マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

10カ月後に発症した頻脈に非常時対応のワソラン錠

2020年03月21日 10時03分00秒 | むびょうそくさい
この日は極端に寒さを感じる。

昨日の天気予報通りになった急降下気温は身体に堪える。

身体が震えているような感じも受けるが、それは心臓のドキドキ感。

昼食を摂った直後の心拍数は75拍。

昨日までなら徐々に冷めていくような感じだったが、この日は薬を要求するまでに陥った。

薬は昨年の11月に診察を受けた循環器内科医師の診立て。

処方された内服薬はワソラン錠。

120拍にも上昇したど頻脈状態に処方してもらった。

一時は入院手続きも終えて電極カテーテルアブレーション処置をすることになっていた。

予定していたが急激に落ち着いたが、本来ならば心房粗動アブレーション処置をしているところだった。

ところが処方されたワソラン錠を服用することで治まった。

入院・処置は消えた。

その後も少し上昇する日もあったが、服用すれば一日限りで治る。

医師からはご自身の判断で必要としたときに服用してくださいと云われていたが、その後は何事も起こらなくて今日に至っている。

3カ月検診においても異常値は認められない。

そういう状態が、突然に・・・。

いや、異常の予兆は一週間ほど前から訪れていた。

私は毎日の朝、昼、晩則後の処方箋を服用する。

そのときに必ず計測する血圧に心拍数。

値の変動は自身で確認しているから傾向も絶えず認知している。

その計測値を振り返ってみる。

心拍数が高めとする基準値はないが、身体の反応から68拍以上になった兆候日・時間を拾ってみる。

9月19日の昼は69拍。

20日の晩は76拍。

21日の晩は71拍。

22日の晩も70拍。

23日の昼は72拍で晩が69拍。

24日の昼は取材に出かけていたので計測はしていないが、晩は72拍。

この日の取材地は吉野町山口―大宇陀栗野―吉野町平尾巡り。

次の取材時間までは待機の休息。

無性に身体を休めたくなる日だった。

1カ所目は吉野町の三茶屋。

もう1カ所は大宇陀の道の駅。

ぐったりした身体を休めていた。

25日の晩は67拍。

そして本日26日の昼が75拍である。

これまでの最高値に達した。

危険水域と判断してワソラン錠を1錠飲む。

ドキドキ感は止まずに座る姿勢が苦になる。

横たわってひと眠りしたが、ドキドキ感に変化はない。

夕方5時にもう1錠を追加服用する。

少しはマシになった感があるが、難儀だったのが両足とも発症したこむら返り。

寝ているときや座しているときに発症しやすいこむら返り。

発症すればすぐに立ち上がる。

歩いたりして数分間。

立っておれば解消される。

この原因は気温である。

寒さが厳しくなったら足先の筋肉を刺激して収縮する。

手で揉んでコトを済ませることもしてきたが、最近は“立つ“ことで治している。

異常な寒さに足の筋肉縮小。

治すには温めるしかないと判断して、電子レンジでチンして温める温かい用具で足を包める。

また、部屋にずっと敷いていたホットカーペットも電源オン。

温かくなったら機嫌が治った。

19時、入浴する前に念のために計測した心拍数は67拍。

やや落ち着いてきた。

それは気分だけであり、症状に変化が見られない。

効き目が見られるのはいつ。

そう思って飲み続けるワソラン錠。

朝、昼、晩の服用は毎日になった。

27日の晩も69拍。

28日の昼が70拍。

29日の晩が69拍。

30日の晩も68拍。

とうとう10月に入った1日の昼も70拍。

その間のデータにもう一つの異常があった。

心拍数でなく血圧である。

認識した日は9月28日。

その日の昼に測った血圧は96-59。

異常に低い血圧データは2桁台。

えっ、である。

身体の内部に何かが動き始めた。

(H30. 9.26、30 記)

