい)の名で呼ばれる行事がある。

一升の粳米に5合の餅米を練って餅を搗く。

粳米が多いから団子のような感じも受ける。

月当番にあたる家は朝の7時過ぎには神社へ参って、海や里の幸などを供える。

魚はお頭付きで野菜はサツマイモなど五品の生御膳に餅を供える。

30分も経てば村の人が寄り合って参拝する。

供えた佐平の餅御供を下げて村の戸数に均等割りするというから、固まっている餅を包丁などで切り分けるようだ。

現在の村の戸数は17戸。

奇数であるから分け方はどうされているのだろうか。

切り分けた御供は境内で焚くトンドで焼いて食べる。

人によっては持ち帰る方もいる。

いずれにしても毎月の1日に17戸の村人が毎月交替して当番する佐平に興味をもった。

単純計算すれば1年半に一度は廻ってくる当番。

ちょっと前にしたけど、もうきたんや、という具合である。

練った御供は手でこねる。

30分間連続作業でこねるから相当な労力を要する。

昔は朝5時から支度をして作っていた。

でないと行事に来られる参拝に間に合わないから急いで作っていた。

今では前夜に支度をしておくことにしている、という。

ちなみに毎月の1日は佐平であるが、神職(奈良市丹生町在住新谷忠神職)が出仕される年中行事は四つ。

いわゆる四大行事である。

1月は歳旦祭。

3月1日は午後1時からの祈年祭

10月がマツリに12月が新嘗祭である。

「佐平」の名がある行事は興隆寺町だけでなく、次の地域にも見られる。

旧都祁村になる奈良市藺生町の葛神社は佐平(さへい)祭。山添村毛原の八阪神社も「さへ」であるが、充てる漢字は「再拝」である。

いずれも月の初めの日に参る月並祭のことである。

来月の3月1日は朝から薪割り作業がある関係で佐平行事は午後になる。

当番の人足は木を伐って割り木にする。

その量はトンドに年中行事に使うから多い。

伐る、割る、運ぶだけでもたいへんな作業である。

割り木造りは神社の薪、芝作り。

これを「シバシ」と呼ぶ。

後年であるが、興隆寺町と同じ「シバシ」の呼び名があった地域は奈良県ではなく京都府の南部地域である。

加茂町銭司の春日神社の薪も同じように割り木する作業を、そう呼んでいたことを付記しておく。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)

豊浦町のとんど

2017年12月03日 08時57分19秒 | 大和郡山市へ
奈良市の米谷町の取材を終えて帰路につく。

どの道を利用して帰るかは、そのときの判断もあるが、気分もある。

この日は吸い込まれるように車が動く。

東山間の玄関口とも言える五ケ谷を下って真っすぐ西へ走らせる。

大和郡山市内に入って井戸野町、稗田町、美濃庄町、杉町から豊浦町。

我が家はもうすぐだ。

ふと左に目が動いた。

そこにあった大きなとんど組み。

2月の第一日曜に行われている豊浦町のとんどである。

夕陽が射し込む時間帯。

建てたとんどの竹が赤く染まりつつある。

田園の向こうは小南町の外れから筒井町の新興住宅地。

新興とはいってもずいぶんと前のことだ。

家屋が目立たないような位置でレンズを構える。

大和郡山市内の二ノ正月とんどは1月31日の午後から2月6日ころまで。

豊浦町の隣町になる小南町もあればさらに西。

矢田町の懐になる南矢田垣内、清水垣内寺坂深谷垣内、東村、矢田横山、垣内垣内西

豊浦町より東になる天井町、丹後庄町番条町井戸野町、稗田町、大江町もあれば南の筒井町長安寺町柏木町、額田部町も。

とにかく多くの地域で見られる二ノ正月とんどである。

豊浦町は明日の5日の朝7時に点火される。

天気予報では雨が心配されるが・・・土砂降りにならないようにと祈るばかり。

翌朝5日の朝は6時半ころから降り出した。

それから日中がずっと涙雨だった。

ところが住民から伝えられた便りによれば雨天決行したという。

無事に終えられてほっとしたことを付記しておく。

(H29. 2. 4 EOS40D撮影)

米谷町薬師さんのオコナイ

2017年12月02日 09時10分59秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
「ムネの薬師」と呼ばれる薬師堂がある。

