文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚ーブルース154『Negro Songs Of Protest』

2022年12月14日 | わたしのレコード棚
 古いレコードを聴き直していて、興味深いことに気づいたので書いておこう。

 下の写真は、ROUNDERレーベルのLP4004『Negro songs of protest』の表と裏。



 写真の右上でオープンテープデッキを操作しているLawrence Gellert(ローレンス・ゲラート)という人が、1933年から1937年にかけてサウスカロライナやジョージアでフィールド録音した「民間伝承された黒人の(抵抗)歌」を集めた名盤。この中に『On a Monday』という歌が収められている。その歌詞の冒頭のフレーズと拙訳。

『On a Monday』
It was on a Monday (月曜日・・)
A Monday I was arrested, yes lord (月曜日に逮捕されてしまったんだよ、神様)
And a Tuesday (そして、火曜日・・)
A Tuesday I was trialed, mmmm hmmm (火曜日には裁判にかけられちまった)
And on a Wednesday (そして、水曜日・・)
A Wednesday I got my long sentence, good god  (水曜日には長い長い刑期を言い渡されたよ、神様)
And on a Thursday (そして、木曜日・・)
A Thursday I was Raleigh, bound (木曜日にはローリーの州刑務所行きさ)
・・・・

 この歌が、奴隷制時代のものならば「逮捕」されたのは所有者からの逃亡だったかもしれず、あるいは、公民権確立以前のものなので「白人専用施設」を使ったためだったかもしれず・・要は現在では犯罪にならなかった理不尽な理由で捕まったことを示唆しているように感じる。このことを踏まえた上で、モダンブルースのスタンダードとも言える、T ・ボーン・ウォーカーの『STORMY MONDAY 』の歌詞と比較してみたい。

『STORMY MONDAY』
They called it stormy Monday (月曜日は嵐の中にいるような気分だ、と人は言う)
but Tuesday is as just as bad (でも、火曜も同じようなもんだ)
They called it stormy Monday (月曜日は嵐の中にいるような気分)
but Tuesday is as just as bad (でも、火曜も同じようなもんさ)
Wednesday is worst (水曜日は最悪で)
and Thursday's so sad (木曜はとても哀しい気分だ)

The eagle flies on Friday (金曜に給料をもらい)
Saturday I'll go out to play (それを持って土曜に遊びに出かける)
The eagle flies on Friday (週末に給料をもらって)
Saturday I'll go out to play (それを持って土曜に遊びに出かけるんだ)
Sunday I'll go to church  (日曜には教会に行って)
and I'll kneel down to pray (膝をおって祈る)

Lord have mercy, Lord have mercy on me (慈悲深い神様、お願いします)
Lord have mercy, My life is in misery (俺は気分が沈んで苦しんでます)
You know I'm crazy 'bout my baby (彼女がいなくなって、心がおかしくなりそうです)
Lord, please send my baby back on to me (神様、彼女を戻してください)

 こちらも拙訳で、簡単な意訳を付けておいたが、金曜の歌詞に出てくるThe eagle イーグル(鷲)は米ドル札に描かれている図柄で、給料が週払いのアメリカで週末に給料をもらったことを意味している。

 『ストーミー マンデー』はブルースセッションでやる人も多く、ジャズの要素を盛り込んだコード進行は「ストマン進行」とも呼ばれ、エレキギターでモダンブルースを演奏する人には必須とも言える曲になっている。しかし、そんなモダンな曲も、歴史的な背景があったのだと感じざるを得なかった。特に、詩の内容が時代の変遷とともに「世俗的」になっている。それが良いか悪いか、は置くとして、歌詞の背景を知っておくことも悪くはないだろう。

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わたしのレコード棚ー新内、岡本文弥

2021年12月23日 | わたしのレコード棚
 一度だけだが、岡本文弥(ぶんや)師匠の新内を生で聴いたことがある。1995年8月、東京の「お江戸日本橋亭」で、師匠100歳の時だった。翌1996年10月6日には101歳で亡くなられている。なので今思えば、極めて貴重な公演に接することが出来た、と感じている。下の画像は、その時のプログラム。さらに、CDや本も会場で買い求めたもの。

 師匠は、さすがに足腰は大分弱っているように見受けられた。が、声は豊かでハリがあり、若い弟子よりも格段にレベルが高かった。何か、人間の可能性のすごさを感じた。自分にはとても真似できない、というのが正直なところだ。が、少しでも近づきたい、とは思う。


 テイチクレコードのCDでTECY-30029。1990年頃の録音と思われる。民話に題材をとった『鶴女房(23分40秒)』と、三遊亭円朝作「真景累が淵」を題材に富元により歌われる『富元豊志賀(25分10秒)』を収録。
 「語りもの」と呼ばれる芸は、いろいろ流派があるが「豊後節」という浄瑠璃から派生している親類のようなものらしい。「新内」もその中のひとつ。古典落語に「常磐津のお師匠さん」とか「清元のお師匠さん」というがよく出てくるが、それらも節回しの違う親類という。残念ながら、わたしは詳しいことは知らず、節を聞いてそれが常磐津なのか富本なのか清元なのか、はたまた新内なのかを聴き分けることはできない。

 CDの裏面。
 解説の中で文弥師匠が印象的な言葉を残しているので、以下に引用しておく。
「伝統芸能を後世へ伝えるためにはその芸能の正しい古風古典を勉強し、その蓄積を土台に新作品を発表普及しなければいけません。昭和の初めからそのように努力してきたのですが、世間は私をキチガイと笑い、邪道と非難しました。・・・」


 こちらは、平成7年同成社刊『新内集』。文弥師匠が、新内を学ぶ人のために制作した教則本に近いもの。本の中「こころがまえ」と題する一文から、以下に引用。
『新内は、西の義太夫と並んで「語りもの」の浄瑠璃音曲の代表です。フシと声だけを売り物にする「唄」ではない。新内の芸の正体は「心」であり「腹ハラ」であり、歌う部分も大事だけれどそれと一しょに「コトバ」(一般にはセリフとも)をおろそかにしてはなりたちません。・・』

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わたしのレコード棚ーブルース153 Sonny Boy Williamson Ⅱ

