青森県下北半島の津軽海峡沿いに走る国道279号線にある風間浦村に下風呂温泉がある。この下風呂温泉のある旅館の一室で、井上靖は「海峡」の最終章を書きあげたと新聞記事にあった。
その記事で思い出したのが、この半島の突端大間崎のある大間町でキャンプしたことだ。大間町は、正月の初競りで有名なマグロの漁獲地だ。飲食店や旅館の裏側に囲まれた駐車場とトイレのある芝生の園地で、東屋もあり使用料が無料というここでのキャンプだった。
この東屋で、車で寝泊まりのご夫婦やバイクで旅する若い人たちとの楽しい交流が思い出された。井上靖はどんな描写をするんだろうということで「海峡」を読むことにした。一言で言うと、誰も成就しない片思いの恋愛小説といえる。時代背景は、1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)。
図書館で借りたとき、黄色く変色した角川文庫を見て、係の人が「年代物ですな」と笑っていた。文体もやや古臭く感じるものの人間の感情には古臭さも新しさも関係なく、瑞々しい純粋な愛の遍歴は変わることはない。
服飾雑誌「春と秋」の編集長は松村である。その下に男の新入社員杉原、女の新入社員梶原宏子がいる。社屋は有楽町にある戦災で焼け残ったKSビルの3階3部屋と応接室を借りている。3部屋は壁を取り払って広い一部屋に机を並べてある。
松村編集長は独身で、過去に妻帯したかは不明。土曜日などは、ときおり「飲みに行かんかあ」とか「ナイターに行かんか」などと社員を誘う。そんな編集長になぜか惹かれているのが宏子だった。その宏子に首ったけなのが杉原。口では偉そうに宏子に言うが、杉原なりの愛情表現なのだろう。宏子は友人として受け取っている。
松村編集長には親友の医師、庄司がいる。病院を経営しているが、庄司本人は渡り鳥の声の録音に夢中になっている。そのために留守がちになり、相談事を庄司の妻由加里が松村に持ちかけてくる。美人の由加里を想う心が切ない松村。所詮庄司の妻なのだ。 が、病院の経営をないがしろにし資金の調達も妻任せの庄司に由加里も呆れている。
実質的に病院を切り盛りしているのは由加里と若い吉田医師だ。やがて転機が訪れる。松村は、一通の密告とも言える手紙を盾に吉田に退職を迫った。それは吉田が由加里夫人に特殊な感情を持っているというものだった。しかし、「松村さんも由加里夫人に特殊な感情を持っているでしょう?」と吉田に図星をさされ退職勧告が消えた。
しばらくののち吉田が病院を退職することと由加里夫人に心情を伝えたあと交通事故で死んでしまった。それにショックを受けた由加里夫人は寝込んでしまった。人に愛された初めての経験だと松村に言う。聞いた松村はぷっつりと糸を切られたようで心が沈んだ。
松村は酔い潰れたいとも思い杉原と宏子を誘い飲みに出かけた。いつもと違う松村の様子が失恋であることが分かり宏子も失意を感じる。想いを寄せた松村が別の女性に気持を移していたのかと。思わず宏子は「会社を辞める」と言い放つ。それにショックを受けたのが杉原。
杉原はもう泥酔に近づいている。松村と別れてフラフラと歩き始めた杉原を追う宏子。「春と秋」の社屋に戻った杉原は、宏子が松村に思いを寄せていたのを知り涙を流す。この小説の中で唯一のラブシーンがここだ。そこの文章を要約してみよう。
杉原は、ふらついて床に膝をついてしまった。
「お立ちなさいよ」と宏子。
「いや、いいんだ。―――暫くこうして座ってる」
「ばかねえ」
「いや、構わないでくれ。遅くなるから早く帰った方がいい。おれは暫くここにこうしている。小学校の頃、先生から座らされた記憶がある。妙に張り合いがなくて悲しかったな」
そんなことを言っている杉原を立ち上がらせようとした。空いている方の左手が宏子の肩にかかって来た。宏子はその杉原の腕に力が入るのを感じた。宏子は窮屈な姿勢から、体を自由にしようとした。すると杉原は宏子の体と一緒に立ちあがって来た。宏子は何となく次に来るものを予感して、杉原から体を離そうとした。しかし、その時宏子の上半身は杉原の両腕に羽交い絞めされていた。接吻が交わされた。(せっぷんと言われると年代を感じる)
「怒ってる?」宏子は耳元で、低い杉原の声を聞いた。
「いいえ」というように宏子は首を振った。お別れですものと言おうとしたが、それはやめた。宏子の心には恵みの気持ちがあった。たいして杉原は好きではなかったが、そうしてやらないと義理が悪い気がした。杉原の腕を一本、一本解くと「わたし、帰ります」と宏子は言った。
「帰れる? 階段が暗いよ。そこまで送って行こう」杉原はそこが自分の家ででもあるような言い方をした。
翌日宏子は出社しなかった。その次の日も。杉原は松村編集長に探りを入れた。病欠の届けが出ているということだった。杉原は、あのキスが災いしたのかと思い悩む。(これはちょっと悩み過ぎな気がする)今度会ったらキスはもちろん手も握らないでおこうと思う杉原。(これも今の人間なら理解できないだろう)
由加里に失恋した松村、宏子を忘れられない杉原、急に優しくなった由加里を不気味に思う庄司。(由加里が優しくなった理由を松村は知っている。吉田医師の死が契機となって、由加里は夫に愛を求めていたが、愛は与えるものと理解したからだ)あとで合流した松村を含め、三人の男は東京から逃げて3月の下北半島にやってきた。
そして今、暗い夜空に鳥が北へ飛び立つのを待っている。そのとき松村が「よろしく言ってたよ。君に」と言った。
「えっ?」と、杉原は松村を見た。
「よろしくって僕にですか」
「そうだ」
「だれがですか」
「誰だっていいじゃないか。退社の挨拶をして、それからよろしく伝えて下さいと言ったんだ」
鳥の鳴き声が聞こえた。「渡っている。アカエリヒレアシシギが渡っている」三人は寒さも忘れて、耳を澄ませていた。
やっぱり女はリアリストで男はロマンチスト。ちなみに渡り鳥のアカエリヒレアシシギは、体長19cm頸部の羽毛は赤いところから「アカエリ」。体格はメスの方が大きい。産卵を終えたメスはすぐに南への渡りを開始し、抱卵と育雛はオスが行う。