マルちゃんの黒い豚カレー焼きそば

2020年03月20日 10時59分13秒 | あれこれインスタント
今回もまた車中食。

行事が始まる時間が午後1時である場合は、どこでどういうものを食するのか。

毎回が悩ましい。余裕をもって出かけても予期しない渋滞に巻き込まれることは多々ある。

到着地より十数キロメートルの地にゆったりできる場が見つかった。

そこはトイレもある無料の駐車場。

安心して停められる。

この日に持参したカップ麺は焼きそば。

お湯捨てのカップ麺はマルちゃんの黒い豚カレー焼きそばだ。

黒い豚カレー焼きそばは云わずと知れた黒い豚カレーうどんの派生商品。

何年か前から業界はそういう傾向にいている。

味の旨さ、コク、スパイスの利いたカレーうどんは昔から大好きなカップ麺。

その派生商品なら味は保証されるだろう。

だが、期待は裏切られたような気がする。

3分待って、お湯捨て。

液体ソースを落として香り付け。



粉末ソースをパラパラ落としてかき混ぜる。

粉末ソースはなぜか湿気ていたから袋からなかなか落ちてくれない。

全体に味がまわるようにしっかりりかき混ぜるが、どうしても白い麺が残る。



絡んだ麺を解しては箸で持ち上げる。

がっつりいただく。

マルちゃんの黒い豚カレー焼きそばは美味しいのであるが、どこか物足りなさを感じる。

白っぽく残った絡めが足りなかった麺の関係なのだろうか。

カレーの味は痺れるほどの旨さがあるが・・・。

焼きそば麺がつるつる喉に入ってくれるような“油“が欲しい。

振り返ってみたら3年前も同じ感想を残していた。

(H30. 9.24 SB932SH撮影)

粟原天満宮・勧請縄の残欠

2020年03月19日 09時49分04秒 | 楽しみにしておこうっと
知人のUさんが、FBにアップしていた神社が気になる。

神社そのものでなく、ご神木かどうかわからないが、大きく育った杉の大木である。

階段を登りきったそこに植わっている大木は左右に1本ずつ。

境内側からとらえられたその1本の映像に、とても気になる物体がだらりと下がっていた。

目を凝らしてみれば、太い縄である。

房もありそうなその縄は注連縄、それともカンジョウナワであろうか。

実態を見たくなって車を走らせた。

目的地は桜井市粟原(おうばら)に鎮座する天満宮である。

カーナビゲーションにセットしたその地は山の方。

集落から細い道をさらに登ったところにある粟原寺跡は国史跡

史跡巡りに訪れる人は多いようだが、すぐ近くに鎮座する天満神社には目がいかないようだ。

神社に架かる太い縄のことを知りたくて、屋外におられた二人の男性に声をかけた。

太い縄は、カンジョウツナ。

充てる漢字は勧請綱である。

男性が云うには、太い勧請綱の縄結いが難しいようだ。

若手ではできない縄結い。

長老に教えてもらいながら結っている、という。

特に難しいのが捻り。

縄結いに数人。

身体の捻りと綱をもつ腕の捻りは逆の動きになる。

頭では理解できても、身体と腕がなかなかついていかんらしい。

勧請綱にぶら下げる房がある。

その房の個数は三つであるが、材は葉がある榊(サカキ)の木である。



勧請綱を架けた翌日以降に村の人が亡くなられた場合は、すぐさま綱を切る習わしがある。

今年の勧請綱は、この9月までずっと落ちずに、また切ることもなく、架けたままにしていたが、朽ちてきた状態をみて、そろそろ落とさなくては、と切り落としたそうだ。



切ろうが切ろまいが、特に決まりもないが、古い勧請綱は翌年の小正月。

つまり1月15日(※現在は成人の日)に行われる大とんどに燃やされる。

粟原のとんど場は、地区にある火の見やぐらのある畑地。

所有者の了解を得て借用した場でとんど焼きをしていた。

大とんどもとても大きい。

伐りだした100本の竹で組んだとんど櫓。

近年のことである。

とんどを燃やしたら焼けた葉っぱが飛散した。

旧村で行われているとんどはいずこもそうであるが、粟原の大とんどの竹があまりにも多かったのか、焼けた量はそうとうなものだったそうだ。

その日の風、天候具合もあって飛散量が多かったこともあって周辺地域から苦情の声があがったようだ。

そのことがあって、規模を縮小したとんどに切り替えるようだ。

昔は子どもも大勢いた、と祭りの神輿も話してくださった。

そのころの神輿は4人乗り。

少子化の波は全国的。

ここ粟原もご多分に洩れず少子化。

神輿に乗る村の子どもは3人。

そうであっても神輿を担ぎだす。

集落を巡行/下り尾や名寄地区境界まで。

行き交う車の多い国道166号線を担いで巡行するには難しいと判断されて、軽トラに載せて巡行している、という。

聞き取り者が紹介してくださったI区長家を尋ねたが、本人はお出かけ。

伺った奥さんは、戻ったら電話させていただきます、と・・。

3カ月先の正月明けにしているという勧請綱架けは午後いちばん。

当日はよろしくお願いしますと伝えた。

(H30. 9.23 EOS7D撮影)