2021年11月25日 | わたしのレコード棚
 「サニーボーイ・ウィリアムソン」を名乗るブルースハープ(10穴ハーモニカ)とヴォーカルを演奏するブルースマンは二人いる。一人は既にこのブログでも取り上げたが、戦前から戦後にかけてシカゴで活躍し多くの録音を残したジョン・リー・ウィリアムソンで、1948年にシカゴで暴漢に襲われ30代半ばで亡くなっている。もう一人は、今回取り上げる南部で活動したライス・ミラー(Rice Miller)と呼ばれることが多いサニーボーイ・ウィリアムソンだ。一般には、ジョン・リー・ウィリアムソンが「サニーボーイ・ウィリアムソン#1」で、ライス・ミラーを「サニーボーイ・ウィリアムソン#2」と区別して呼んでいる。ライス・ミラーは、先に人気が出た#1にあやかって勝手に名前をいただいた、という説が有力だ。が、ロバート・パーマー著『ディープ・ブルース(1992年JICC出版局)』p290には、「ミラーは、自分が‟唯一のサニー・ボーイ”であり、自分より少なくとも15歳は年下のジョン・リー・ウィリアムソンは‟サニー・ボーイ”の名前を自分から盗用して、一九三七年にシカゴへ移っていったと、死ぬ日まで力説していた。」とある。今となっては真偽は分からないが、ここでは取りあえず、一般的に認知されている呼び方を採り、ライス・ミラーの方を「サニーボーイ・ウィリアムソン#2」として先に進めることにしよう。

 閑話休題・・以前、セッションに来てブルースハープを吹いていた若い人に「パーピストでは誰が好き?」と聞いたらサニーボーイ・ウィリアムソンとの答えだった。なので、「#1か#2、どっち」かと尋ねたら、#1の存在そのものを知らなかった。今では、「サニーボーイ・ウィリアムソン」と言えば#2の方で、ジョン・リー・ウィリアムソンの存在は忘れられようとしているようだ。しかし「好いプレーヤーになりたかったら歴史的な名演奏を聴き込まないとダメだろう」と、言いたい・・・けど、「うるさいジジイ」がいると思われて来なくなると困るので、我慢している。

 さて、そのサニーボーイ・ウィリアムソン(#2) Sonny Boy WilliamsonⅡだが、生年について多くの説があり特定できない。ヨーロッパツアーの時、 Sonny Boy Williamson名でのパスポートに1909/4/7と書かれていたらしく、それを採る解説書もある。が、実際はそれよりかなり前だったという説が有力だ。下のLP裏面のポール・オリバーによる解説は1899/12/5で、生地はミシシッピ州グレンドーラ(Glendora)としている。また、P-VINEのCDの小出斉氏による解説は1897/12/5で場所はやはりグレンドーラとしている。いずれにしろ、ウィリアムソン#2の方が#1よりもかなり年上だったことは間違いなさそうだ。亡くなったのは、1965年5月25日アーカンソー州ヘレナだった。
 このウィリアムソン#2は、ライス・ミラー(Rice Miller)というのもニックネームで、本名はアレック・ミラー(Aleck Miller)だった説が有力だ。それにしても、パスポートに芸名やいい加減にサバを読んだ歳を記載できるものなのかねえ。その辺りが、不可解なところ。

 この人を紹介する上で忘れることが出来ないのは、キングビスケット・タイム(Kingbiscuit Time)というヘレナのラジオ局KFFAで1941年から放送された番組だ。月曜から金曜の昼12時15分から15分間、自分のバンドをバックに生演奏を放送した。当時、南部ではかなりな人気番組で、「キングビスケット」という小麦粉?の商品もかなり売れたという。人気があった割には録音をしたのは遅く、1951年にそのキングビスケット・タイムで演奏した自分のバンドを率いて「トランペット」というローカルのレーベルに行ったのが最初だ。下のLPがその時のもので、アーホーリー・レーベルから再発されたARHOOLIE2020。


 サニーボーイは、この時すでに50歳は過ぎていたことになるが、声に張りがあり、自分のバンドとの息も合って、ハーモニカ・ブルースの歴史的録音と言える。特に、ギタ-のウィリー・ウィルキンス(Willie Wilkins)はジャズの要素を取り込んで巧みに演奏しており、聴きごたえがある。ジャケット写真のマイクの前に置かれている小麦粉袋が「キングビスケット」。


 ジャケット裏面。左上の写真に写っているのは、ギターがヒューストン・スタックハウスでドラムスがペック・カーチス。1965年にサニーボーイが亡くなる少し前のものだという。晩年のキングビスケット・タイムのバンドメンバーということになり、放送は25年近く続いたことになる。

 主な活動場所をシカゴに移した時期もあったが、サニーボーイは南部で長く演奏した人だった。が、その演奏スタイルはモダンで、後のシカゴブルースのハーピスト達に与えた影響は、シカゴで活躍したジョン・リー・ウィリアムソンよりも大きいように感じられる。特に、ハーモニカにヴォーカルを絡めるタイミングは絶妙で、好き嫌いは別にして素朴な感じがする#1よりもバンド演奏には向いていたスタイルと言えるかもしれない。


 こちらは、P-VINEのCD1604『ダウン・アンド・アウト・ブルース』。チェッカー・レーベルに残した、1955年から1963年の24曲を収録。当時、シカゴで活躍したブルースマン達をバックにした演奏は、上のLP とは違った味わいがあり、聴きごたえ十分。特に、ロバート・ロックウッド・ジュニアとの絡みは素晴らしい。

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わたしのレコード棚ーブルース152 Albert Collins

2021年09月22日 | わたしのレコード棚
 1988年7月、東京の日比谷野外音楽堂。やっと梅雨が明けて、蒸し暑かった日と記憶している。「ジャパン・ブルース・カーニバル」の最後に出てきたのが、アルバート・コリンズと彼のバンドだった。コリンズが登場して、最初のフレーズを弾いただけで、聴衆は総立ち。異様な雰囲気に包まれたのを、よく覚えている。

 生まれは、1932年10月1日テキサス州レオナ(Leona)。亡くなったのは、1993年11月24日ネバダ州のラスベガスだった。ライトニン・ホプキンスが母方の親戚だったと言われ、資料によっては従兄弟としているものもある。育ったのはヒューストンで、最初にバンドを組んだのは1952年。20代前半にはセッションギタリストとしてレコーディング活動を始め、その後は様々な地方のレーベルにレコーディングしている。
 1966年にカンザスシティーに移動しているが、主な活動はヒューストンだった。1969年、ロサンゼルスのIMPERIAL(インペリアル)レーベルからコンタクトがあり、西海岸へ移動しアルバムを制作している。1972年にインペリアルを離れTUMBLEWEEDレーベルへ移るが、アルバムを1枚出しただけで、1977年にアリゲーターと契約するまではレコーディングの機会に恵まれなかった。アリゲーターでは、1987年までの10年間に多くのアルバムを制作し、大きな賞もとっている。

