西洋特有の「競争」 月刊三橋事務局(経営科学出版)
最近の安倍政権の経済政策の中心には、「競争」という概念が居座っています。
競争とは、「competition」という言葉が
明治時代に欧米から入ってきた際に造られた造語です。
といいますか、competitionの翻訳を「競争」と定めたわけでございます。
ちなみに、competitionを競争と翻訳したのは、福沢諭吉です。
福沢諭吉が江戸幕府の勘定方に依頼され、経済書の目録を翻訳した際に、
competitionに該当する和語が存在しなかったため、
「競い争う」という案を出し「競争」と名付けたのです。
幕府の役人は、「競争」という言葉について、
「ここに争という字がある、ドウもこれが穏やかでない」
と指摘したのですが、それに対し福沢は、
「どんなことッて、これは何も珍しいことはない、日本の商人のしている通り、
隣で物を安く売ると言えば此方の店ではソレよりも安くしよう、また
甲の商人が品物を宜くすると言えば、乙はそれよりも一層宜くして
客を呼ぼうとこういうので、またある金貸が利息を下げれば、
隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を謀るというようなことで、互いに
競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利も決まる、
これを名づけて競争というのでござる」
と解説し、幕府役人は、
「なるほど、そうか。西洋の流儀はキツイものだね」
との感想を述べたとのことです。
福沢の「競争」に関する説明は、確かにもっともなのですが、
本来の「competition」という言葉には
「勝ち負けをはっきりつける」という意味が
内包されています。人々を「勝者」と「敗者」に区分けするわけで、
なかなか厳しい話です。
福沢はもちろん、それを理解していたからこそ、competitionに競「争」という、
キツイ印象を与える漢字を充てたのではないかと想像しています。
問題は、日本国民が「勝ち負けをはっきりつけ、
人々を勝ち組と負け組に分ける」という意味で「競争」という
言葉を使っているかどうかです。
江戸幕府の役人のように、「人々が争うというのは、穏やかではない」と
感じる日本国民が、ほとんどなのではないでしょうか。
とはいえ、日本国民は「競争」あるいは「市場競争」
という言葉を使うことを好みます。
実のところ、日本国民は、学問や人徳をよりいっそう磨き上げること、あるいは
仲間同士が互いに励まし合い、競い、共に向上していくこと、すなわち、
「切磋琢磨」
という意味で「競争」という単語を用いていると思えるのです。
ここまで来ると、文化、伝統、そして「ニュアンス」の問題になってしまいますが、
日本国民は本当に「国民同士で争い、自分が勝ち組になり、
他の国民(同胞)を負け組とする」競争を望むのでしょうか。
それはもちろん、そういう人もいるでしょうが、大多数は違うと思うのです。
例えば、経営者が自社の組織や社員が
「競い争い、勝ち組と負け組に分かれること」を望みますか?
皆が努力し、競うのは当然として、「敗者」を作ろうとまでは思わないはずです。
まあ、一部の企業は組織や社員を「競争」させ、敗者は「解雇」という
外資系的な経営スタイルになってきているかもしれませんが、少なくとも
企業の多数派は異なるでしょう。何しろ、「同じ社員」なのです。
というわけで、安倍政権の経済政策の中心には、競争ではなく
「同じ日本国民が切磋琢磨する」が置かれるべきだと思うのですが、
皆さんはどのように思われたでしょうか。
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