フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月21日(水) 晴れ

2012-11-22 09:58:36 | Weblog

  8時、起床。『ゴーイング・マイホーム』第6話(録画)を観ながら、カレー、トースト、牛乳の朝食。トースト半切れ、蜂蜜、紅茶を追加。旅先での朝食のように、ゆったり食事をすると、食べる量が増える。朝って、本当は、お腹が減っているのだということがわかる。  

  昨夜、某先生から共同研究への参加のお誘いのメールをいただいたが、一晩考えて、今回はご遠慮させていただきますとのメールを返す。2014年度に1年間の研究休暇を申請する予定で、そこでこれまでの研究の成果をまとめたいと考えている。来年はそのための準備にできるだけ時間を投下できるようシンプルな生活を心掛けたい。

  11時頃、家を出て、大学へ。

  神楽坂で途中下車して「SKIPA」で昼食をとる。日替わり定食(鶏肉団子の春雨煮がメイン)とチャイ。

  『梅花亭』と『亀井堂』でお八つとお土産を購入。

 

  2時から教授会。ぴったり3時間で、5時に終了。研究室の前まで来ると、中では3時から始まったゼミの学生のインタビュー調査がまだ続いている。おそらくあと1時間はかかるだろう。教員ロビーで一服してから、帰る。


蒲田駅のホームにて

  東急プラザの「海老家總本舗」で 鱈子の佃煮を購入。夕食のとき、ご飯を軽くお替りしてお茶漬けで食べる。これがうまいのである。お茶漬けってどうしてこんなに美味しいのであろう。

  夕食後、きたやまおさむ・よしもとばなな『幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方』(朝日出版社)を読み始める。

  「 二〇〇九年、私にとって重要なミュージシャンが二人、亡くなりました。一人はマイケル・ジャクソン、もう一人は加藤和彦という無二の親友です。(中略)この二人にはとても重要な共通点があることに気づきました。それは、彼らがまるでこの世を劇場のように生きているのではないか、ということです。人の目にさらされながら、パフォーマンスを行なう彼らの人生そのものが、表舞台の上の演技のようになってしまっているのではないか、と。/マイケル本人の素顔、マイケルのこころはいったいどこへ行ったのか。私の加藤和彦のこころ、素顔はどこへ行ったんだ、と思いました。そう思っている私自身、今こうしてここに立っている私こそ、はたして本当の私なのだろうか、ただ人前で私を演じているピエロではないのか、そうであるとすれば、私は自分のこころをいったいどこに置いてきてしまったんだろうか、自分の素顔はどこにあるのか、と自問する思いでした。自分に向けたこうした問いかけを、マイケルにも加藤和彦にもしてみたかった。/こうして、マイケルを通じて加藤和彦という男の素顔、こころに迫りたいと考えていたのすが、奇しくも私が精神分析として一貫してつづけてきた問いかけと一致する問題ではないか、と思いいたったのです。」(12-13頁)

  最近の社会学的自己論では「多元的アイデンティティ」という概念が勢力を得てきていて、「本当の自分」という問いの立て方自体に問題がある(あらゆる社会関係の中でその表現されている「自分」はどれも「本当の自分」なのだと考える)のだと述べている。これに対して精神分析では無意識の中に「本当の自分」があるという考え方をする。無意識の中にあるのだから、簡単にはその正体がわからない。そのためあれこれの手法を使ってそれを可視化しようとするわけだ。一般の人にもこうした精神分析的自己論の考え方は広く浸透していて、「本当の自分」とは何だろうと自問して悪戦苦闘することになる。「多元的アイデンティティ」のアイデアは、そうした悪戦苦闘から人を解放してくれるが、その一方で、「本当に「本当の自分」というものはないのか?」という疑問がどうしても残ってしまうことになりがちである。「そうだよ。本当に『本当の自分』というものはないのだよ」と答えても、さらに、「「本当に『本当の自分』の自分というものはない」というのは本当なのかという疑問が残ってしまう。切りがないのである。それだけ精神分析的自己論は私たちの「私」の見方に強い影響を与えている。