 この人は、テレキャスターを使い、オープンF マイナーでチューニングする。特異なチューニングと言われる。モダンブルースでオープンチューニングを使う人は、スライド奏法で弾くプレーヤーを除き、確かに珍しい。思いつくところでは、ロニー・ジョンソンが5弦と6弦を1音下げるドロップGというチューニングを使うが、ジョンソンはジャズ系のプレーヤーでコリンズとはスタイルがかなり異なっている。一方で古いカントリーブルースでは、スキップ・ジェイムスなどのベントニアスタイルで4弦と5弦を一音上げるオープンEマイナーチューニングを使う。さらにそれを全体に半音上げてチューニングすれば、オープンF マイナーになるわけだ。つまり、伝統的な変則的チューニングをさらに進化させた、と言えないこともない。テレキャスターは高音の抜けが良いエッジの効いた音が出せるが、このF マイナーチューニングにより、さらに「氷を割る(Ice Pickin')ような切れ味の鋭い」独特なサウンドが出る。リードを取る時には、ほぼ1弦から3弦のみを使っていたと言われている。サステインの効いた8ビート系のロックのノリに近いブルースは好き嫌いの分かれるところだが、ブルースロックに対する影響力は大きい。

 ギターを弾く人なら、このチューニングでキイを変えるときはどうするのか、という疑問を持つだろう。カポタストを使うのだ。例えば、E の曲では11フレットにカポを付けることになる。普通なら、この方法ではリードパターンが決まってしまい、つまりワンパターンに陥りやすいが、そうならないのがこの人のすごいところ。


 アリゲーターからの1枚目のアルバム『Ice Pickin'』ALCD4713。これはLPをそのままCD化したもので、8曲を収録。1977年頃の録音と思われる。

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わたしのレコード棚ーブルース151 Pinetop Perkins

2021年09月15日 | わたしのレコード棚
 ピアニスト・ヴォーカリストのパイントップ・パーキンス(Pinetop Perkins)は本名ジョー・ウィリー・パーキンス(Jo Willie Perkins)、1913年7月7日ミシシッピ州ベルゾーニ(Belzoni)に生まれ、2011年3月21日にテキサス州オースチンで亡くなっている。晩年まで演奏を続け、97歳で自然死したと言われている。ミュージシャンは、どうしても不規則な生活になるので体を壊しやすいが、健康を保ち天寿を全うした稀有な人だった。こういう比較が適当なのかは分からないが、何しろ、ロバート・ジョンソンが1911年の生まれなので、ほぼ同世代。そんな人が2011年まで生きて長く演奏していたのだから驚きと言うほかはない。
 パーキンスは、1904年生まれのピアニストでパイントップ・スミスの弟子にあたる。スミスは1929年に亡くなっているので、そのニックネームを貰って使ったらしい。1943年頃に、ロバート・ナイトホークに誘われて彼のバンドに参加。デルタ地方やヘレナのジュークジョイントやパーティなどで演奏。ナイトホークがシカゴに行ってからは、サニーボーイ・ウィリアムソン(ライス・ミラー)と共にヘレナのラジオ番組「キング・ビスケット・タイム」でプレイ。1940年代の終わりころにはメンフィスに移動し、1950年にサン・レコードに「Pinetop's Boogie Woogie」を吹き込んでいる。その1年後にはシカゴに移動し、60年代にシカゴの主だったブルースマンと共演。そして、1969年にマディ・ウォータースのバンドに、オーテス・スパンのあとを受けて参加する。バンドへの在籍期間は約12年で、その間にヨーロッパツアーにも参加している。我が家にパーキンスの残した録音はあまりないが、あるものだけ下に紹介しておこう。


 すでに、このブログでも紹介したL.C.ロビンソンのARHOOLIEのLP1062で、ジャケットの裏面。パーキンスはA面でピアノを弾いているが、1曲ソロを取り、すでに述べた「Pinetop's Boogie Woogie」が入っている。日常的に演奏を共にしているメンバーとのセッションで、ノリの良いブギウギピアノを演奏している。この曲は、パーキンスの師匠であるパイントップ・スミスのオリジナル。


 さらにジャケット裏面、右上の写真を大きくとったもの。録音時の1971年8月に撮影されたものだろう。右端がパーキンス。中央で担がれているのがL.C.ロビンソン。他は、当時のマディ・ウォータースのバンドメンバーで、左から二人目がドラムスのWillie Smith、右から二人目でパーキンスの肩に手をかけているのがベースのCalvin Jones。この二人は、後に1980年頃、パーキンスのオリジナルバンドに加わることになる。


 アリゲーターレーベル設立20周年記念盤オムニバスCD。パーキンスは、ブルースの名曲「Blues After Hours」を名演している。。


国内盤P-VINEのCD1804。テキサス州オースチンにあるブルース・クラブ「アントンズ」10周年を記念して、1985年7月に行われたライブアルバムのジャケットより。後ろに写っているのは、ベースのBob Strogher。

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わたしのレコード棚ーブルース150 L.C.Robinson

2021年09月09日 | わたしのレコード棚
 L.C.ロビンソンは、本名ルイス・チャールズ・ロビンソン(Louis Charles Robinson)。テキサスの人で、9歳頃からギターを始め、ブラインド・ウィリー・ジョンソンにスライド奏法を教わった、といわれている。そのジョンソンとの関係について、LPライナー・ノーツではロビンソンの「Uncle」すなわちオジにあたるとしている。しかし、ロバート・サンテリ著『The Big Book Of Blues』では、「The Brother In Law」すなわち義理の兄弟としている。が、確実なことは、分からない。
 生まれにつて、ウィキペディアは1914年5月13日、LPライナーや『The Big Book Of Blues』では1915年5月15日としている。生地については、LPライナーはテキサス州オースチン(Austin)、ウィキペディアなどは同州ブレンハム(Brenham)としている。亡くなったのは、1976年9月26日カリフォルニア州バークリー(Berkeley)だった。
 音楽的な才能に恵まれた人で、ヴォーカルやギターだけでなく、ラップスチール、ヴァイオリン、なども弾きこなすマルチプレーヤーだった。当初は、生まれ育ったテキサスでゴスペルやブルースを演奏していたが、1940年頃に西海岸へ移り、1957年頃までクラブなどで演奏していたという。生業としてクリ-ニングの仕事をしていたらしいが、1971年になってアーホーリーへの録音の機会が訪れる。下のLPがそれである。