旧五ケ谷村の一つである奈良市米谷町、上ノ坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。

名阪国道の福住より下った高峰SAよりさらに下れば左側に見える建物がある。

それが現在地の薬師堂である。

名阪国道が計画されて工事が始まった。

元々あった地に名阪国道ができる。

そこは山の上の「峯」にあったことから「ミネの薬師」。

いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれるようになった。

移転余儀なくされた薬師堂は工事地区から外されて現在地に移されたのは昭和39年。

その際に古い堂は壊して、新しく鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。

その地を教えてくださったのは上ノ坊寿福寺のご住職であった。

2月4日に行われるオコナイ行事を取材いたしたくこの地を訪れていた。

場を知ってから2年も経った。

ようやく拝見できる米谷町の薬師堂に手水鉢がある。

古いように思えたのでじっくり拝見したら刻印が見られた。

刻印文字は「天明元年(1781)九月 奉寄進 壽福寺 施主 中畑村」であった。

米谷村と隣村の中畑村と関係する手水鉢である。

住職の話しによれば中畑村には寺院がなかった。

それが理由かどうかわからないが、米谷村には上ノ坊だけでなく中ノ坊もあった。

その中ノ坊の僧が関係しているのかもしれない、ということだ。

かつての寿福寺は米谷領の北端の不動の滝辺りにあった。

ところが安政の大地震<安政元年(1854)十一月四日から五日にかけて発生した東海並びに南海地震>によって発生した大山崩れによって現在地に移された。

最盛期には28坊もあったが、次第に衰退し、明治時代はかろうじて上之坊、中之坊、下之坊、新坊、蔵之坊が残った。

寿福寺の旧本尊は、木造薬師如来坐像であるが、別に薬師堂を設けたことによって安置したと伝わる。

そういうことから寿福寺からみれば薬師堂は奥の院である。



本尊台座に高さ14.5cmの十羅刹女立像が並ぶ。

その姿が美しくシャッターを押した。

米谷町のオコナイ行事は平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に行事詳細が掲載されている。

一部省略、補正文を書いておく。

「塗香が一同に廻され手足を拭う。導師によって神名帳が読まれ、薬師悔過の読経がなされる。読経の途中に導師の“ダンジョウ(ランジョウとも)”の掛け声で参加者が一斉に柳の棒で叩く。これを2回行う。ダンジョウは“薬師さんは聞こえないから”するといい、以前はもっと大きな柳の木を使い、太鼓や竹筒を法螺貝の代わりに吹くこともやったという。読経が終わると参加者は“ゼニ カネ コメ”といいながら、牛玉宝印を手のひらに3回押してもらう。ミヤモリは、供え物として、柿、蜜柑、野菜、果物を用意する。また、酒肴として八寸の重箱に煮物を詰めてもってくる」とあった。

こうしたオコナイ行事は旧五ケ谷村の各村にあった。

興隆寺町は「オコナイ・弓のマトウチ」、南椿尾町も「オコナイ」をしていたが、現在、唯一所作を継承されてきたのが米谷町の「オコナイ」である。

「五ケ谷村史」に北椿尾町も「オコナイ」があると書かれていたが、作法もなく、3人のトーヤが籾種と般若心経祈祷札を用意して神職が祈祷する春の祈年祭に転じている。

『五ケ谷村史』に続きのオコナイ記事がある。

「二月四日。すでに述べたように、現在は小字ショコンデ付近にあるムネの薬師で行われる修二会の行事。当日は十一人衆、氏子総代、檀徒総代、町役員などが参加し、上ノ坊住職が導師となって行う。『定式』には“正月薬師堂御祈禱ノ定”として御供の“花餅”のことなどが記されている」と書いてあった。

『定式』とは、安政六年(1859)十一月、それ以前の宝暦六年(1756)書写本である『宮本定式之事 米谷村 社入中』のことである。

上ノ坊の僧の荻英記が安政六年に書き留めた『定式』の翻刻はたいへん貴重な史料となるだけに、“花餅”など薬師さんのオコナイ「修正会」のありかたを以下に記しておく。

一.正月元日之覚
  先明神の御供米ニ 座衆壱人ニ餅米壱合ヅヽま(※ま)つめる也 

一.三社鎮守之御膳ハ 餅五まいヅヽ柿壱串ヅヽひし壱ツ こう類也
  右ハ神主より調備る也 牛王ハ鳥居一まい 三社三まい備る

一.御酒ハ本ともに拾六囚也 本ニあたつたる人 
  あわのひし大一ツ餅五枚柿壱串出すべし 本の人ハみき
  代ハかヽらず 豆五合 くろめ百目大根二本是三色ハ
  拾六人して出すべし

一.花餅(けひやう=けひょう)ハ座衆壱人ならば二枚 弐人あるいゑ(※え)にハ三枚備べし

一.社僧座頭御祈禱の御布施花餅弐拾壱まい渡す
  しやくぢやう(※錫杖)の御布施社僧壱人ニ花餅三枚ツヽ渡す
  月役分に牛王 根一まいヅヽ遣わす 以上

一.正月薬師堂御祈禱之定
  先花餅(けひやう=けひょう))ハ座衆壱人に三枚ツヽ備べなり 同日鎮守様江
  右花餅の内弐壱枚備べし又鎮守江牛王 根壱まいツヽ備べし
  鎮守の分は神主江納也 正月三ケ日六日十四日鎮守 燈明ハ神主より備べし

