あれこれの書類を作成していて、寝たのが午前4時。寝たと思う間もなく、午前8時、起床。眠い。トーストにコロッケとキャベツをはさみ、マヨネーズとウスターソースをかけた、自家製コロッケパンと牛乳の朝食。9時に家を出て、10時からの会議に臨む。委員の一人が欠席で(会議があるのを忘れたらしい!)、正式な会議としては成立せず、懇談会となる。昼食はコンビニのおにぎり3個(鮭、昆布、梅干)。昼休みに学生と面談、1時からカリキュラム委員会(委員長の安藤先生は今日の資料作りのため一睡もしていないらしい)、3時から現代人間論系運営準備委員会、夕方、学生と面談。チョコレートでエネルギーを補給しながら一日のスケジュールをなんとかこなした。生協文学部店で、松井巻之助編『回想の朝永振一郎』(みすず書房)、戈木クレイグヒル滋子『グラウンデッド・セオリー・アプローチ』(新曜社)、上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日文庫)を購入。帰りの電車の中で居眠りが出て、身体が左に傾斜する。左隣の女性が迷惑そうに押し返してくる。すみませんね。蒲田に着いて、ラオックスに立ち寄り、パソコン(FMV-BIBLO LOOXシリーズのT70S/V)の注文。バッテリー駆動時間8.4時間、重さ1.37㎏が決め手。カードタイプのワンセグチューナーが付属。ワンセグ放送というのがどんなものなのか、ちょっと楽しみ。夕食(カタ焼きそばのあんかけ)の後、1時間ばかり居眠りをしてから、フィールドノートの更新と、久しぶりの研究ノートの更新。
午前、先週の金・土の授業日誌を付ける。午後、母と一緒にグループホームに父を迎えに行く。大森駅から徒歩5分のところにある小さなビル。5階のフロアーが居間になっていて、入っていくと、中央の大きなテーブルに5、6人の老人たちが静かに座っていて、室内には民謡が大きな音量で流れている。父は彼らとは少し離れた場所、壁際にいくつか置かれたベッドの1つに横になっていた。寝たきり老人は父だけのようである。私と母の顔を見ると、安堵したような表情で、家にはいつ帰れるのかと聞く。あと30分ほどで予約してある介護タクシー(車椅子のまま乗れる)が来るからと答えたが、5分と経たないうちに同じ質問を繰り返す。「こういう場所は好きじゃない」と声に出して言うものだから、こちらとしてはヘルパーさんや所長さんの手前申し訳ない気持になる。介護タクシーの運転手は、3日前、家に迎えに来てくれたのと同じ人だった。だから道順(一方通行が多くて結構面倒なのだ)を説明する必要もなく、自宅の前までスムーズに行ってくれた。父をベッドに運んでやれやれと思っていたら、母がグループホームに忘れ物を一つしてきたことに気がついた。しかたがないので、一服してから、私が再び大森まで行く。散歩の代わりだと思えばよい。大森は蒲田の一つ隣の駅だが、下車することはめったにない(3ヵ月前にキネカ大森に「THE有頂天ホテル」を見に来て以来だ)。でも、新旧の商店が混在していて、散歩するには楽しい街だ。「大森食堂」という町の名前を冠した定食屋さんを見つけた。こういう名前は早い者勝ちだから、店舗は新しくとも開業したのはずっと昔なのだろう。ときに「大森食堂」の御飯は「大盛り」が基本なのだろうか。
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アトレ(駅ビル)の中の本屋(ブックファースト)を覗いて、デザインが新しくなった岩波新書の新刊を中心に十数冊購入。
吉本隆明『家族のゆくえ』(光文社)
東海林さだお『おでんの丸かじり』(朝日新聞社)
『植草甚一自伝』(晶文社)
『植草甚一の研究』(晶文社)
柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)
坪内稔典『季語集』(岩波新書)
筑紫哲也『スローライフ』(岩波新書)
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
平田オリザ『演技と演出』(講談社現代新書)
玄田有史編『希望学』(中公新書ラクレ)
岡部敬史『ブログ進化論』(講談社α新書)
斉藤孝『三色ボールペン情報活用術』(角川oneテーマ21)
本屋と同じ階に入っている丸善(文房具のみ)でロディア(NO.11)の5冊セット(オリジナルカバー付き)を見つけ、オリジナルカバー(白のビニール製でロディアのロゴが入っている)が欲しくて購入。散歩について書かれた本には「散歩はお金がかからない」と決まり文句のように書いてあるが、嘘である。散歩をたんなる運動(ウォーキング)と考えるのは貧しい考え方である。散歩とは街との交流である。人と付き合うのにお金が必要なように、街と付き合うのにもいくばくかのお金は必要なのである。
