6時、起床。この頃、眠くなるのが早くなり、それに連動して目が覚めるのも早くなっているが、少々寝不足気味。ハムトーストとホットミルクの朝食。朝から冷たい雨が降っている。
明後日の文学部の入試の件で確認したいことがあり、事務所に朝イチで電話をする。担当者不在とのことで、返事待ちとなる。返事のないまま、10時半に予約してある歯科医院へ。すぐに名前を呼ばれて診察台へ。歯科衛生士さんが「エプロンしますね~」「肘掛倒しますよ~」と小さな子どもを相手にするように優しく語りかけてくる。私の内なる幼児(インナーチャイルド)が思わず「ばぶ~」と返答しそうになる。危ないところだった。今日はしっかりと歯の磨き方を指導された。「ちゃんと洗われていないまな板の上で調理された食べ物を毎日食べていると想像してみてください。いやですよね。それと同じですから」。誰が考えたのかは知らないが、よく出来た比喩だ。少々出来すぎの感はあるが。寝不足から、歯の掃除をしてもらっている間に意識を失う。もしかしたら寝言で「ばぶ~」と言ってしまったかもしれない。ま、まずい。帰宅すると、ホワイトボードに妻のメモがあった。「大学から電話がありました。明後日は仕事はないそうです」。やっぱりそうだったか。
昼食はありあわせのものですませる。辛し明太子、生卵、ご飯、豚汁。ジョン・W・モット『重力の再発見』を読む。授業とも研究とも関係のない本だが、読書の楽しみとは本来そうしたものである。
夕方、傘を差して、散歩に出る。くまざわ書店で、瀬戸まいこの2年ぶりの小説(書き下ろし)『僕の明日を照らして』(筑摩書房)と、夏川草介のデビュー作(第10回小学館文庫小説賞)『神様のカルテ』を購入。「シャノアール」で後者を読む。地方都市の一般病院に勤務する内科医(かつ救急医)が主人公の小説で、作者自身も医師。医師が小説を書くのは森鴎外以来の日本近現代文学の伝統で、北杜夫がそうだし、最近では海堂尊がそうだ。『神様のカルテ』の工夫は、主人公が漱石の『草枕』を愛読する人間という設定で、文体が漱石を意図的に模倣している点である。それによって主人公=語り手は自己が巻き込まれている騒々しい現実から一定の距離をもってその現実を眺めるゆとりを確保している。ちょうど村上春樹がアメリカの小説の文体を使って行ったのと同じことを、夏川草介は漱石の文体を使って行っているということだ。たとえば、看護師の東西直美との会話の場面。
「先生は、ただでさえみんなから変人扱いされているんだから、話くらいまじめに聞く態度を見せなさい。そうしないと私だってフォローしきれないわよ」
「何を言う。私はいつだって大まじめだ。だいたい勤勉・実直を絵に描いたような私をして変人呼ばわりとは無礼千万。どこのどいつだ。そやつは」
「その時代錯誤のしゃべり方からして変でしょう。夏目漱石ばっかり読んでいるから、変な言葉づかいになるのよ」
まことに唐突かつ理不尽な物言いである。たしかに私の愛読書は『草枕』だ。診療のあいまにこれを開いては再読している。しかしその一事をもって私を変人扱いとは、狭量というにもほどがある。
「私が漱石を読もうが、鴎外を読もうがお前の知ったことではあるまい」
「ええ知ったことでじゃないわ。知ったことじゃないけど私なりに・・・」
ふいに東西は口をつぐんだ。
「なんだ?」
「なんでもないわよ」
ぷいと東西は横を向いた。それからため息まじりにつけくわえた。
「一応心配しているのよ。頭はいいのに、変に自覚が足りないんだから余計に手がつけられないわ」
「私は妻のある身だ。手などつけんでよろしい」
直後の沈黙は、先にもまさる一層の険を含んでいた。
何か言い返そうとした東西は、しかし大きなため息と冷ややかな視線を残して、そのままどこかへ行ってしまった。
やってしまった・・・・。
疲労が積み重なると理路がかすんで失言が増える。どうでもいいことにこだわって思考の質も低下する。無論、私が悪いのではない。これも劣悪な環境のなせる業なのだ。しかし東西を怒らせるのは筋が違うのであるから、あとで詫びのひとつでも入れておかねばなるまい。やれやれ、また仕事がひとつ増えた。
私は深々とため息をついて時計を見た。
すでに夜十時。働き始めてまもなく四十時間。 (28-30頁)
終わりの方で出てきた「やれやれ」は村上春樹のそれと同質である。夏川草介は夏目漱石の皮を被った村上春樹(ただし初期の村上春樹)ではないかと思うが、「やれやれ」の源流は漱石にあるという見方もあるし、村上春樹はしばしば現代の夏目漱石だとも言われているから、ことさらに村上春樹との類似性を指摘することはないのかもしれない。