エース・アトキンスの「ホワイト・シャドウ」というフロリダ・タンパでギャングの親玉が殺されて、キューバ系とシチリア系がそれぞれの思惑が絡み別の殺人を生み、刑事の家庭の苦しみや新聞記者の生活を描いてあるが、いまひとつ吸引力に欠けるものを読んだあとでこの川端康成の小説は、まるで森の精気をかぐような日本情緒が横溢した心休まるものだった。
古都、言わずと知れた京都である。京都の中堅どころの問屋の一人娘千重子(ちえこ)の出生に秘密があった。千重子が中学生の時、両親から実の娘でないという秘密を打ち明けられる。それからの千重子は、ことあるごとに「わたしは捨て子」と言う思いがますます強くなる。
そんなある日、自分と瓜二つの苗子という双子の姉妹があることが分かる。千重子の両親の実子以上にかける情愛や双子の姉妹の血族の愛を流麗な文体とともに余情が胸に押し付けられる。
この二つの愛のテーマを軸に京都観光ガイド・ブックの様相を呈している。特に年中行事が詳述されている。御室の桜、葵祭、鞍馬の竹伐り会(たけきりえ)、祇園祭、大文字、時代祭、北野踊(きたのおどり)、12月の色町に事始めがあり、
名所や風物については、平安神宮、嵯峨(さが)、錦の市場、西陣、御室仁和寺(おむろにんなじ)、植物園、加茂川堤、三尾(さんび)、北山杉、鞍馬、湯葉半、チンチン電車(今はもうない)、北野神社、上七軒(かみしちけん)、青蓮院(しょうれんいん)、南禅寺、下川原町の竜村、北山しぐれ、円山公園の左阿弥(さあみ)など。
これらが小説の背景として使われていて、京都弁ともども雰囲気を盛り上げている。もっともわたしは京都弁や大阪弁に親しみを覚えない。と言うのも元々わたしは、大阪生まれの大阪育ちであるが、関東に住み始めて32年にもなると、あの関西弁の尻すぼみでメリハリの無さが気になって仕方がない。
京都弁はまさに女言葉で、男が使うとゲイっぽく感じるのはわたしだけか。関西弁、あるいは京都弁もそれなりの効用があって、観光客からすれば何も京都まで来て標準語を聞きたいとも思わないだろう。
近頃はテレビの影響なのか、全国各地が標準語化しているようなので関西弁は希少価値があるのかもしれない。
それにしても川端康成はグルメ派という印象を受ける。と言うのは、この小説の中で、食べ物の記述がある。湯豆腐、湯葉、笹巻きずし、すっぽん料理など。湯豆腐は森嘉(もりか)で、白豆腐1パック2丁入り360円(この店は、この本で有名になったとか)湯葉は湯葉半。笹巻きずしは、瓢正(ひょうまさ)で、笹巻きずし(吸い物つき)2,700円。すっぽん料理は大市で、一人前23,000円とインターネットで調べた。わたしはこれらの店で食べたことがない。
今是非食べたいと思うのが、笹カレイだ。笹カレイは若狭カレイともいい一夜干しにすると実に美味しい。インターネットで注文できるが値段がやや高い。
わたしは実家(滋賀県)に帰省した折には、近くのスーパーで買って食べていた。その実家もなくなって今は行く機会がない。この本はそんなことまで思い出させてくれた。なお、この本は昭和36年(1961年)10月8日から37年1月27日まで、107回、朝日新聞に連載されたもの。
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