一.社僧座頭御祈禱の役也 先牛王 根 壱まいツヽ薬師江備べし
  是ハ社僧座頭江納 しやくぢやう(※錫杖)布施三枚ツヽ社僧江渡
  月役ぶんに牛王 根壱まいツヽ渡 拾壱人の社人懐餅(ふところもち)三枚ツヽ渡
  月役にも三枚ツヽ渡 拾壱人の社人大根二本ツヽ持参すべし
  右之花餅の残りハ御祈禱の布施也

一.鎮守諸神の御酒代ハ座衆壱人ニ米壱合ツヽ出すべしなり

一.社僧座頭より茶の子に座衆壱人ニたうふ(※豆腐)一切 かき弐ツツヽ引ク次ニ茶を出す 以上

また、『五ケ谷村史』に、この薬師さんのオコナイに神仏混淆と思われる神社行事の記事もあった。

神事の場は村の鎮守社の白山比咩神社。

「2月1日の小正月行事。オッサンと呼ばれる上ノ坊住職も参る。宮司は神前で祈祷し、オッサンは拝殿で神名帳と般若心経を読む。十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)が参加する。ミヤモリが漆の木を7本供える。祭典が終わると参列者は“ゼニ カネ コメ”といいながら、手のひらに牛玉宝印を押してもらう。お参りの人には“米谷宮”と書かれたゴオサン(牛王札)を配る」とある。