南山城村高尾の十九夜講を訪ねて

2020年03月18日 10時09分38秒 | もっと遠くへ(京都編)
十九夜講があると聞いて調べている京都・南山城村高尾。

たぶんにこの日であれば、何らかの情報が掴めるのでは、と思って出かけた前年。

平成29年の9月19日に立ち寄った際に出合えた男性。

小字三升(さんじょう)にお住いのMさんが話してくれた概要によれば、実施日は19日の前日の敬老の日。

めいめいが参拝されて、その小屋に籠っていた、と話してくれた。

本年の敬老の日は、9月17日の月曜日。

時間帯は不明であるから、適当な時間を見計らって家を出た。

適当といってもある程度の照準を合わせての出発。

道作りをされてからの参拝であれば、午前中いっぱいに終えて小屋籠り。

その場で直来の食事をしている、と想定した上での出発。

到着した時間帯は正午の12時半。

小屋の扉は閉まっており、人影は見当たらず・・。

ただ、周辺は草刈りをしたような気配がする。

奇麗に整備された状態を見て、到着した時間帯よりも前に終わったのだろうと判断した。

小屋のある左側の奥。

相当数ある石仏群が目に入った。

赤い涎掛けが風景のなかにぽつんと目立っている中央の石仏は錫杖を手にする地蔵立像石仏。



よく見れば、辺りすべてが地蔵石仏のようだ。

手前にある青竹が真新しい。

左右ともシキビを立てていた。

石仏群の右手に小堂が建つ。



チェーンでブロックし施錠した装備に守られるのも石仏のようだ。

ここにもシキビを立てているから、間違いなく、今日か、昨日かにされた模様。

この場に佇んでいても仕方ない。

近くにある集落へ行けば、どなたかに合う可能性もないことはない。

とりあえずは空腹を満たすために摂る車中食。

ここら辺りは、食事をする処がない。

弁当持ち込みか、カップ麺をここで作って食べるしかない。

そう思って用意していたマルちゃんのたらこ味ラー油仕立て俺の塩うまみ塩焼きそば

たらこ味よりもインパクトのあるタラコのラー油・辛ソースが美味かった。

お腹を満たして集落を巡る。

一歩、入ろうとしたそこに草むしりをされている高齢の婦人がおられた。

一般的に十九夜講は女性が集まって営まれる講の集団である。

現役の講中であれば、参列していたかもしれない。

そう思って声をかけた小字三升に住む婦人。

十九夜講を尋ねたが、どうも不確かであるが「たきなん講」なら知っている、という。

婦人は昭和6年生まれの高齢者。

高尾からすぐの隣村になる奈良市邑地町出里が出里のNさん。

「ずいぶん昔のことやけど、“滝庵寺”に家で作った料理を持参して参拝・会食していました」と話してくれた。

「たきなん講」の名をはじめて知ったのは、平成29年1月20日。

南山城村北大河原にある農林産物直売所におられた2人の売り子さん。

うち一人が、高尾に住む女性だった。

その人がふっと言われた講が「たきなん講」である。

「たきなん講」を充てる漢字は「滝庵講」。

Mさんも話していた滝庵寺は、高山ダム築造によって水中に沈んだ。

高尾の人たちは、全戸が高山ダムに沈むことから高台に全戸が移転したのである。

N家前の道端で話しをしていたそのとき。

軽トラで走ってきた車内の人に声をかけられた。

十九夜講のことは、その方が知っていると云って紹介してくれた。

男性は昭和28年生まれのNさん。

自己紹介ならびに取材の主旨を伝えたら承諾してくださった。

だが、今年の十九夜講は、昨日に終えたばかり。

日程は固定日でなく、不定期日程。

日にちが決まれば電話してあげると携帯電話番号を登録してくださった。

同乗していた奥さんの出里は奈良県の山添村。

取材件数の多い山添村であるが、大字はどこであるのか聞きそびれた。

今から出かけなくてはならないという婦人。

行先は新設された道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」。

平成29年の4月15日がグランドオープン道の駅

当日は、相当賑わったそうだ。

今では落ち着いているが、土曜、日曜、休日ともなれば車、バイク、人が溢れるくらいになる。

この日も祝日の敬老の日。

立ち寄るお客さんは多い。



余裕時間はたっぷりあるのでトイレ休憩も兼ねた施設見物。

産直売り場にある商品の品定めに食事処のメニュー調査。

