「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)5月1日(金曜日)
通巻第6447号
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アジアに拡がる反中感情、フィリピン、インドネシア等で抗議デモ
オーストラリアの中国人は130万人、反中ムードに華僑は警戒強める
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ラッド政権時代。豪は国を挙げて親中路線だった。なにしろ鉱山投資はチャイナマネー、鉄鉱石はばんばん買ってくれる。おまけに外交官あがりのラッド首相は中国語が堪能で、北京に足繁く通った。
ケビン・ラッドは駐北京豪大使館の一等書記官の経験があり、2007年12月から二年半、2013年に僅か三ヶ月と、二回政権を担当した。「陸克文」という漢字を自分の名前に冠している。豪は英国の囚人の流刑地から発展した。ラッドのご先祖様も流刑者だった。
シドニーは人口450万の大都市だが、中国人がいつのまにか50万人、中国語の日刊新聞が三、四種類でていてページ数も多い。しかもカレー印刷だ。看板も中国語、街を歩いている人々の会話もマンダリン、ビジネス街へ行かないとカンガルー訛りの英語が聞かれないとまで比喩された。
2018年の豪政府統計局の調査で中国人の人口が120万(全体は2500万で5%強)、その後も増え続け、現時点で130万人を越えていると推定されている。
メルボルンもキャンベラも、大きなチャイナタウンが開けており、中国大使館の前には法輪功のテントが張ってある。
豪の空気が変わったのは鉱山企業大手BHPに、中国が買収を仕掛けたときからだ。
日本で言えば国家の基幹産業である日本製鉄に買収をかけるようなものだから、国家安全保障の観点からも、強い反対の声があがり、結局、英国系とファンドが買収し、チャイナマネーを蹴飛ばした。
モリソン現政権は中国に厳しく、米国の路線と協力し、南太平洋の島嶼国家への中国の浸透に対抗、経済援助を強化する方向を明確化した。
パプアニューギニアで開催された2018年のAPECで豪政府は軍隊を派遣して警備にあたり、中国が画策していた海底ケーブルのプロジェクトも、入札から中国を外し、にらみ合いが続いてきた。
同じ大英連邦としての同盟国、ニュージーランドは、豪とは異なって反中国の態度は曖昧、ファーウェイを排除していない。アーダン首相はリベラル左派で豪米などの強硬路線とはやや距離を置く。
もっとも深刻な反中感情が渦巻くのはインドネシアである。
ブキテンギ地方にあるノボテル(一流ホテル)にデモ隊が押しかけ、「中国人ツーリストは帰れ」と叫んだ。地方都市にまで反中感情が拡大し、政府は反中暴動の勃発を怖れて警告を発している。
インドネシア政府は中国系住民に対してコロナ検査を実施している。
インドネシアは先年まで華僑系には公務員資格を与えず、華僑の子弟の大学入学を拒否し、土地の買収を禁止し、中国語の使用も規制してきた。
基本的にインドネシア経済の金融と物流を華僑が抑えていることへの反感が強く、ながらく華僑は現地に同化し、インドネシア風の名前に改め、極力、中国語を使わず、したがってジャカルタのチャイナタウンへ行かないと中国語の看板は見つけられない。
▼フィリピンの大学「中国人は授業にでないで」
フィリピンはスカボロー礁を中国軍に不法占拠され、国際裁判所は中国の主張に一片の裏付けもないとしたところ「あれは紙くず」と言ってのけたため、急激に反中感情が沸騰した。ところがドウテルテ大統領が登場するや、百八十度姿勢を変えて中国になびき、領土問題は棚上げ。「だって中国と戦争したら我々は負けるじゃないか。軍備もないのに」と開き直った。
