二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」  トルストイ

2010年01月27日 | 小説(海外)
あなたが20代に読んだ本で、いちばんおもしろかった本は何ですか? そう訊かれたら、「戦争と平和」「罪と罰」と答える。あとは、思い出そうとすると、カフカの短編がくるだろう。とくに「戦争と平和」は鞄に入れて、あっちへ持っていったり、こっちへもっていったりしながら、山手線の電車の中で、駅のベンチで、学校の教室で読み続け、そのときの情景すら思い出すことができる。そのあと、20歳の終わりか、30代のはじめにも、もう一度読んでいる。「アンナ・カレーニナ」も、新潮文庫で読んでいる。どちらも人生経験にとぼしい文学青年の手にあまるとはいえ、その読書の印象は、アザのように、頭の中に残っている。
「戦争と平和」は、その後、もういっぺん読み返そうと思って、新訳の出た岩波文庫をスタンバイさせているが、まだ手をつけていない。

トルストイには、案外緻密な論理がある。それでぐいぐい、ブルドーザーのように読者を押してくるから、この論理性から逃れ出るのは、容易ではない。「へええ、そうなの?」と思っているうち、巻き込まれ、説得されてしまう。ゴーゴリやドストエフスキーと違うのは、その論理が経験論的な、明快かつ緻密な合理性をバックにしているところだろう。

芸術的にもたいへんすぐれた、世界に冠たる「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」の二大作を書いた小説家が、その後小説に興味をなくしていくとは、どういうことであろうか?
著作権を妻に譲渡し、既存のロシア正教の教義とは相容れない独自の宗教家となっていく道筋は、わたしには、なんとも興味深い。これによって、彼は教会から破門され、その破門は、21世紀のいまでもまだ解かれていないという。死の直前、老いた体をひきずって家出を敢行し、小さな駅で死んでいくあたりは、もうほとんど神話の域に達している。
多くの崇拝者に取り巻かれていたろうから、のたれ死にとか、窮死とかではないだろうが、まあ、なみの小説家の人生ではない。そういう意味で稀にみる破天荒な人物であり、峻厳な倫理家であり、またその影響力の強さを考えれば、「巨人」というにふさわしい存在であった。

<イワン・イリイチの死>
以前に米川正夫訳、岩波文庫で読んでいる。
死を真正面からあつかって、仮借なき心理分析をくわえている。中高年者は、ある種の戦慄なしには、この作品を読むことはできないだろう。巻末の年表を参照すると、着想を得てから、7、8年の歳月をかけて、熟成させた作品である。ここにあるリアリストの眼は、人間の皮膚を切り裂くメスのようだ。外部から、つまり他人の眼から見た死と、本人の内側から眺めた死が、合わせ鏡のように描かれ、そこから、当時の「ロシア社会」の欺瞞的な側面がのぞき見える。
死にとりつかれ、闘ったり、悲観したり、絶望したりしながら、やがては死を受容していかざるを得なかったひとりの男。本書が放つ重い衝撃は、読者の上に、黒々とした影を投げかける。
「やがてだれの運命をも支配する死とは、社会にとって、家族や知人や医療にとって、何であるか? あなたは、それとどう向き合うのか」
トルストイは、その問いに、可能な限り誠実に向き合おうとしている。
死生観を考えるとき、藤原新也の「メメント・モリ」を思い出す。ずいぶんと悲観的な偏りを感じはするものの、わたしにとって本書は、それと双璧をなす書である。

<クロイツェル・ソナタ>
これまた、後期トルストイにおける代表作。典型的なフレーム小説で、ある男が、長旅の途中、偶然乗り合わせた男から、妻を殺害するにいたった経緯をながながと聞くことになる。この設定が、秀逸。現代のフェミニストから猛反発を食らうような女性観、性に対するシニカルな論議が、まず披瀝され、それから、嫉妬という妄想による「妻殺し」が、順をおって語られていく。抑えようとしていくらもがいても、抑え切れず、妄想がふくらんでいくプロセスが、文字による表現の最高の達成をくり広げ、息を呑むような展開となる。
あるいは、殺害の顛末や、その直後の描写を見よ!
男たちよ、戦慄なしに、本書を読みおえることができるか、と語っているかのようだ。現代のわれわれからいうと、いかにも古くさい旧時代の「性」のありようにも感じられるが、逸楽的なこの時代の底にも、こういう悲劇が沈んでいる。たとえば新聞の三面記事の向こう側に。


光文社古典新訳文庫(望月哲男訳)
評価:★★★★★

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