コンビニエンスストアもある道の駅は便利であるが、ときおり訪れてはなにかと購入している北大河原・農林産物直売所の商品とはまた違う。

地産地消であっても栽培者が異なるからだろう。

そのことは否定でなく、偏っていないから買い物者としては2カ所とも訪れたくなる。

トイレを拝借、用足し。



その室内の一角に昔の写真や各種の散歩マップを掲示していた。



新設された南山城村の道の駅を祝して掲示された「むらさんぽ2記念写真展」である。



むら散歩地図に書いてあった昭和44年に完成した高山ダム築造のため高台に移転した大字川端の写真展である。



かつての村の状況に記憶に残る暮らしぶりを村人が語った資料にぞっこん惚れた。

貴重な証言の数々が記されている。

「現在の高山湖周辺マップ」に「田山~広瀬地区の拡大」に「むらさんぽ02夏の号 湖底に眠る集落マップ」まで。

病後の平成27年11月3日に拝見した南山城村・諏訪神社で行われた田山の花踊りの地も紹介している。

神社、寺院に如意輪観音・弥勒菩薩・地蔵尊などの石仏。

お旅所、塚、山の神、モリサンに墓地までを案内する現在状況の観光マップに民俗有無を求めて目がキョロキョロする。

「このへんに水車があったんやで・・・石臼があってな・・・」、「小学4年生になったらここで水泳すんねん・・・学校の先生が授業に連れてきよんねん・・」、「月ヶ瀬梅林行くのに使ったバスは満員でものすごい人やった・・・」、「家の周りはすべてが茶畑・・今と違って高いこんもりした茶園だった・・」などの証言。

「⑦だんだ坂の石地蔵」のキャプションに「いたずら封じのために作ったという謂れがある。田山の入り口を守る塞神(※さいのかみ)。観音寺からここまでたむし送り(※7月末に行われる稲作の害虫を追い払う行事/※田の虫送り)が行われていた。現在も石地蔵は残っている」。

「⑤如意輪観音・子安地蔵」には「十九夜講という。安産を願う女性たちの集まりによって1812年に建てられた如意輪観音が今もある。隣には、同じく十九夜講が建てた子授け・子育ての神である子安地蔵が祭られている」とある。

ちなみに「滝庵寺・三升石塔墓地」も「川端にあった滝庵寺と墓地が移動。今は、寺社はなく、入り口に籠り所が、その奥のお堂に如意輪観音像が造立されている」と記載していた。

先ほど拝見してきた小屋に小堂に安置する観音像のことである。

高尾の川端地区に三升地区。

また田山地区も含めた地域の民俗話題がいっぱい。

午後3時近くになったこの日はここまで。

またの機会にと思って道の駅を離れる。

帰路のコースに選んだ高山ダム湖に沿う府道を走る。

今にも降ってきそうな暗雲。



停めた地は高山ダム湖に架かる高山橋。

現在の橋が架かるまでは、石で造られた欄干のない沈下橋だった。

橋の下を覗き込んでも沈下橋の姿は見えない。

そこから数km走ったところにあった六字名号石碑。



文字のすべては判読できないが、右は庚申塔ではないだろうか。

さらに走った右側に大きな岩がある。



これこそが川端の春日神社のお旅所岩である。

(H30. 9.17 SB932SH撮影)

内原のハデ

2020年03月17日 08時14分10秒 | 民俗あれこれ(干す編)
滝川上流に大字内原(ないはら)の集落がある。

寄り添うように建つ民家は10軒も満たない。

その民家のほとんどに多段型ハザカケの構造物がある。

何台もあるからそれなりの稲架け量があるということだ。

内原に多段型ハザカケの構造物があると知ったのは平成24年。

集落の存在は知っていたが、構造物のことはまったく不知だった。

平成28年に訪れた際にハザカケをしていると初めて知った。

例年に訪れる日程よりも数週間遅い年だった。

その年の9月10日に聞取りをした老夫妻。

一週間前に刈り取った稲を干していた。

数日前も刈って干した。

この日も刈って干した。

夫妻二人だけの作業は一挙にできない。

晴れ間が続く日でないと作業しない、と話していた男性は昭和7年生まれ。

その年でも84歳になる高齢者。

数日後の15日も訪れて撮っていた内原の景観に浸っていた。



それから2年後に訪れたこの日。

ただ、構造物だけが佇んでいた。



実は一時期、FBのカバー写真にアップしていた景観は、当時ハデをしていた内原の民家である。

快晴が続く日になればされると思うのだが・・。

(H30. 9. 9 EOS40D撮影)

