9時、起床。
自然に回復したのか、湿布薬が効いたのか、両者の相乗効果なのかわからないが、右足の具合は大分よくなった。一昨日は、「鎌倉を半日歩いたくらいで足の調子が悪くなるなんて俺も歳をとったな。もうジイサンだな」と落胆したものだが、今日は、「二日で回復するとは俺もまだ若いな。まだオジサンだな」と思った。人は中年の入口付近にいるときは「オジサン」「オバサン」という呼称を忌避したがるものだが、中年の出口=老年の入口付近になると、「オジサン」「オバサン」という呼称を手放したくなくなるらしい。
冷静に考えれば、私は「オジサン」から「ジイサン」への移行形態である「オジジイサン」という呼称(いま思いついた造語です)が一番相応しいと思う。「オジジイサン」、いいんじゃないだろうか。今年の流行語大賞のノミネートに間に合うかもしれない。
トースト、目玉焼き、ハムステーキ、サラダ(炒り卵)、牛乳、紅茶の朝食兼昼食。
コンビニに朝食用のパンを買いにいったときに一緒に購入した『OZ magazine』10月号をパラパラと見る。特集は「銀座の歩き方」。
今日は一日中雨のようである。多少の雨なら散歩もよいが、本格的な雨のようである。
書斎&居間で過ごす一日になる。
3時を回った頃、妻がインスタントラーメンを作り始めたので、「この時間にラーメンはどうだろう?」と疑問を呈すると、それもそうだと思ったらしく、半分私にくれた。一袋のインスタントラーメンを夫婦で分かち合って食べるとは、「一杯のかけそば」みたいじゃないか。貧しかった新婚時代を思い出す・・・って、そこまで貧しくはなかったか。確かに私は無職(大学院生)だったが、妻はメーカーの正社員だったからな。
夕食は銀ヒラスの西京焼き、冷奴、サラダ、味噌汁、豆ご飯。
デザートはなし。いや、ありです。「梨」と漢字で書かないと「無し」みたいだ。
深夜、台風の影響で、雨風が強くなってきた。
川上弘美訳の『伊勢物語』を少しずつ読んでいるが(新聞の連載小説を読むみたいに)、これがとてもいい。
たとえば、「二十二段」。
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男と女がいた。
あまり高まらないままに、別れてしまった。
それでも、忘れられなかったのだろうか、女の方から、こんなことを言ってきたのだ。
憂(う)きながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつつなほぞ恋しき
あなたはすこし
ひどいひと
でも忘れられないひと
きらい
と思おうとしても
やっぱり好き
「ほほう」
と、男は思い、詠んだ。
あひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思ふ
たとえば
川の水が中の島に塞(せ)かれて
二つに分かれてしまうこと
そんなことがあったとしても
一度ちぎった仲ならば
必ずふたたび会うことだろう
わたくしたちだとて
同じなのではないでしょうか
そんな遠回しな歌を詠んでみたけれど、男は急に女に逢いたくなったのだ。
その夜、男は女のもとへ行った。
しみじみとこれまでのことやこれからのことを語り、
秋の夜の千夜を一夜になずらえて八千夜し寝ばやあく時のあらむ
千の夜を一夜とかぞえ
そうやって八千の夜を重ねたとしたら
あなたと過ごす夜に倦む時が
やってくるのでしょうか
と読んだ。
女は、返した。
秋の夜の千夜を一夜になせりともことば残りてとりや鳴きなむ
秋の夜長
その千の夜を一夜とかぞえても
この語らいが
尽きることはなく
鶏はすぐに暁を告げるでしょう
こんなことがあって、それから男は以前よりもずっと情ふかく女のもとへ通うようになったのである。
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淡々とした地の文と、情感たっぷりの和歌のコントラストが素晴らしい。『伊勢物語』は川上弘美によってそれに相応しい現代語の「文体」を与えられたといってよいだろう。古文の勉強で高校生のときに読んだ『伊勢物語』の現代語訳は、「文法」に重点がおかれ、「文体」はおざなりだった。そしていうまでもなく文学とは「文体」なのである。
『伊勢物語』は男女の体の交わりと心の交わりを中心とした物語だが(ただし男同士の友情の物語も忘れてはいけない)、和歌は心の交わりの手段となっている。いかに相手への思いを洗練された言葉で語るかということが大切なのだ。恋愛における身体的コミュニケーションと言語的コミュニケーションの重要性は現代でも同じであろう。もちろん現代の恋人たちは和歌など詠まない。けれども対面的であれ非対面的(手紙やメール)であれ、何気ない言葉が愛情に火をくべるものとなり、反対に水をかけるものとなることは周知の事実で、だから言葉選びにはとても気を使っているはずである。一般に女は男よりも「言葉」を欲していると思われているが、『伊勢物語』の「二十二段」は男だって「言葉」を欲しているのだということを物語っている。
3時、就寝。