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アトレ(駅ビル)の中の本屋(ブックファースト)を覗いて、デザインが新しくなった岩波新書の新刊を中心に十数冊購入。
吉本隆明『家族のゆくえ』(光文社)
東海林さだお『おでんの丸かじり』(朝日新聞社)
『植草甚一自伝』(晶文社)
『植草甚一の研究』(晶文社)
柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)
坪内稔典『季語集』(岩波新書)
筑紫哲也『スローライフ』(岩波新書)
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
平田オリザ『演技と演出』(講談社現代新書)
玄田有史編『希望学』(中公新書ラクレ)
岡部敬史『ブログ進化論』(講談社α新書)
斉藤孝『三色ボールペン情報活用術』(角川oneテーマ21)
本屋と同じ階に入っている丸善(文房具のみ)でロディア(NO.11)の5冊セット(オリジナルカバー付き)を見つけ、オリジナルカバー(白のビニール製でロディアのロゴが入っている)が欲しくて購入。散歩について書かれた本には「散歩はお金がかからない」と決まり文句のように書いてあるが、嘘である。散歩をたんなる運動(ウォーキング)と考えるのは貧しい考え方である。散歩とは街との交流である。人と付き合うのにお金が必要なように、街と付き合うのにもいくばくかのお金は必要なのである。
自宅のベランダの下のダンボール箱の中で、野良猫(「なつ」と「あき」の母猫。名前はない)が仔猫を産んだ。私はまだ見ていないが、母が確認したところでは仔猫の数は4匹とのことである。実は、昨日、野良猫がウチで仔猫を産まないように、普段は「なつ」と「あき」が寝床にしているベランダの下のダンボール箱を母が撤去しようとしていたので、どうせ別の場所で産んでも仔猫を引き連れてウチにやってくるに決まっているから(「なつ」と「あき」のときがそうだった)、そんなことをしても結果は同じだからと、ダンボール箱を元の場所に戻させたのだが、そうしたら、どんぴしゃりのタイミングで、その日の夜(つまり昨夜)、母猫が「なつ」と「あき」を追い出して、そこで仔猫を産んだのである。母も妻も、息子までもが、この事態を招いた責任は私にあると口を揃えて言う。私自身もそうかもしれないと思う。しかし、繰り返すが、別の場所で産んでも結果は同じことなのである。今後の方針としては、第一に、母猫は次のさかりのシーズンに入る前に捕まえて避妊手術を施す。第二に、仔猫たちは1ヵ月くらいしたあたりで、しかるべき機関を通して飼い主を捜してもらうか、メスの仔猫に避妊手術を施した上で半飼い猫としてウチで面倒をみる。第三に、「なつ」と「あき」と母猫と4匹の仔猫以外の猫には餌を与えない。この方針を実行すれば、我が家が猫屋敷になることは回避することができる。さて、さしあたりすることは、4匹の仔猫たちに名前を付けてやることである。「小春」「小夏」「千秋」「小雪」にしようかしら。だが、その前に、4匹の仔猫の性別を確認しなければならない。
夜、一家で夕食を食べに出る。母も一緒である(娘は明々後日から始まる春公演の準備で今日も帰宅は遅い)。父の体調が芳しくなくなって以来、絶えて久しくなかったことである。最初に行った蒲田銀座通り奥の鰻屋「寿々喜」は臨時休業の札が出ていたので、東急プラザ6階の「植むら」に行く(ここでも鰻重は品切れと表示されていた。何かの理由で鰻の供給が滞っているのだろうか)。母は幕の内善、妻と息子はわっぱ飯と刺身・天ぷらのセット、私は天重とざる蕎麦のセット(デザートに白玉ぜんざい)を注文。食事を終えて帰宅すると、寝床を奪われた「なつ」と「あき」が玄関のあたりでうろうろしていた。彼らのために新しい寝床を用意してやらねばなるまい。温かくなったとはいえ、小雨の降る夜に野宿は気の毒だ。「なつ」を抱き上げると(私にしかできない技だ)ゴロゴロいいながら腕の中で丸くなる。妻と息子はそれを見て嫉妬するのである。
夜、一家で夕食を食べに出る。母も一緒である(娘は明々後日から始まる春公演の準備で今日も帰宅は遅い)。父の体調が芳しくなくなって以来、絶えて久しくなかったことである。最初に行った蒲田銀座通り奥の鰻屋「寿々喜」は臨時休業の札が出ていたので、東急プラザ6階の「植むら」に行く(ここでも鰻重は品切れと表示されていた。何かの理由で鰻の供給が滞っているのだろうか)。母は幕の内善、妻と息子はわっぱ飯と刺身・天ぷらのセット、私は天重とざる蕎麦のセット(デザートに白玉ぜんざい)を注文。食事を終えて帰宅すると、寝床を奪われた「なつ」と「あき」が玄関のあたりでうろうろしていた。彼らのために新しい寝床を用意してやらねばなるまい。温かくなったとはいえ、小雨の降る夜に野宿は気の毒だ。「なつ」を抱き上げると(私にしかできない技だ)ゴロゴロいいながら腕の中で丸くなる。妻と息子はそれを見て嫉妬するのである。