滝川裏地のハデ

2020年03月16日 09時20分22秒 | 民俗あれこれ(干す編)
民宿がある大字は風屋である。

そこより少し上流に向かえば大字滝川。

十津川支流の一つである滝川を遡上する。

赤い橋を渡った向こう側に見慣れたハデがある。

滝川裏地集落にあったハデ。

当地ではハザカケをハデと呼んでいた

何段にも積み上げている構造物を、私は多段型のハザカケと呼んでいる。



滝川の最上流に滝百選の一つにあがる笹の滝がある。

台風は去っても秋雨前線が滞っている。

その影響も受けてときおり土砂降りの雨が降る。

それはいっときだけ。

白い雲に青空を垣間見る。

稲を刈ったらハザカケをするが、雨に濡れた分だけ乾きが長引く。

裏地にもう1カ所のハデがある。

雨がかからないようにしている赤いトタン屋根。



晴れていたらもっと赤身が増すが・・。

刈り取った田んぼは水満たしでビチャビチャ。

向こうに見えるガードレールは栗平行きの道。

平成23年9月の台風21号がもたらした大豪雨に滝川支流である栗平川(くりだいらがわ)の左岸が深層崩壊土砂によって河道閉塞に陥った。

埋まった河道対策に仮排水路工事を調えたが、平成24年6月19日の台風4号の降雨によって排水路下流部が浸食拡大。

復旧工事を施すものの、その年の9月30日には台風17号による降雨。

下流法面シュート構造物が流失。

その後の平成26年は台風11号の影響で、砂防堰堤が決壊。

溢れた川水は水位を増して重機をも押し流す。

民宿津川があるところの水位は勢い強く、岸辺が今にも流れそうな状況になったと宿隣家の男性も話していた。

工事は長引いたものの平成28年には土砂流出を防ぐ砂防堰堤が完成し、滝川沿いの集落住民向けに完成説明会を同年11月28日に行われた。

が、今年もまた一部流水路が流失したが、大きな影響にはならなかった。

人的被害はなかったものの、悲しいかな、またもや鮎が望めそうにもない濁り川になったと思ったが・・・数日間も経てば澄みきった鮎の川になる。

(H30. 9. 8 EOS40D撮影)
(H30. 9. 9 EOS40D撮影)

2018十津川遊びp2

2020年03月15日 11時57分39秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
今朝のお目覚めはいかがでしょうか。