この弱腰のフィリピンもコロナ感染以後、まず出稼ぎのアマさんたちが職場へ戻れない。逆に中国や香港から帰れない。レイオフされても帰国できず、海外で稼ぎのドル送金で支えられてきたフィリピン経済にがつんと一撃となった。
見渡せば、銀行、流通、小売りが華僑の手にあり、マニラのチャイナタウンには巨大モール、マニラ湾沿いの高級住宅地に建つタワマンは、中国人がキャッシュで買う。
他方、フィリピンの現地人は路地裏の貧困地区に密集して住み、ここにコロナウィルス感染がひろがった。中国からの新移民たちの傍若無人、カネにあかせての振る舞いに不満は潜在していたのだ。
マニアのアダムソン大学では「中国人留学生は授業にでないように」と忠告を受ける。それほどに「コロナ以前」に反中感情が猖獗していた。
決定打はマカティである。
フィリピン最大のビジネスセンター新都心は大成功した華僑が建てた。このマカティにカジノが認可されるや、中国人が大量に進出し、おそらく30万人以上。マフィアが大量の売春婦を引き連れて入り込み、誘拐、拉致、詐欺、殺人など治安が乱れ、これまでの美観が損なわれた。
▼ヨーロッパ人の偏見がアジアに持ち込まれた
かくして東南アジア一帯に普遍的となったアンチ・チャイナ。
社会的な基盤にある反中感情とは、富への怨念。富裕層を敵視するのは現地の貧困世帯や農民、労働者階級である。
のんびりした南洋の現地人は働くことを嫌うが、移民してくる中国人はせっせとはたらき、金を貯める。高利で貸し、いつの間にかひさしを借りて母屋を乗っ取るやりかただから「アジアのユダヤ人」と呼ばれた。
この差別の原因はむしろヨーロッパ人だった。
自らがユダヤ人を閉じこめ、差別し、虐殺を繰り返してきた過去の体験的本能が作用している。
1596年にオランド艦隊がジャカルタに入ったとき、すでに中国人が多数いた。「かれらはアジアのユダヤ人。こすっからく、騙すことが得意で、不正を働く」と書き残した。
1602年にジャワ島を訪れた英国人は「ここにも中国人がいて貿易に従事しているが、インチキ、騙しが得意で、あたかもジャワのユダヤ人のごとし」と書いた。
1723年にフランスはインドシナ半島の植民地支配に乗り出すが、やはりどの地方でも華僑が存在し、インチキをこのみ、金儲けが狡猾だとの印象を報告している。
こうしてヨーロッパの植民地主義者らが構築した「アジアのユダヤ人」という解釈、その差別の感覚は、そもそも欧州に於けるユダヤ人差別と偏見が基礎にあり、同様な歴史観・民族差別をもってアジアを裁断したわけだ。
影響力は大きかった。
1914年にタイ国王は冊子を発行し「アジアに拡がるユダヤ人=シナ人は道徳の欠片もなく慈悲心もない」と断定した。
▼シナ人を中間の搾取に用いた押収の植民地支配構造
植民地経営のヨーロッパ人は、この反中感情の政治的利用をおもいついた。だからタチが悪い。
つまり直接的な搾取を回避し、中間にシナ人を税金の取り立てやアヘンの流通などで駆使し、現地人の不満を、「かれら」に巧妙に仕向けることだった。
英国はインドで、フランスはベトナムで、オランダはインドネシアで、この方法で植民地からの搾取を円滑化した。
大戦後も、この偏見は持続し、経済危機が訪れると必ず華僑が不満爆発の対象にとなる。1997年のアジア通貨危機では、翌19989年にインドネシアで反中暴動がおこり、華僑の商店が焼き討ちされ、数百が殺された。
最近もベトナムで反中暴動が突発した。
抑圧され偏見に満ちた差別に対抗して、華僑は何を学んだか。
かれらは政治に発言力を求めて、当該国家の政治指導者へ食い込みを始めたのだ。フィリピンのアキノ、タイのタクシン兄妹、ジャカルタ市長、マレーシアでも多くの市町村で華僑が政治家に進出し、高利、物流から金融業界を越えて、政治の支配も狙いだしたのである。
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