『定式』に登場している社僧は現在の上ノ坊寿福寺住職。

神主が村神主で、座頭はおそらく社僧とも、と考えられる。

一同が集まるころから年当番の佐多人が動く。

お花を飾って、お供えも調える。



そして、ローソクに火を点けていた。

定刻時間になるころに集まってきた宮座十一人衆。

氏子総代や助侈人ら、大勢の村人で薬師堂が満席になった。



この日に参集された19人は薬師さんに手を合わせてから席に着く。

その席の前に設えた幅広い板がある。

板に置いた棒もある。

その数、ざっと30本くらいもあるが、揃えたのは21本だったようだ。

この棒は祈祷中に住職が発声される「ランジョー」の掛け声を合図に目の前にある板をバンバン叩く棒である。

板を叩く道具はフジの木。

漆の木がなくてフジの木に切り替えたという人もおれば、漆の木に負けて被れる人もおったのでフジの木に替えたという証言もある。

しかも、だ。

かつては柳の木でしていたという証言もある。

上ノ坊寿福寺のT住職の話しによれば、柳の木はしなって痛いからフジの木の替えたというのである。

前述したように平成6年に発刊された『五ケ谷村史』では「一斉に柳の棒で叩く」である。

史料ならびに証言から考えるに、材は「柳」→「漆」→「藤」に移った可能性も考えられるが・・信憑性は不明としておこう。

祭壇には予め印刷されたごーさん札を束にして積んでいた。



字体は実に綺麗な機械印字のようだ。

中央の文字は「壽福寺」。

上ノ坊寿福寺である。

左側は「寶」に「印」であろう。

右は「牛」に寶印型紋様にあしらった「王」。

つまりは上ノ坊寿福寺でご祈祷されるゴオウサンの(牛王)札である。



牛王の宝印も朱肉入れは虫喰いが激しい穴ぼこだらけ。

その状態で古さがわかる。

かつてごーさんの書は版木で刷っていたが、今ではパソコン印刷になった。

昔から使っていた版木は朱肉入れと同様に虫食いが激しかった。

版木を刷っても文字がわかり難いからと云って、住職のお兄さんが版木を作った。

いつしかそれも使わなくなって、文字は綺麗な機械印字になったと住職が話す。

牛王は前述した『定式』に数回表記されている「牛王」のことである。

このお札は『五ケ谷村史』に写真が掲載されている。



一部を切り取って紹介しておこう。

本来であれば内陣の板の間を叩くの「縁叩き」であろうが、現在は「板叩き」の作法。

長老らがいうには子供のころから板叩きだったという。

長年の歴史を刻んできたかのように思える風合いの叩き板である。

また、ある人が云うには、その昔は廊下を叩いていたそうだ。

廊下とはお堂の回廊であろう。

その音は村中に聞こえてくるほど大きかったという。

米谷の薬師さんは白い眼をしておられる。

音で聞き分けるから「ランジョウ」があるという。

線香をくゆらした住職はご本尊の前に座った。

チーンとおりんが鳴る。



これより始まる作法は十一面悔過法要と同じ作法であると仰る。

鈴も振ってチリーン、チリーンと静かに響く音色が堂内に残響する。

数珠などの法具をもって行う作法。



続いて錫杖経に移る。

ご真言を唱えて、次に神名帳の読み上げ。



明治四拾壱年二月廿九日寫 和州 上之坊住職の記しがある『當村社修正月勧請證誠護法諸神名帳』に沿って読みあげる神々は、大梵天王、釋天王、四大天王、日月五星、二十八宿、閻魔法王、五道大神、大山府君、五頭天王、武塔天神・・・・金峯山大菩薩、那智大菩薩、熊野大菩薩、八幡大菩薩、但馬大菩薩、住吉大菩薩・・・・大明神・・・日本国中御座一万三千余所ノ大明神・・・・。



神名帳の読み上げが始まってから7分後のことである。

「ランジョゥーーーー」のお声が出たら、堂内におられる全員がフジの木を手にして板を叩きつける。



カタカタカタカタ・・・・。

連打する音が堂内に響く。

住職は読み上げると同時に神名帳の巻物を仕舞われる。

チーンとおりんを打って、1回目の「ランジョウ」が終われば般若心経に移る。

「ぶっせつまーかー・・・・はんにゃーしんぎょぅー」。

一つ呼吸をおいて「ランジョゥーーーー」のお声が出たら、フジの木を手にして板を叩きつける。

連打する音、カタカタカタカタ・・・・音が堂内に響く。

心経が唱えられてから数分後のことである。

叩き終わればピタッと音が消える。

静けさを取り戻したかのようなところにオリンがチーン。

「ランジョー」をすることによって村から悪霊を追いだしたのである。



束にしていたごーさん札は香炉にあててご祈祷をする。

そして唱えるご真言はオンコロコロ・・・・・なむだいしへんじょ-こんごー。

役目を終えた「ランジョー」叩きのフジの木は佐多人(助侈人とも)によって回収される。

こうして法会を終えたらお堂に板を敷いたままにして直会に移る。



用意ができたら大鍋で炊いたイモダイコを配るのも佐多人の役目。

しゃもじで掬ったドロイモにダイコン、ニンジンは自家製料理。

カワラケのような小皿に盛るのも難しい。

零さずに席に着いている村人に配っていく。

お神酒も注がれて直会はじめ。

みなさん、「今日はごくろうさまでした」と挨拶を受けて、一同は「いただきます」。



直会中に配られたのはつるし柿。



白い粉がふいているから、甘くて美味しい。

これも自家製である。

ヒラテンも入っているイモダイコの出汁が美味すぎる。



皆の口に合う美味な味のイモダイコ。

大鍋でたいたんは美味しいとお代わりは何度も頼まれる。

お神酒もあるから要望はあっちこちらで声があがる。

それから30分も経ったころだったろうか。

突然のごとく佐多人が動き出した。

ごーさんの朱印とベンガラ入りの朱肉を手にして席につく村人、一人ずつ座席の前に寄ってくる。

朱印を手に寄っていけば、手のひらを拡げて行為を待つ。



すると、「ゼニ」、「カネ」、「コメ」と云いながらてのひらに朱印を3回押す。

県内事例の朱印押しは額押しばかりであるが、ここ米谷町では手のひら押しであった。

『五ケ谷村史』に書いてあった太鼓叩きに竹筒吹きの貝吹きは見られなかった。

時期はいつなのかわからないが廃絶したようだ。

ちなみに四日前の2月1日は白山比咩神社で行われる「小正月」があったという。

その場においてもごーさん札が祈祷される。

前述した『五ケ谷村史』の2月1日の「小正月行事」である。

宮司は神前で祈祷し、住職は拝殿で神名帳を読みあげ、般若心経を唱える。

十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)が参加する神事である。

ミヤモリは漆の木を7本供えると聞いている。

祭典が終わってからに薬師堂で行われた“ゼニ カネ コメ”の作法もする。

このときのごーさん札の文字は中央に「米谷宮」を配置しているという。

「寿福寺」を書かれたごーさん札の2枚で一対。

両方が揃って漆の木に挟んだ。

挟むところはT字型に割いた部分に、である。

種蒔(苗代)と田植えの両方に立てるというから、それぞれがどちらかになるようだ。

薬師さんのオコナイ取材を終えて車に戻る。

上ノ坊より下ったところに建つ民家の門屋。



節分につきもののヒイラギがあったが、イワシの頭はどこへ行ったやら、である。

(H29. 2. 4 EOS40D撮影)