ばっちり目が覚めて付近をぶらぶら散歩。

気持ちのいい朝は食事も美味しくいただける。

毎年に訪れて、40数年間も泊まらせてもらっている宿屋は民宿津川

この日の朝食は、例年とほぼ同じ。

心臓手術してからとんと減ったご飯の量。

家では半分であるが旅に出かけた場合は・・・1杯止まり。

かつて元気だったころはお代わり2杯も食べていた美味しい朝食。

身体が受け付けてくれんからどうしようもない。

食事を済ませたらコーヒー。

私はいつもどおりの所定位置に座って昨日の買い物データを入力。

民宿津川さんの請求書をみて昨夜に飲んだアルコール類の本数入力。

瓶ビールが11本に焼酎1本、缶チューハイが10本プラスペットボトル茶を入れたら〆て11750円。

ほんと、よく飲んだものだ。

宿泊代は朝食、夕食込みの一泊で7600円。

ありがたい料金に今回の会費徴収。

一人分が10500円。

昨日の昼食と本日の昼食込みの10500円。

10年以上も前は、運転された方に安全運転料(※ガソリン代含む)を会費から捻出していたが・・。

支払いを済ませた出発前の時間帯。

生憎であるが、W夫妻は大阪に戻る。

旦那は東京出張中の身。

早く帰路につかないと新幹線に間に合わない。

不安な身体でも来てくれたSさんも体調のことを考えて同じく解散。

出発までの少しの時間をもらって寛ぎタイム。

記念写真を撮っていたり、民宿津川にあるセッコクの花などを鑑賞

ほっこりしたら一次解散。

W夫妻にSさんは帰路につき、男組6人は、昨日と同じ場所の内原の広場に向かう。

設営も昨日と同じ。

禁止場所を外した処で設営する。



ただ、W夫妻がプレゼントしてくれたタープテント。

午後の時間帯に突然降りだした降雨から守ってくれた。

ありがたいタープテントはむちゃ重たい。

私が持ち帰って保管することになったが、運搬に身体が悲鳴を起こしたほどの重さにはまいったが・・。

調理を始めた時間帯は午前11時15分ころ。

手始めに焼く粗挽きウインナー。



包丁で切込みを入れた粗挽きウインナー。

本日もまたフライパンは活躍する。

かつては大鍋を持ち込んで特別の鍋で旨し鍋料理。

もっと前には大きな鉄板を持ち込んで焼きそばもしていた十津川遊び。

そういやおでんもしていたことがあったなぁ。

次のフライパン調理はミンミン餃子。



そう、かつての鍋に必須のミンミン餃子。

生ニラに鶏肉につくね。

コンニャクも入れて炊いた。

出汁は、関西で超有名な旭ポン酢を製造・販売している大阪・八尾の㈱旭食品が取り扱っている「うどんだしの素」。

瓶詰め製品は、奈良でも数店舗が取り扱っていたが、みな閉店した。

主力の旭ポン酢を売る店は、今でも数店舗にみられるが、「うどんだしの素」は棚になく、通販で買って食べていた。

いつしかレトルト容器入りの出汁が巷にあふれるようになった、そのころ。

特別な鍋キムチ鍋に移っていた。

私たちの食の味わい方に変化があったわけだ。

それにしても本日は雲行き怪しい曇天。



いつ降りだしてもおかしくない状況にある。

調理も食い気も先を急ごう。

次の調理は、アメリカ産ロースのトンテキ。



旨そうな油が湧いてくる。

紙皿に盛ってぱらぱら落とす刻みネギ。



味付けは下味の塩コショウのみ。

これが美味いんだ。



大きな塊のトンテキは料理長のFさんが持ち込んだ上等もん。

包丁切りして食べやすいようにしてから塩コショウ。



コショウは粗挽きブラックペパー。

脂がのったトンテキ、ジュージュー。



調理、食べる、調理、食べる・・。

上からパラパラ落としてフライパン焼き・・・ではなく、とん平焼きだった。



溶いたたまごをとろとろ落とし、焼きが入ったらフライ返し。



奇麗な形にならなくとも味は美味い。

これもまた刻みネギ入り。

男の料理は、まだまだある。

今度は鶏肉。



国産の若鳥のもも肉もまた塩コショウ。

この場合は粗挽きでなく、一般的なパウダー系。

油を引かずにそのまんまもも肉を焼く。



蓋を落として蒸し焼き。

