フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月18日(金) 曇り

2008-01-19 14:05:53 | Weblog
  9時、起床。寝たのが5時だったので、もう少し寝ていたところだが、そうもいっていられない事情がある。朝食はベーコンエッグ、トースト、紅茶、それと昨日の夕食の残りの豚汁。
  学文社に電話して田中社長と話をする。『社会学年誌』の編集作業が例年より遅れていて(入稿の遅れが原因である)、そのため今回は再校を執筆者に戻さず内校でいきたいと昨夜事務局の方へ打診があったのだが、編集委員会としては納期が少々遅れても当初の方針どおり再校まで執筆者に戻してほしいと希望を伝え、ではそういうことでとなった。ブックレットの件があるので、個人的に気の重い電話だったが、こうした折衝は編集委員長の役目だから、それはそれ、これはこれ、と割り切って電話をかけた。案ずるより産むが易し。ブックレットの「はしがき」を書き上げて家を出る前にメールで学文社に送る。残りは「あとがき」と「参考文献」。
  TSUTAYAに寄って中西保志の2枚のアルバルを返却。昨日、朝食をとりながらTV(小倉さんが司会をしているやつ)を観ていたら、中西が出演して彼の代表曲である「最後の雨」を歌った。これがハッとするくらいいい歌だった。それで昼食を食べに出たときにTSUTAYAで彼のアルバム(2枚しか置いてなかった)をレンタルしたのである。その1枚は『スタンダード』というカヴァーアルバムだった。徳永英明の『ヴォーカリスト』のヒットで、ベテラン歌手がカヴァーアルバムを出すのがブームになっているようである。
  蒲田駅のみどりの窓口で東京→金沢(越後湯沢経由)の乗車券と特急券を購入。12,410円なり。高いような気もするし、安いような気もする。所要時間は乗り換え時間を含めて4時間3分。長いような気もするし、短いような気もする。まとまった読書をするのにはちょうどいい時間だ。復路の切符は今日はまだ購入できない。窓口の順番を待っているときに学生の一人からケータイに電話がかかってきた。授業の単位がとれるか不安で担当教員である私に問い合わせてきたのである。メールとか直接研究室を訪ねてくる学生はときどきいるが、電話で聞いてきた学生は初めてである(これを皮切りに今日はいろいろと「初めて」の経験をすることになる)。「心配するな」というと「ありがとうございます!」と言って電話は切れた。私は「単位が取れているにしろ取れていないにしろ、それはもう決まっていることで、君が心配してもどうにもなるものではない」という意味で「心配するな」といったのだが・・・。
  早稲田に着き、「ごんべえ」で昼食(釜揚げうどん)をとってから、研究室で学生の面談。面談の終わりに、その学生が「最後に先生に申し上げたいことが一つあります」というので、なんだろうと思ったら(ちょっと緊張するでしょ)、「私は先生と誕生日が一緒です」だった。12日のフィールドノートで私が「常日頃つきある人で、自分と同じ誕生日の人とこれまで合ったことがない」と書いたのを意識しての発言と思われる。そうか、じゃあ、君が最初である。もしかして今日の面談(昨日メールで申し込みがあった)の目的はこれだったのか?
  4限は大学院の演習。5限に次の時間の試験の問題の作成と印刷。6限はその「社会と文化」の教場試験。試験が始まってしばらして遅刻した学生が入ってきて一番前の席で試験を受け始めた。そしてすぐに手をあげてこう質問した。「先生のお名前を伺ってもいいですか。」答案には自分の名前や学籍番号だけでなく科目名や担当教師の名前を書く欄があるのだが、その学生は私の名前を知らないのである。もちろん大教室での授業ではそういう学生は珍しくない。しかし、そういう学生は教師の名前のところを空欄にして答案を提出するのが常である。試験中に手をあげてわざわざ質問してきた学生は初めてである。私が「大久保といいます。初めまして」と答えると、周囲の学生がクスクスと笑った。試験の後、教室に残っていた学生と30分ほど雑談。2人とも二文の2年生なのだが、学部改編で受講できる演習科目が減ってしまったと憤っている。もっともな話と思う。(帰宅してから現代人間論系主任の増山先生に電話し、来年度、新設する演習科目で二文生にも開放するものを1つ増やせないかと相談する)。
  夕食はTAのI君と「秀永」で。挽肉と茄子の辛味噌炒めに餃子(3個)とわんたんスープを付ける。16日のフィールドノートで札入れと小銭入れを分離して持とうかどうしようかで迷っていると書いたが、I君は2年間ほど二つを分離してもった経験があるという。結論として、やっぱり分離して持つのは不便の方がはるかに大きかったという。小銭入れの付いていない札入れというのは、結局のところ、お金持ちの持つもの、支払いの基本はカードで、現金で支払うときは「お釣りはけっこうです」と言って小銭を受け取らない人のものということになった。私はタクシーに乗るときだけこの台詞を口にするが、他の場面では使ったことがない。はい、よくわりました。これからも私は札入れと小銭入れの一体型の財布でやっていきます。財布はライフスタイルの表現である。
  帰宅して、風呂を浴びてから、TVの前に陣取り、マリインスキー劇場バレエ団の公演「白鳥の湖」をじっくりと観る。劇場で観るのと、TV(DVDも同じ)で観るのとの一番の大きな違いは視線のあり方である。劇場では特定の座席(私はたいてい一階の前の方の席に座る)に座ってみるわけだが、TVでは複数のカメラの映像を観ることができる。その一方で、劇場では舞台上のどのダンサーに着目して観るかは私の自由であるが、TVではカメラの切り替えは一方的に行われ私の関与することろではない。そのため、ソリストが踊っている場合は問題はないのだが、群舞の場合は私の気持ちとは関係なくカメラが頻繁に切り替わるのでフラストレーションが生じる。ダンサーたちの躍動する身体の動きが、カメラの頻繁な切り替えと干渉しあって、忙しないものに感じられる。いっそのことカメラは正面やや上方からの1台だけで左右のターンとズームだけでもいいのではないかと思ったりした。それはそれとして、マリインスキー劇場バレエ団のダンサーの層の厚みは凄いと思った。群舞の一人一人が、並みのバレエ団であれば、ソリストとしてやっていけるダンサーである。そういう中にあっても、ロパートキナは一頭抜きん出ている(誰の目にもそれは明らかである)わけだから、驚くというよりも、これはもう呆れてしまう。彼女の肘の関節は普通の人と構造が違うのではないか。そうでなければあんなに見事に白鳥の羽の動きを表現できるはずがない。黒鳥のパ・ド・ドゥの連続回転も圧巻だった(連続回転といえば道化師役の男性ダンサーのそれも凄かった)。すでにザハロワの「白鳥の湖」はDVDで観ているので、あとは3月の牧阿佐美バレエ団の公演で伊藤友季子の「白鳥の湖」を観れば、思い残すことはない。