 ARHOOLIEレーベルの1062。A面5曲は、1971年8月9日サンフランシスコでの録音。この時は、マディ・ウォータースがツアーで西海岸を回っており、マディ・ウォータースが監修し、マディのバンドメンバーがバックを務めて、1日でスタジオ録音したようだ。B面5曲は同年12月17日やはりサンフランシスコの別のスタジオで、バックをDave Alexander's trioに換えて録音されている。メンバーは、ピアノにDavid Alexander,、ベースにWilliam Hyatt、ドラムスにTeddy Winstonという編成。
 ブルースでヴァイオリンを使う人は少ないが、居ることはいる。古いところでは、ミシシッピー・シークスのロニー・チャットマン、あるいはサウス・メンフィス・ジャグバンドなどで活躍したウィル・バッツなど。二人とも情操の富んだ、メロディックな音使いだった。比較的新しいところで名前を挙げると、ゲイトマウス・ブラウンだが、この人はブルースに限らない多様な音楽が出来る人で、ヴァイオリンを使うときはどちらかというとテキサスやルイジアナの風土に根差した音楽を演奏するときだった。それに比してロビンソンは、エッジの効いたシティブルースをヴァイオリンで演奏している。その点では稀有な人だった。


 LP裏面。右上の写真、中央で担がれているのがロビンソンで、他はマディのバンドメンバーと思われる。左から3人目がハーモニカのチャーリ・マッセルホワイト。右端で帽子をかぶっているのがピアノのパイントップ・パーキンスだろうか。他のメンバーは写真に写っているのが誰かは特定できない。が、名前を挙げておくと、ギターがJames MadisonとSamuel Lawhorn、ベースがCalvin Jones、ドラムスがWillienSmith、となっている。A面3曲目で、パイントップ・パーキンスがご機嫌なブギウギ・ピアノを聴かせてくれている。そのパーキンスについては、ページを改めて書くことにする。

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わたしのレコード棚ーブルース149 Jukeboy Bonner

2021年08月29日 | わたしのレコード棚
 ジュークボーイ・ボナー(Jukeboy Bonner)は、本名ウェルダン・フィリップ・ボナー(Weldon Philip Bonner)。1932年3月22日テキサス州ベルヴィル(Bellville)に生まれ、1978年6月28日同州ヒューストンで亡くなっている。日本ではほとんど知られていないブルースマンだが、演奏実績はあり、録音も少なくない。
 この人は器用な人で、ギターやヴォーカルはもちろんのこと、ハーモニカやドラムスまで演奏出来た。時に、一人でそれらをこなして、ワンマンバンドで演奏したという。ギターは、12歳の頃から独学で習得し、若い頃からジュークジョイントで演奏していたので「ジュークボーイ」というニックネームが付いたと言われる。1948年、ヒューストンのラジオ局KLEEのコンテストで優勝し、その後はブルースクラブやハウスパーティでも演奏した。
 1954年にカリフォルニアに移り「IRMA」というレーベルに吹き込みをしたが、これはリリースされなかった。3年後には再びテキサスに戻り、1963年に胃潰瘍で手術を受け、胃の半分ほどを切ったという。’63年と言えば、公民権運動が高まりワシントン大行進があった頃だ。その頃のアメリカ南部で、黒人の胃の手術は稀有なことだったろう。何しろ、黒人の受け入れを拒否する病院、あるいはホテルも多かった頃だ。保険制度の無いアメリカでは、かなりな出費もかかることになる。資料によると、この人はヒューストンの養鶏場で働いていたとあり、あるいは生活は安定していたのかもしれない。
 1967年以降は、アーホーリーなどに録音。大きなブルースフェスティヴァルに出たり、ヨーロッパツアーに参加したりしている。酒飲みだったのか、肝硬変により46歳の若さで亡くなっている。


 1972年頃の録音で、GNPクレシェンドというレーベルのLP10015。SONETというスウェーデンのレーベルが原盤。ライナーノーツは、サミュエル・チャータース。
 ジャケットの写真では、ハーモニカをホルダーにかけて構えている。このように、ギターを弾きながらハーモニカを演奏する人は多いが、ボナーのすごいのは喉を使ってビブラートをかけてハープを吹けるところだ。それがまた、ごく自然に聞こえ、まるでハーピストが別にいるようにさえ感じる。そして、言葉も豊富だ。写真ではエレキギターをかまえているが、音を聞いた感じでは録音にアコースティックギターを使っているようだ。さらに、その内の数曲は12弦のようにも聞こえる。ボナーはワンマンバンドで演奏できたというが、残念ながらこのアルバムでは、ドラムスなどの打楽器は入っていない。


 アレックス・ムーアのLPのジャケット裏にある、1969年のヨーロッパツアー時の写真。
 後方左から、アール・フッカー、クリーヴランド・シェニエ、マジックサム、キャーリー・ベル、ジョン・ジャクソン、ロバート St ジュディ。そして下段、左端で跪いて横顔しか見えないがジューク・ボーイ・ボナー、続いてクリフトン・シェニエ、マック・トンプソン、中腰で微笑んでいるのがアレックス・ムーア。素晴らしいメンバー、と言うほかはない。

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わたしのレコード棚ーブルース148 Hound Dog Taylor