先週ほどではないが、やはり土曜日は疲れる。フルにしゃべる講義が2つ続くためというよりも、一週間の疲れがピークに達するためであろう。2コマ目の講義(3限)を終えて、研究室のリクライニングチェアーに身体を沈めているところへ、日本語・日本文化専攻のドクターのTさん、同じくK君、来年社会学専攻のドクターを受験するAさんがやってきて、しばし雑談(途中から場所を文学部前の喫茶店レトロに移す)。K君とは初対面であるが、以前からフィールドノートの愛読者だそうで、私は気づいていないが、五郎八やメルシーで何度も私と出くわしているそうで、メルシーでは相席になったこともあるという。そ、そうか・・・、ときどき感じていた得たいの知れない視線の正体は君だったのね。作家の井上光晴(全身小説家!嘘つきみっちゃん!)について研究しているとのことで、私の清水幾太郎研究よりもさらにマイナーな研究である。「研究上の競争相手はいるの?」と尋ねたら、即座に「いません」との答が返ってきた。誰も知らない昔の作家にもう一人の誰も知らない作家が与えた影響について無闇に詳しく調べるのがアカデミックな文学研究である、という冗談をどこかで読んだことがことがあるが、K君の研究はそれに近いものがあるかもしれない。そのことは言わずにおいたが、もし言ったら、たぶんK君は嬉しそうな顔をしたであろう。
今日から二泊三日で父を自宅と同じ区内にあるグループホームで預かってもらう。週末、一家でどこかに旅行に行くというわけではなく、父を施設に預けるということがどのようなことであるのか、それが父に及ぼす影響、われわれ家族に及ぼす影響、それを知るための試みである。父の介護から解放されることで一番身体的に楽になるのは母である。同時に、父を施設に預けることが一番心理的に堪えるのも母である。今回の件は、母が提案した。当初は一週間という期間を母は考えていた。私は最初から一週間は長すぎるだろう、とりあえず二泊三日で様子をみてみよう、それでとくに問題がなければ、次回からは一週間にすればいい、と言った。案の定、母は空っぽになった父の介護ベットの傍らで、ホッと一息つきながらも、父がいまごろどうしているだろうと気になって仕方がない様子である。「明日、様子を見に行ったりしてはいけませんよ。それでは何のために預けたのかわかりませんからね」と私が言うと、「行きませんよ」と母は自分に言って聞かせるような口調で言った。
今日から二泊三日で父を自宅と同じ区内にあるグループホームで預かってもらう。週末、一家でどこかに旅行に行くというわけではなく、父を施設に預けるということがどのようなことであるのか、それが父に及ぼす影響、われわれ家族に及ぼす影響、それを知るための試みである。父の介護から解放されることで一番身体的に楽になるのは母である。同時に、父を施設に預けることが一番心理的に堪えるのも母である。今回の件は、母が提案した。当初は一週間という期間を母は考えていた。私は最初から一週間は長すぎるだろう、とりあえず二泊三日で様子をみてみよう、それでとくに問題がなければ、次回からは一週間にすればいい、と言った。案の定、母は空っぽになった父の介護ベットの傍らで、ホッと一息つきながらも、父がいまごろどうしているだろうと気になって仕方がない様子である。「明日、様子を見に行ったりしてはいけませんよ。それでは何のために預けたのかわかりませんからね」と私が言うと、「行きませんよ」と母は自分に言って聞かせるような口調で言った。
朝食(豚肉の味噌焼き、わかめスープ、御飯)の後、昨日のフィールドノートを書く。就寝前に書くことを原則としているが、疲れているときは文章にハリがなくなるので(お肌と同じ)、無理をせず、翌朝回しにする。一日の終わりにその日のことを書くときと比べて、一日の初めに前日のことを書くときの方が、対象との距離感があるためか、感情が背後に退きクールな(抑制の利いた)文体になるような気がする(当人にしかわからないレベルかもしれないが)。たとえば村上春樹は早起きで小説を書くのは午前中の仕事と決めているようだが、もし彼が夜中に仕事をするタイプの作家であったら、作品はいまとずいぶんと違ったものになっていたであろう。大学院の演習で配布する資料をプリントアウトしてから大学へ。
