↑ 回向院入口
両国の地に古くから信仰を集めている 回向院 に行ってきました。
回向院のサイト → 諸宗山 回向院
回向院 開創 ↓
回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。
両国には大相撲を見に家族で行ったり、歴史好きな だんな と江戸東京博物館に何度か展覧会を見に行ったりしました。
しかしそれ以外は行ったことなくて、回向院も初めてお邪魔しました。
↓ 最寄り駅のJR 両国駅構内には、いつも大相撲優勝額が飾られています。
↓ 両国駅
↓ 駅前に相撲の碑
↓ その横には 両国国技館
↓ 駅前の国技館通りを左に徒歩三分行くと。
突き当りに回向院が有ります。
↓ 入ってすぐに「力塚」回向院と相撲は縁が深いのです。
以下サイトより引用 ↓
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。
やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。
力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。
↓ 新しい綺麗な 念仏堂 が建っています。
「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」
という理念によって、人・犬・猫・鶏、魚等、生きとし生けるもの全てを法要しています。
↓ おっと生きてる大きな猫ちゃん居ました。
大人しくて、先に居た外人さんの一行に撫でられてました。
もちろん、私も撫でました。(*´▽`*)
↓ 海難で亡くなった人の碑
↓ 来ました ! 鼠小僧治郎吉のお墓。
サイトより ↓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。
私も前立の石の粉を触ってきました。(笑)
↓ とても珍しい、実在した猫ちゃんのお墓。
大切に埋葬されている猫ちゃんが居るとは、江戸の庶民の猫愛も大したものです。
↓ 他にもいろいろ石碑や銅像などが有ります。
駅に戻り、駅舎内の商業施設でランチしようと入りました。
↓ 真ん中に土俵が。
↓ 飲食店を物色していると。
新橋に本店のある蕎麦店、「やぶ久」さんが有るじゃありませんか。
本店にはなかなか行けないから、この支店さんにしよう。
↓ メニュー。嬉しくてほぼ全部撮っちゃいました。
↓ 自分の頼んだ 鴨せいろ 1980円税込み
↓ もちろん 蕎麦湯 も付いてきます。
↓ 表に出たら銀杏がそろそろ色づいてきてます。
↓ 駅構内にあるステーションギャラリー。
↓ 駅ピアノを弾いている方が居ました。
ピアノの音を優雅に聞きながらギャラリーを見て回ります。
↓ 突き当りの、今は使っていない3番ホーム。
両国にはまだ 「刀剣博物館」とか、「震災復興記念館 旧陸軍被服廠跡地」「吉良邸跡」など見どころもいっぱいあるので、又行きたいと思います。
両国の駅の中で、だんなや父親と大相撲を見に行ったのを思い出し、しばし二人の思い出に浸りました。
両国の地に古くから信仰を集めている 回向院 に行ってきました。
回向院のサイト → 諸宗山 回向院
回向院 開創 ↓
回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。
両国には大相撲を見に家族で行ったり、歴史好きな だんな と江戸東京博物館に何度か展覧会を見に行ったりしました。
しかしそれ以外は行ったことなくて、回向院も初めてお邪魔しました。
↓ 最寄り駅のJR 両国駅構内には、いつも大相撲優勝額が飾られています。
↓ 両国駅
↓ 駅前に相撲の碑
↓ その横には 両国国技館
↓ 駅前の国技館通りを左に徒歩三分行くと。
突き当りに回向院が有ります。
↓ 入ってすぐに「力塚」回向院と相撲は縁が深いのです。
以下サイトより引用 ↓
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。
やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。
力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。
↓ 新しい綺麗な 念仏堂 が建っています。
「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」
という理念によって、人・犬・猫・鶏、魚等、生きとし生けるもの全てを法要しています。
↓ おっと生きてる大きな猫ちゃん居ました。
大人しくて、先に居た外人さんの一行に撫でられてました。
もちろん、私も撫でました。(*´▽`*)
↓ 海難で亡くなった人の碑
↓ 来ました ! 鼠小僧治郎吉のお墓。
サイトより ↓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。
私も前立の石の粉を触ってきました。(笑)
↓ とても珍しい、実在した猫ちゃんのお墓。
大切に埋葬されている猫ちゃんが居るとは、江戸の庶民の猫愛も大したものです。
↓ 他にもいろいろ石碑や銅像などが有ります。
駅に戻り、駅舎内の商業施設でランチしようと入りました。
↓ 真ん中に土俵が。
↓ 飲食店を物色していると。
新橋に本店のある蕎麦店、「やぶ久」さんが有るじゃありませんか。
本店にはなかなか行けないから、この支店さんにしよう。
↓ メニュー。嬉しくてほぼ全部撮っちゃいました。
↓ 自分の頼んだ 鴨せいろ 1980円税込み
↓ もちろん 蕎麦湯 も付いてきます。
↓ 表に出たら銀杏がそろそろ色づいてきてます。
↓ 駅構内にあるステーションギャラリー。
↓ 駅ピアノを弾いている方が居ました。
ピアノの音を優雅に聞きながらギャラリーを見て回ります。
↓ 突き当りの、今は使っていない3番ホーム。
両国にはまだ 「刀剣博物館」とか、「震災復興記念館 旧陸軍被服廠跡地」「吉良邸跡」など見どころもいっぱいあるので、又行きたいと思います。
両国の駅の中で、だんなや父親と大相撲を見に行ったのを思い出し、しばし二人の思い出に浸りました。
そうそう、今 江戸東京博物館 は改装中なんですよね。
記事を書くのに調べて気が付きました。
猫塚ですが良く考えたら、人んちから小判2枚盗むって、泥棒猫そのものではありませんか。
飼い主にしたら有難くても、商家にしたらたまった物ではありませんね。
ほんとに金の小判咥えられたのか ?
疑問ですね。
今は大規模改修工事で休館中なのね。
回向院の「猫の恩返し(猫塚)」は知りませんでした。
「猫に小判」という諺があるように、ネコが小判を咥えるかしら?
魚を咥えたネコは見たことあるけれど。
ペットフードで育った外ネコたちは小魚を放ると、ビックリして逃げちゃいます