2021年08月22日 | わたしのレコード棚
 ハウンド・ドッグ・テイラー(Hound Dog Taylor)は、本名セオドア・ルーズベルト・テイラー(Theodore Roosevelt Taylor)。1917年4月12日にミシシッピ州ナッチェス(Natchez)で生まれ、1975年12月17日にシカゴで亡くなっている。ハウス・ロッカーズ(The House Rockers)を率いて、エレキギターでスライド奏法によるエッジの効いたオーバードライブに近いサウンドと、あまりうまいとは言えないが特徴のある声でロックに近いノリで歌うブルースマンだった。
 ハウス・ロッカーズは、テイラーの他に、ギターのブリューワー・フィリップス(Brewer Phillips)、ドラムスのテッド・ハーヴェイ(Ted Harvey)の二人。テイラーの音楽は、あくまでこの2人と共に作り上げられている。ラフな音のようにも聞こえるが、3人の演奏はコントロールされており、リズムのアクセントポイントは一致している。この二人がいなければ、おそらくテイラーはただの場末のギタリストに過ぎなかっただろう。それほど、息が合っているように聴こえる。
 バンドの中にベースはいないが、ブリューワー・フィリップスが巧みにベースラインを弾いて全体を引き締めている。わたしの聞いた限りでは、フィリップスはギターの調弦を全体に1音下げているようだ。少なくとも低音弦側は下げていると感じる。テイラーの演奏はオープンDが多いので、それに合わせるためにも6弦をDに落とすと演奏しやすいこともあるだろう。
 一口にブルースと言っても、ブルースマンにより微妙にリズムアクセントの位置が異なるものだ。その微妙なズレが自然な揺らぎとなり、味わいともなるのだが、時には乱雑で収拾のつかない音楽に陥ってしまうことにもなる。まあ、それはそれとして、1917年の生まれなのにテイラーの音楽は今聞いても後のハードロックに通じるようで、新鮮味があるものに聞こえる。マディ・ウォータースが1915年生まれなので、テイラーとほぼ同世代。しかし、残された録音で比較するとアンプの使い方などに、時代を先取りしていたものを感じる。ちなみに、エルモア・ジェイムスの曲を多く取り上げているのでフォロワーのようにいわれることもあるテイラーだが、エルモアは1918年生まれなのでテイラーの方が1歳年上だ。ただエルモアは1963年に45歳で亡くなっており、テイラーが本格的なアルバムを出した1971年までにエルモアのナンバーを自分なりのスタイルに組み込んでいった、というところだろう。


 アリゲーター原盤のLP、AL4701で、日本ではアトラスレーベルから歌詞カードなどが付いてLA23-3015として出ていた。1971年と1973年のシカゴ録音10曲。下の画像はジャケット裏面。後述するブルース・イグロアによるLP内の解説によると、テイラーの使っているギターは「日本製超安物」で、スライドバーは「キッチンのイスの足で作ったもの」だったという。写真だけでギターの判別はできないが、テスコのようにも見える。

 写真のように、テイラーはいつも座って演奏し、ブリューワー・フィリップスは立って動きながら演奏していたという。


 同じくアリゲーター原盤のLP、AL4704。アトラスLA23-3003、高地明氏の解説が付いている。その解説には「・・恐らく1973年の終わり頃にレコーディングされた、テイラーのセカンドアルバム・・」とある。

 同裏面。1975年にテイラーが58歳でガンにより亡くなった後のハウス・ロッカーズのメンバー2人は、それぞれシカゴのブルースシーンでセッションマンとして活動した。若い頃メンフィス・ミニーにギターを教わった事もあるというセカンドギターのブリューワー・フィリップスは1999年8月30日74歳で、ドラムスのテッド・ハーヴェイは2016年10月6日85歳で、共にシカゴで亡くなっている。

 そしてもう一人、ハウス・ロッカーズを語る上で忘れることが出来ない人がいる。それは、アリゲーター(Alligator)レーベルの設立者であるブルース・イグロア(Bruce Iglauer)である。

 日本では、キングレコードから出た2枚組CDで、KICP2394/5。1971年から1991年までのアリゲーターに録音された様々なミュージシャンの代表曲を20周年記念盤として発売されたもの。全35曲を収録。この中にイグノアが1991年1月に書いた「アリゲーター物語」と題する小冊子(鈴木啓志訳)が解説を兼ねて入っている。以下に、簡単な要約を載せておく。
『・・田舎者の一人の白人の少年がシンシナティの郊外からやってきてハウンド・ドッグ・テイラー、ブリューワー・フィリップス、テッド・ハーヴェイの3人を聞き、「よしレコーディングしなきゃ」と思い立った時こそ、フローレンスでアリゲーター・レコードが出来た時といっていいのかもしれない。・・私は彼らを愛し、レーベルを始めた。・・』。文中の「フローレンス」とは、シカゴのサウスサイドにあったブルースクラブの名前。イグノアは1947年ミシガン州生まれなので、アリゲーター設立時には20代半ばだった事になる。

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わたしのレコード棚ーブルース147 Memphis Slim

2021年08月11日 | わたしのレコード棚
 ピアニスト・ヴォーカリストのメンフィス・スリム(Memphis Slim)は、1915年9月分3日にテネシー州メンフィスで生まれ、1988年2月24日にフランスのパリで亡くなっている。1940年にOkehレーベルに録音した際にピーター・チャットマン(Peter Chatman)の名を使ったので、下のLPライナーノーツや複数の資料で、本名をピーター・チャットマン(Peter Chatman)としている。しかし、この名は本来彼の父の名で、ジョン・レン・チャットマン(John Len Chatman)が戸籍上の本名らしい。彼の父は、ピアノはもちろんギターも弾き、ジュークジョイントの経営もしていたという。なので、敬愛するこの父の名を録音時などで使ったらしい。

 余談だが、チャットマン(Chatman)というファミリーネーム(姓)からは、どうしてもミシシッピー・シークスの主な構成員だったチャットマンファミリーを思い浮かべる。あるいは、何らかの血縁があるのだろうか。いくつかの資料を当たってみたが、その点は分からなかった。

 スリムはメンフィスで生まれ育っているので、時にビールストリートにあったクラブなどで働き、そこでプレイしていたピアニスト達の演奏スタイルを見聞きして習得していったらしい。シカゴに出たのは、1939年頃のことというから、20代半ばだった事になる。シカゴでは、すぐにレコーディングの機会に恵まれ、すでに述べたようにピーター・チャットマンの名でOkehレーベルに吹き込む。その後は、ビッグ・ビル・ブルーンジーの相棒だったピアニストのジョッシュ・アルタイマー(Josh Altheimer)が1940年に亡くなったので、そのあとを受け継ぎメンフィス・スリムの名で1944年頃までブルーンジーと活動している。

 名曲『Everyday I Have The Blues』を書いたのは1955年で、1962年にはパリに移住する。’62年に「American Folk Blues Festival」ツアーの1員としてヨーロッパを訪れており、ヨーロッパでもピアニストとして生きていけると感じたらしい。事実、ヨーロッパでもパリを拠点に演奏・録音を続け、1988年にパリで亡くなっている。