3限の社会学演習ⅡBでは「本を読む」ことの作法についてレクチャー。私の目から見ると、多くの学生は本の読み方が浅い。どんなことが書いてありましたかと尋ねても本の内容を的確に要約することができないし、読んでいて疑問に感じる点はありませんでしたかと尋ねても著者の議論の弱点を鋭く指摘するといったことはまずできない。もしやと思って10人ばかりにテキストを見せてもらったが、案の定、書き込みをしたり付箋を貼ったりしながら読んだ形跡のあるものは一つもなかった。図書館から借りている本ではないのだ。身銭を切って購入した本なのだ。それも小説とか詩集とかではなく、社会学の文献である。社会学的思考を鍛えるための道具である。本は消耗品と心得て、消費し尽くすことである。もし後からまたその本を読みたくなって、昔書き込んだ傍線やメモが気になるときは、同じ本をもう1冊買えばよい。そんなもったいないこと、と思うなかれ。読み返すに値する本などそうめったにあるものではないのだから、そういう本に出会ったことを感謝しつつ、もう1冊買えばよいのだ。
4限は大学院の演習。参加者が一人増えた(社会科学部の大学院のM1のY君)。慶応の院生のIさんが今日は欠席だったので、私を含めて参加者全員(8名)男性である。私の担当科目の中で唯一の男性優勢の授業である。ハードボイルドな展開が期待できるかもしれない?! 5限は休憩時間。昼食を取り損ねていたので、メルシーに行ってチャーシュー麺を食べる。6限の「社会と文化」は定刻より5分早く教室に入ってしまった(研究室の時計が進んでいたのである)。当然、まだ学生たちはそろっていない。かといって研究室に戻るほどの時間ではないので、来ている学生たちに前回の授業のノートを見せてもらって時間を潰す。なんだかスカスカのノートが多い。私が板書したことしかノートに書いていないせいだろう。これはノートとしては原始的レベルである。板書したこと=重要なこと、ではない。少なくとも、板書したことだけが重要なことではない。板書の時間を惜しんで喋っていることの中に重要なことが含まれている場合も多いのだ。その辺の嗅覚を鍛えてほしいと思う。
9時、帰宅。風呂を浴びてから、明太子でお茶漬け。昼食が遅かったので今日の夕食はこれで済ます。デザートにハーゲンダッツのアイスクリーム(チーズケーキ)。でも、一番好きなのはラムレーズン。
3限の社会学演習ⅡBでは「本を読む」ことの作法についてレクチャー。私の目から見ると、多くの学生は本の読み方が浅い。どんなことが書いてありましたかと尋ねても本の内容を的確に要約することができないし、読んでいて疑問に感じる点はありませんでしたかと尋ねても著者の議論の弱点を鋭く指摘するといったことはまずできない。もしやと思って10人ばかりにテキストを見せてもらったが、案の定、書き込みをしたり付箋を貼ったりしながら読んだ形跡のあるものは一つもなかった。図書館から借りている本ではないのだ。身銭を切って購入した本なのだ。それも小説とか詩集とかではなく、社会学の文献である。社会学的思考を鍛えるための道具である。本は消耗品と心得て、消費し尽くすことである。もし後からまたその本を読みたくなって、昔書き込んだ傍線やメモが気になるときは、同じ本をもう1冊買えばよい。そんなもったいないこと、と思うなかれ。読み返すに値する本などそうめったにあるものではないのだから、そういう本に出会ったことを感謝しつつ、もう1冊買えばよいのだ。
4限は大学院の演習。参加者が一人増えた(社会科学部の大学院のM1のY君)。慶応の院生のIさんが今日は欠席だったので、私を含めて参加者全員(8名)男性である。私の担当科目の中で唯一の男性優勢の授業である。ハードボイルドな展開が期待できるかもしれない?! 5限は休憩時間。昼食を取り損ねていたので、メルシーに行ってチャーシュー麺を食べる。6限の「社会と文化」は定刻より5分早く教室に入ってしまった(研究室の時計が進んでいたのである)。当然、まだ学生たちはそろっていない。かといって研究室に戻るほどの時間ではないので、来ている学生たちに前回の授業のノートを見せてもらって時間を潰す。なんだかスカスカのノートが多い。私が板書したことしかノートに書いていないせいだろう。これはノートとしては原始的レベルである。板書したこと=重要なこと、ではない。少なくとも、板書したことだけが重要なことではない。板書の時間を惜しんで喋っていることの中に重要なことが含まれている場合も多いのだ。その辺の嗅覚を鍛えてほしいと思う。
9時、帰宅。風呂を浴びてから、明太子でお茶漬け。昼食が遅かったので今日の夕食はこれで済ます。デザートにハーゲンダッツのアイスクリーム(チーズケーキ)。でも、一番好きなのはラムレーズン。