焼きを入れている間に調理するそれは・・。



Fさん持ち込みの生パイナップル。

さすがにパイナップルは焼くことない。



油っぽいトンテキに酸味のパイナップルが丁度いい。

次の調理は打って変わって生卵。



水を入れた小鍋で作る半熟卵とにぬき卵。



まだちょっと感のある半熟卵は、焼いたトンテキにかけて食べる。



上手くできたにぬき卵は塩を振ってラップ包み。

帰りの道中でたべたくなったときにいただこう。

こうして味わった男の昼めし。

雲行き怪しさもあって早めに片付けを済ましておいた。

いつでも帰れる体制を整えたそのときだ。

真っ黒な雲がわいたと思った瞬間に落ちてきた。

午後2時直前のこと。

落ちてくる雨は大粒。



車のフロントガラスにぶち当たる音も激しい。

車内で待つ時間は長くもなかった。

大雨は通り過ぎたが、小雨降り。

待っているだけでは時間がもったいないとすぐ近くにある村の神社に参拝する。



帰りの旅の安全を願った参拝。

また、来年もよろしくお願いしますと、手を合わせた。

実は血を吸う動物がちょっと気になっていた。

雨がやんだが上から落ちてくることも考えられる山ヒルの存在。

体験したことがある山ヒルの怖さ。

何事もなく戻ってこられたのも、山の神さんの矢高神社のおかげであろうか・・。

広場を離れて南下する。今日もまた温泉行き。

民宿津川でもらった優待券を利用する源泉流しの温泉地は、ゆっくり落ち着ける滝の湯温泉。

広場から温泉地までの距離はままある。

到着した時間は午後3時前。

おおかた40分もかかった滝の湯温泉。



600円のところを優待券利用であれば300円。

ありがたく冷え切った身体を温めてくれる。

滝の湯温泉に書いてあった湯治の力。

「温泉の還元力と抗酸化力が強い月は、1月と2月の寒の湯治に7月と8月の丑の湯治」の二つの時季。

一般に、冬の湯はよく効くといわれ、寒の湯治は風邪を引きやすい時期だけに温泉の湯つかりは必須。

夏の暑い盛りの土用の丑の日に湯治をすれば、1年間無病息災で暮らせるという。

湯治は特にこの二つの時季だけでなく、正月の湯に花湯治とも呼ぶ春の湯治もあれば、田植え後の湯治に秋の湯治も。

農村にとっては季節ごとに湯につかる習慣があったのだろう。

昭和の初期、湯治のことを骨休め、気保養、サナブリ、土洗い、浜湯治などと呼んでいたのも頷ける。

年に一度の十津川・民宿津川行きは、息休め。

いや息抜き休めかもしれない。

滝の湯温泉を出発した時間は午後3時半。

ゆっくり寛がしてくれた温泉地からは大和高田行きと大和郡山行き分乗解散。



「吉野路大塔」の道の駅でトイレ休憩した時間は午後4時40分。

平たんに下った近鉄大和高田駅にてA号とも別れて北上する。

出発地の近鉄郡山駅には戻らず、手前の駅の近鉄筒井駅前で解散した午後6時10分。

それぞれが帰路についた。

「天候に恵まれて(?)、喰う、飲む、喋る・・・を愉しんだ二日間をありがとう。雨降りに日射はWさんちのタープ・テントに救われました。来年も活用させてもらいます。お二人を近鉄筒井駅で見送って、自宅着が午後6時半。雨のおかげもあって早めの切り上げ。例年より早く帰れました。残り物(ワイン・発泡酒)の飲み物に細切れ豚肉などは我が家で消費させてもらいますが、名城の焼きそばはどなたかが持ち帰られたようです」とメッセージを送った。

翌日は朝から降り続けるどしゃぶりの雨・・。

午後になっても曇り空。

突然の雨に動けんと思っていたらなんとか晴れ間が・・。



大急ぎで道具の整理作業を始める。

いただきもののタープ・テントの重いこと。

保管したい場所は天井裏の蔵。



あまりの重さに途中下車した2階の部屋に一時置き。

天井裏まで担ぐのはとてもじゃないが無理、無理。

クーラーボックスにコンロは水洗いして駐車場で天日干し。



風が強まってきたので取り込み。

フライパン、鍋などはかーさんに洗ってもらった。

あれやこれやの片づけに、ぐったりの半日だった。

(H30. 9. 9 SB932SH撮影)
(H30. 9.10 SB932SH撮影)