 我が家にはスリムの写真が無かったので、ネットから拝借してきた1枚。

 スリムはセッションマンとして様々な録音に参加しているので、バッキングをつとめているレコードが我が家には多い。が、主たるヴォーカルを取っているものは結構少ない。以下に、その中から主だったものを載せておこう。


 ソニーレコードから出ていたCD、5679。このオムニバスCDの中に、ピーター・チャットマン&ヒズ・ウォッシュボード・バンド名義で1940年シカゴ録音の「Diggin' My Potatoes No.2」という曲が入っている。Okeh原盤で、スリムはピアノとヴォーカルで、ウォッシュボードはウォッシュボード・サム。これが、最初の録音と思われる。解説はデイビット・エヴァンスで、国内盤なので歌詞や対訳も付いている。曲名を直訳すれば「ジャガイモ掘り」となるだろうが、性的な意味が隠された隠語だろう。


 これが、1962年のヨーロッパツアー「American Folk Blues Festival '62」時、ハンブルグでのライブ録音LP。ドイツのレーベルLR RECORDSの42.017。Tボーン・ウォーカーのバッキングやウィリー・ディクソンとの息の合ったデュエットが聴きどころ。


 ウィリー・ディクソンの項でも紹介したBluesvilleレーベルのLP1003。ヴォーカルをとっているのは全てジャケット写真のディクソンで、スリムはバックでピアノを弾くことに徹している。ジャケットには詳しいレコーディング・データは書かれていないが、他の資料では1960年頃にシカゴで録音されたものとしている。つまりヨーロッパ移住の数年前に録音されたもの、となる。けっこう繊細さを持った演奏で、それがヨーロッパでは受け入れられていったのかもしれない。

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わたしのレコード棚ーブルース146 BLUE LADIES

2021年08月09日 | わたしのレコード棚
 ブルースの隠れた名盤を1枚紹介しておこう。オーストリアのDOCUMENTレーベルのCD 5327『BLUE LADIES 1934-1941』。



 女性ボーカリスト6人が、1934年から1941年までに録音した曲を集めたオムニバスCDになる。その頃に、シカゴのクラブなどで歌っていた女性達の中から、「ARC」「ヴォキャリオン」「ブルーバード」といったレーベルのスカウトたちの目に留まった女性ヴォーカリストに、実力のある演奏者をバックを付けて録音したものと思われる。時代はヨーロッパでナチスドイツが台頭してきた頃から世界大戦にまで戦火が広がる頃で、当時のシカゴのミュージック・シーンを感じ取れる貴重な録音と言える。

CDに入っているのは以下の6人で、インターネット等でも調べてみたが、いずれも詳しい事跡は分からない。
◎アイリーン・サンダース(Irene Sanders)、1934年10月シカゴ録音3曲。
◎ステラ・ジョンソン(Stella Jhonson)、1936年9月シカゴ録音2曲・同10月1曲。
◎ロレイン・ウォルトン(Lorraine Walton)、1938年2月シカゴ録音2曲、同年3月イリノイ州オーロラ録音4曲。
◎ハッティー・ボルテン(Hattie Bolten)、1938年5月シカゴ録音5曲。
◎ミニー・マシューズ(Minnie Mathes)、1938年9月シカゴ録音3曲。
◎カンザス・ケイティー(Kansas Katie)、1941年12月シカゴ録音4曲。

 副題では「The Complete Recorded Works ・・」となっているので、これらが現在確認できる、彼女たちの残した全ての録音になると思われる。いずれも、ブルースのコード進行に沿った曲をアレンジして歌っている。
 ギターのビッグ・ビル・ブルーンジーやジョージ・バーンズ、ピアノのブラック・ボブやブラインド・ジョン・デイヴィスさらにはメンフィス・スリムなど、いずれも当時シカゴで演奏していたトップミュージシャンがバックを務めている。バッキングを聴くだけでも、かなり聴きごたえがあり、楽器を演奏する者にとっては勉強にもなる。特にブルーンジーは、ブルースのセッションにおける「お手本」とも言うべき演奏を聴かせてくれている。シンプルだが、気負いのない演奏は素晴らしい。

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わたしのレコード棚ーブルース145 Eddie Boyd

2021年08月02日 | わたしのレコード棚
 今ではブルースのスタンダードになっていて、多くのブルースマンが取り上げる『Five Long Years』という曲がある。1952年にR&B部門ヒットチャートで1位になったが、それを作ったのがピアノとヴォーカルのエディ・ボイド(Eddie Boyd)だった。
 生まれは、1914年11月25日ミシシッピ州クラークスデイル。1936年というから、22歳の頃にメンフィスに移動。ピアノは独学で習得し、5年間ほどメンフィスのクラブなどでプレイした後、1941年にシカゴへ出た。シカゴでは、ジョニー・シャインズ、サニーボーイ・ウィリアムソン#1、さらにはマディ・ウォータースなどと共演を重ねた。1965年にアメリカン・フォークブルース・フェスシバルでヨーロッパツアーに参加。そこでの待遇が良かったためか、1960年代後半にヨーロッパに移住する。当初はパリに住んでいたが、1971年にフィンランドのヘルシンキに移り、そこで1994年7月13日に亡くなっている。

 ヨーロッパではピアニストの需要があったらしく、ブルース系のピアニストでヨーロッパに移住した人は少なくない。メンフィス・スリムは、1962年にパリに移住し、その地で1988年に亡くなっている。さらに、チャンピオン・ジャック・デュプリーはヨーロッパに移住し、ドイツのハノーヴァーで1992年に亡くなっている。スリムは1915年生まれで、ボイドとほぼ同い年。デュプリーは1909年生まれなので、ボイドより5歳ほど年長だが、同世代と言えるだろう。その世代の過ごしたアメリカは、たとえ北部のシカゴでも、黒人の生活する環境は厳しいものであったことを、これらのブルースマン達のヨーロッパ移住は物語っている。


 カリフォルニアのGNP CrescendoというレーベルのLPでGNPS-10020。原盤はスウェーデンのSonetというレーベルから1976年頃に出たものらしい。レコーディングデータは書かれていないが、「ヨーロッパ・スタジオ」録音と記載されているおり、別の資料には1973年の録音と記載されている。プロデューサー及びライナーノーツはサミュエル・チャータース。バンド形式の録音で、ギター、ハーモニカ、テナーサックス、ベース、ドラムス、などが加わっている。特に、ギターとハーモニカそしてバック・ヴォーカルをつとめているPeps Perssonという人が好サポートしている。


