フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月29日(火) 曇り時々小雨

2008-01-30 01:29:00 | Weblog
  8時、起床。朝食は昨夜の残りのおでん。カレーと同様、一晩おいたおでんはおいしい。院生のI君に頼まれていた奨学金関係の書類を書いてから大学へ。約束の時間に研究室にやってきたI君に書類を渡す。業績欄に書く論文がもう一本ほしいねと発破をかける。
  草野先生の研究室にお邪魔して基礎講義の件を相談。基礎講義はネットで受講するシステムで、現代人間論系は来年度も今年度と基本的には同じコンテンツを使用するのだが、社会福祉の岡部先生の講義を新たに製作した。草野先生については単独の講義を製作する余裕がないので、初回の論系紹介のコンテンツに5分ほど草野先生の紹介コーナーを追加して、そこで学生へ向けてお話をしていただくことにした。打ち合わせの後、千疋屋で昼食(マンゴーカレー)。「あいかわらず怖い夢を見るのですか?」と尋ねたら、「いえ、ここ2週間ほど怖い夢は見ていません」とのこと。草野先生の怖い夢というのは有名な話で、誰でもたまに怖い夢を見ることはあると思うが、先生の場合はほぼ毎日で、それもちっとやそっとの怖い夢ではなく、猛獣に噛み殺される夢、赤土の断崖絶壁を必死でよじ登る夢、腐乱死体を運び出す人殺したちの夢といった正真正銘、折り紙付きの怖い夢なのである。しかも夜だけでなく、つかの間の昼寝のときにまで怖い夢を見るという。私だったら眠ることが自体が恐怖だが、ここが常人の理解の及ばぬところで、草野先生は眠ることが何よりもお好きなのである。その先生が、ここしばらく怖い夢を見ていないという。普通に考えればよいことなのであろうが、学問や芸術にはデモーニッシュな何かが必要とされることを考えれば、ときどきは怖い夢を見るくらいがちょうどよいのかもしれない。ちなみに私が子供の頃からたまに見る怖い夢は、ゴジラに追われる夢である。最初、逃げ惑う群集の一人に過ぎないのだが、だんだん周囲の人の数が減っていって、最後には私一人だけが追われているのである。自意識過剰に由来する悪夢に違いない。
  帰路、大森で途中下車して、ブックファーストと新星堂で以下の本とCDを購入。

  吉田篤弘『フィンガーボウルの話のつづき』(新潮社)
  吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮らしの手帖社)
  トゥルゲーネフ『初恋』(沼野恭子訳、光文社古典新訳文庫)
  ビゼー:交響曲ハ長調ほか(ミッシェル・ブラッソン指揮、トゥーツーズ・カピトール国立管弦楽団)EMI

  ビゼーの交響曲のCDは、蒲田の新星堂にも大井町の新星堂にもなかったが、三軒目、蒲田と大井町の間の大森の新星堂で見つけることができた。ビゼーといえば「カルメン」であり、「アルルの女」であるが、私はなんとしても交響曲ハ長調が聴きたかった。それは長田弘の「交響曲第一番」というエッセーを読んだからだった。

  「ビゼーは交響曲をたった一つしか書かなかった。
  交響曲第一番。ふつうはそうよばれるのだが、ビゼーには第三番も第七番もない。交響曲は第一番しかない。
  交響曲を書いたとき、ビゼーは十七歳のパリ音楽院生だ。すでに天才の名をほしいままにしていた少年だった。少年は何もかも忘れて、はじめての交響曲に熱中する。しかしそれは、書きあげられはするものの、そのまま少年の机の奥深く蔵いこまれてしまうのだ。そしてそれっきり、二度とビゼーは、交響曲というものを書かなかった。
    (中略)
  それは、不思議な曲だ。曲は、いきなり、全オーケストラによるすばらしい和音の一撃にはじまる。そしてすぐに流れるようにうつくしい第一楽章第一主題へとうつってゆくのだが、なんといってもみごとなのは、冒頭の、ただ一度だけの、短くするどい全オーケストラによる一撃だ。それだけがこの交響曲のすべてだ。そういっていいぐらい、はげしくこころにひびく一撃だ。
  あたかもはじまったそのときにほんとうは終わっている交響曲。それがビゼーの交響曲第一番だ。
  おそらく、冒頭の、ただ一度の、全オーケストラによる一撃に、十七歳のパリ音楽院生は、交響曲への野心のすべてを叩きこんだのであろう。だが、その音を最初に書いてしまったあと、少年にはもう交響曲という形式で書くべきことが、きっと何もなかったのだ。聴いていると、そのことが胸に痛いように伝わってくる。
  完璧な敗北というものをはじめて知った少年の、悲しみの一撃。交響曲第一番はそこにはじまり、そこで終わっている。
  じぶんの完璧な敗北をしるした楽譜を棟の奥深く蔵いこんで、あざやかな悲しみをかかえて、明るい風景を横切っていったビゼー。そのたった一つきりの交響曲第一番がとても好きだ。
  雨の日と月曜日には、もしどうしようもないような気もちに襲われたら、わたしは、ビゼーのその一つしかない交響曲を聴く。」(『私の好きな孤独』所収、35-37頁)

  この文章を読んでビゼーの交響曲を聴いてみたいと思わない人間がいるだろうか。音楽が人を動かすように、文章もまた人を動かすのである。
  帰宅すると、学文社から初校のゲラが届いていた。もうゲラが出たのかとビックリする。一週間以内に戻してくれと書かれている。この一週間は卒論の審査と答案の採点で手一杯なのである。ゲラが出てくるのはもう少し先だと思っていた。しかし、入稿が遅れて迷惑をかけた上に、ここでもたもたしてさらに迷惑をかけるわけにはいかない。私はどうしようもない気持ちに襲われて、ビゼーの交響曲を聴いた。