小林町・新福寺の花まつり

2020年03月14日 09時33分55秒 | 大和郡山市へ
昨年の4月1日に携帯電話が鳴った。

発信者は、大和郡山市小林町・新福寺のS住職だ。

なにかとご連絡をいただいていては数々の寺行事を取材してきた。

このときの連絡内容は、立ち上げたお寺行事である。

村の人たちが集まる行事を、と思って立ち上げた新規事業は花祭りの甘茶かけ。

実施日は、みなが集まりやすい4月の第一日曜日に設定された。

時間は午前10時より。

甘茶をかける唯我独尊の姿の釈迦像を新像した。

併せて御堂も造ったというご案内。

電話口の声は替わっていつもお世話になっている村人のSさん。

明日の2日が日曜。

「来てくれるね」と云われるが、当日は生憎、京都・京田辺宮津の朔日講取材が入っていた。

申しわけないが、翌年には是非とも伺わせてもらう約束をした。

それから1年後の本日である。

会場の新福寺本堂(観音堂)は、320年のときを隔てて平成28年10月29日に新築・落慶法要された新堂である。



真新しくなった本堂で新しくはじめることにした花まつり。

村の人たちで本堂がいっぱいになった。

そのほとんどが親子連れ。

孫さんとともに来られた人たちも多い。

本堂の中央に据えた新しく造った花御堂。



周囲を飾ったお花は飾り物の造花であるが、華やかな雰囲気に浸る村の人は総勢40人も・・。

S住職の頬が緩んでいるように見える。

チーン、チーンと打つおりんの音色に、導師を務める住職の入堂。

ご本尊の木造聖観音立像を安置する祭壇に立てたローソクに火点け。

線香も火を点けてくゆらす。

鐘を打って始まった、今年が2回目になる花まつり。

始めるにあたり、謂れなどを解説される。

そして、勤行。

そして焼香。・・ご真言真言・・・般若心経を唱えた花まつりの法会。



その間に焼香される村の人たち。

子どもからおじいちゃん、おばあちゃんも。40人の焼香は順番待ち。

手を合わせて・・がんにしくどく~。

甘茶かけは法会を終えてから始める。

住職自らも甘茶かけ。



場を離れると、いうことは・・。

その間の楽曲は音源がCDの花まつり。



その音色を流してなおも続く焼香。



一人一人が甘茶をかけて手を合わせる。

適度なところでポットに温めていた甘茶をカップに注ぐ。



住職家族や寺世話が一人一人に配られる甘茶は甘い香り。

ふわぁっとする甘い香りに花、ならぬ鼻がひくひく吸い込んで身体中に沁み込んでいくようだ。

やや渋めのある甘茶に心が穏やかになる。

甘茶の葉を蒸らしてから乾燥させて茶にするらしい。

糖尿病の人には最適な甘いもの。

ならまちの一角にある漢方薬局で買ったというから、そこは菊岡漢方薬局。

村々で行われている甘茶のほとんどが同店舗を利用しているようだ。

買った甘茶の葉の賞味期限は長期間。

昨年の残りであっても十分な甘さを抽出してくれたという。



こうして今年も大勢の参拝者が集まってくださった花まつり。

住職から相談を持ちかけられたのは、本堂の落慶法要をからしばらく経った日である。

電話が鳴った日は平成28年11月3日だった。

翌年の29年4月8日に花まつりを開催したいという。

同寺で初めての事業をどういう形式、形態でしていくかお知恵を拝借したいというお願いであった。

各村でされている花まつりの甘茶。



取材させていただいた事例の数々を伝えることしかできなかったが、こうして新しい行事の幕を揚げられた。

小林町の未来永劫を願った新しい行事に参列させてもらった上に粗供までいただいた。

(H30. 4. 1 EOS7D撮影)

遅い時季にも咲くセッコクの花

2020年03月13日 10時24分03秒 | 十津川村へ
宿泊する民宿津川に初めて泊まったのは、22歳のころ。

今から46年も前、会社同僚ら数人と泊まった宿への足は新宮行きの路線バスだった。

当時、親父さんも女将さんも若かった。

親父さんは猟師。

仕留めた獣は猪か鹿だった。

獣は宿屋でいただく食材であった。

女将さんが亡くなってから早や7年。

親父さんは数年前から介護の身。

宿主は娘二人に弟が、両親の築いた顧客財産を継いだ。

猟師時代のご褒美に松茸があった。

山に入ったときにときおり見つかる松茸

お土産やいうてもらった鹿肉もあれば、猪肉とともに我が家に送ってくれていたが、今はもう・・。

山奥にセッコクがあった。

親父さんが若いころに採ってきたセッコク(長生蘭)は今でも元気に育っている。



セッコクの開花時期は5月から6月が一般的。

一部のセッコクは9月、10月に咲いている。

いずれも石つけしているセコックはどれもこれも苔むし状態。



眺める傍に秋海棠も咲いていた。

(H30. 9. 9 EOS40D撮影)

滝川に架かる野猿

2020年03月12日 09時59分08秒 | 十津川村へ
滝川に架かる野猿(やえん)がある。

十津川村立昴の郷にあるような観光用の体験型野猿ではない。

十数年前では対岸に行き来していた移動手段である。

移動は人力。野猿に乗っかってロープを引くと前進する。

動きだした当初はするすると動いてくれるが、中央辺りからは劇的に力が要るようになる。

中央から対岸へは登り。



引っ張る力がなけりゃ、戻るのも難儀・・。

どうしようもない、と中央で泣き出しそうな女子もいた。

かれこれ35年も前の体験である。

ところで十津川村唯一と思われる観光用の野猿がある。

生活物資を運ぶのではなくあくまで体験・観光の施設

風情はともかく、一度体験してみる価値はあるかも・・。

(H30. 9. 9 EOS40D撮影)