 サニーボーイ・ウィリアムソン#1のCDで、DOCUMENTレーベルの5059。1947年シカゴでの録音4曲でボイドがピアノを担当している。ここでボイドは、ジャズの雰囲気を持った、なかなかにモダンなピアノを弾いている。それが、サニーボーイ・ウィリアムソン#1のストレートなブルースハープとうまく絡み合い、アコースティックなモダンブルースを作り上げている。ウィリアムソンは、この翌年1948年6月に暴漢に襲われて亡くなっている。なので、この録音くらいがアコースティックな響きを尊重した最後のシカゴブルース、とも言える。これ以降は、エッジのきいたエレキギターが前面に出てくるようになり、ハーピストもハーモニカにマイクを付けて手に持ちアンプリファイドするのが標準になってゆく。ウィリアムソンはクラブでの演奏終了後、帰宅途中に殺されたが、その日はボイドが共演しており、仲間が無残な殺され方をしたのを目の当たりにしたらしい。上のLP解説の中で、この事件の20年後にボイドがヨーロッパに移住したのは、共にプレイした仲間が不条理な死に方をしたのを目にしたのが一因ではないか、とチャータースは指摘している。


 VANGUARDレーベルの2枚組CDで、1960年代に行われたニューポート・フォークフェスティヴァルからのライブ録音。ここでボイドは1曲だけだが、ベースのウィリー・ディクソンと共に『Five Long Years』を演奏している。ディクソンはその実力を存分に発揮し、息の合った演奏になっていて、わたしの好きな録音。歌詞の一部を拙訳を付けて載せておこう。

I got a job in a steel mill chucking steel like a slave(製鋼所で仕事を見つけ、奴隷のように鉄を叩き続けた)
For five long years ever Friday(5年もの間、週末に・・)
I went straight home with all my money(稼いだ金を持って、真っ直ぐ家に帰った)

I worked five long years for one woman (一人の女のために 5年も働いたんだぜ)
And she had the nerve to put me out (それでも あいつは癇癪おこして 俺を追い出しやがった)

 ちなみにボイドはシカゴへ出てきた頃、音楽だけでは生活できず、実際に製鋼所で働いていたという。あるいは、この歌詞に近いことが、ボイドかあるいは彼の周辺に現実にあったのかもしれない。良い音楽は、現実の中から生まれるものだ。

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わたしのレコード棚ーブルース144 Professor Longhair

2021年07月26日 | わたしのレコード棚
 ルイジアナのピアニスト・ヴォーカリストと言えば、まず思い浮かべるのがこの人プロフェッサー・ロングヘア―(Professor Longhair)。芸名を直訳すれば「長髪教授」となるだろうが、本名はHenry Roeland Byrd。生まれは1918年12月19日ルイジアナ州ボガルーサ(Bogalusa)で、亡くなったのは1980年1月30日同州ニューオリンズだった。若い頃は本名を覚えてもらえず、かなりの長髪だったためか「ロングヘア」というニックネームで呼ばれ、それをそのまま芸名にしたらしい。
 LPやCDの解説等を参照してまとめると、生後すぐにニューオリンズへ移動し、その後は一時期ボクシングの選手をしたりしたが、ニューオリンズで様々なミュージシャンと影響を受けあいながら自分の音楽を作り上げていった。例により、戦後は不遇な時期を過ごしギャンブラーなどをしていたとも言うが、ブルース・リヴァイバルで人気が再び出て、各地のコンサートやフェスティヴァルに出演した。

 ニューオリンズと言えば、やはりボクサーをしていたピアニストのチャンピオン・ジャック・デュプリーを思い浮かべるが、二人は共に活動をしていたこともあるという。その後、デュプリーはヨーロッパに拠点を移し、リロイ・カーなどシカゴのピアニストに影響を受けた演奏をしている。それに比べロングヘアーは、ルイジアナで生涯を過ごし、「ファンクビート」と呼ばれるようなラテン系のノリを持った演奏で聴衆を沸かせた。
 ルイジアナと言えばもとはフランス領で、ルイ14世にちなんだ地名。地理的にも、カリブ海やラテン諸国にも関係が深く、フランス文化と黒人文化、ラテン系文化が融合している。その融合を「Gumboガンボ」と言っている。ガンボというのは、本来、いろいろなスパイスを混ぜ込んだルイジアナのスープのことで、沖縄の「チャンプルー」という言葉が近いかもしれない。広く「ごちゃ混ぜ」という意味でも使われる。
 音楽的にも、Zydeco(ザディコ又はザイディコ)やCajun(ケイジャン)といった独特のものがある。ロングヘアも、それらを巧みに取り込んでいて、ブルースという枠にとどまらない、多様性を持ったミュージシャンだった。それについて、ロバート・サンテリは『The Big Book Of Blues』P334プロフェッサー・ロングヘア―の項で、次のように書いている「‥a spicy rhythmic gumbo of blues, jazz, calypso, ragtime, and zydeco, ‥(ブルース、ジャズ、カリプソ、ラグタイム、そしてザディコなどというリズムのスパイスを混ぜ込んだガンボ)」。さすがにうまいことを言うもんだ。


 アトランティックレ-ベル原盤7225で、国内盤はワーナーパイオニアから出ていた4582。1949年と1953年の、初期の録音13曲を収録。故中村とうよう氏の解説が付いている。アトランティックは、後にレイ・チャールズで成功するが、ニューヨークを拠点としたR&B中心のレーベルだ。その為か、このアルバムも、どちらかと言うとブルースやブギウギを前面に出しているように感じられる。バックのホーンやドラムスも好演していて、聴きやすく、好盤と言える。


 FUELというレーベルのCD302 061 1742。下の画像は、CDの裏面。

 ライブ盤で、1976年ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティヴァルからのライブ収録14曲。50代後半の頃の演奏ということになり、亡くなる4年ほど前だが、聴衆を引き込む力は健在。この日は選曲なども自由に出来たようで、バックのパーカッションやベースとの息もあっていて、聴いているとルイジアナのバイユー(湿地帯)にいるような気になってくる。ここに、ドクター・ジョンなどに影響を与えたとも言われる、ルイジアナピアノの原型がある。
 1曲目は「Tipitana」となっているが、これはロングヘアの代表曲のひとつでローカルヒットした「Tipitina」の誤りと思われる。3曲目の「Jambalaya」は、ハンク・ウィリアムスのヒット曲。さらに、最後の曲「Bald Head(禿げ頭)」というのは、自分のことではなく、ロングヘアが昔付き合っていたガール・フレンドのことらしい。その彼女もミュージシャンで、ステージに上がる時に照明の当たり方で髪が光り、客席から「Bald Head(禿げー)」と声が掛かったという。それが為にか、彼女はロングヘアの前から姿を消したという。

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わたしのレコード棚ーブルース143 Roosevelt Sykes

2021年07月19日 | わたしのレコード棚
 ピアノとヴォーカルのルーズベルト・サイクス(Roosevelt Sykes)は、1906年1月31日にアーカンソー州エルマー(Elmar)で生まれ、1983年7月17日にニューオリンズで亡くなっている。ただ、一部の資料では没年を1984年としているものもある。

 育ったのはアーカンソー州のヘレナ近郊で、15歳の頃からバレルハウス・スタイルのブルースをピアノで弾いたという。その後、ミズーリ州セントルイスに行き、そこでピアニストのセントルイス・ジミー・オーデン (St. Louis Jimmy Oden) に出会う。オーデンは、後にブルースのスタンダードとなる「Goin' Down Slow」の作曲者となる人で、1903年生まれ。サイクスとは歳も近く、二人は意気投合したようで、共にセントルイスを拠点としてクラブやハウスパーティなどで演奏したらしい。その後、1940年頃にはシカゴに進出し、二人は共にシカゴブルースを支えるブルースマンとなっていった。しかし、サイクスの演奏スタイルは、ある意味ではモダンなジャズにも近く、洒落たクラブの演奏には重宝されたようだが、戦後主流となっていったエレキギターを使ったモダンブルースには合わなかったようだ。その為か、彼は1954年頃にはシカゴを離れ、ジャズの本拠地のひとつとも言えるニューオリンズに移動し、時にはメンフィスやセントルイスなどにも行き、そこのクラブなどで広いレパートリーを生かして演奏を続けたようだ。

 サイクスの録音歴は長く、1929年頃にはニューヨークへ赴き、オーケー・レコード で吹き込みを行なっている。その後もデッカ・レコードや、ブルーバード・レコードと契約。他にも芸名というか変名を使って、様々なレーベルに吹き込みをしている。これは、レコード会社と契約をすると他のレーベルでは録音できなかったためで、サイクスが使った変名は、イージー・パパ・ジョンソン (Easy Papa Johnson)、ドビー・ブラッグ (Dobby Bragg)、ウィリー・ケリー (Willie Kelly) などだった。1960年代のブルースリヴァイバルでサイクスも見直され、彼にも再び録音の機会が訪れ、ヨーロッパツアーなどにも参加している。下2枚目に取り上げたストーリーヴィル・レコード (Storyville Records)のLPは、そのようにしてしてヨーロッパで録音された一枚だ。


 このブログでもすでに紹介したウォルター・デイビス(Vo)のLP、OT1213。1930年6月12日オハイオ州シンシナティのホテルでの録音3曲、及び1933年8月のシカゴ録音12曲などで、サイクスはウィリー・ケリーの名前でピアノを弾ていて、これが我が家にある彼の最も古い録音になる。


 ドイツのSTORYVILLEレーベルのLP6.23706AG。1966年10月コペンハーゲンでの録音。代表曲「44Blues」や、ブギウギナンバーなどを含む12曲を収録。
 この人のピアノは左手のタッチが抜群だ。ピアノの最低音部は左手小指で弾くことになるが、普通のピアニストでは出来ない、と感じるほどの安定感と繊細さを持っている。ブルースファンには、今一つ評価されていないが、力のあるヴォーカルと相俟ってブルースピアノの歴史の上で重要なプレーヤーの一人と、わたしは考えている。

 以下3枚の写真は、YAZOOレーベルのヴィデオ506『Out Of The Blacks Into The Blues』から、テレビ画面をデジカメで撮ったもの。撮影された年代は特定できないが、ニューオリンズのクラブで撮られていて、かなり歳を取っているようにも見えるので、シカゴを離れてからかなり後のものと思われる。演奏の合間に、ニューヨークへ録音に行ったときのことなどを語っていて、酒場の雰囲気を盛り上げるエンターテイナーとしての側面も窺(うかが)える貴重な映像。







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わたしのレコード棚ーブルース142 James "Son" Thomas

2021年07月12日 | わたしのレコード棚
 ジェームス ‟サン” トーマス(James "Son" Thomas)は、1926年10月14日ミシシッピ州イーデン(Eden)に生まれ、1993年6月26日に同州グリーンヴィル(Greenville)で亡くなっている。エレキギターを使っても、カントリーブルースの香りを残す、個性の強いブルースマンだった。
 この人はミシシッピー北部で暮らしていたようだが、若い頃はあまり注目されることはなかったようだ。それが、1960年代のブルースリヴァイバルの中で、ウィリアム・フェリス(William Ferris)というリサーチャーに1967年に見出され、その後ヨーロッパに何度もツアーするなど、世界的な演奏活動をした。40歳を過ぎて、本格的な演奏活動をした、ということになる。また、この人は造形作家でもあり、エール大学やワシントンD.Cでも塑像などの個展を開くなどしている。


 P-VainのCD2179。原盤は、ドイツのレーベルと思われる。1982年のドイツでのライブや、1980年のミシシッピーでの録音を編集してある、10トラック11曲(1トラックはメドレー)を収録。カントリーブルースのプレーヤーは、なかなかモダンブルースの曲をレパートリーに入れないものだが、この人はけっこう巧みに自分のものにして、したたかにギターを演奏し、歌っている。そこが、特筆すべきところ。


 かなり以前に、雑誌「プレイボーイ」の日本版でブルースの特集をした時に載った写真。気に入ったので、これだけ切り抜いて保存してあったもの。アコースティックギターを構えて、ポーズをとった姿が、この人らしさを表している。

 以下の写真2枚は、CBSのドキュメント番組「ブルースの故郷を訪ねて」よりの映像をデジカメで撮ったもの。1980年代に撮影されたと思われる。1990年頃、深夜に民放で放送されたものをヴィデオに撮ったように思うが、記憶があやふやで定かではない。字幕が付いていて、トーマスの話によると、彼は幼い頃貧しく、学用品を買うために写真後方に写っていいるような塑像などを作り地元イーデンの白人に売っていた、という。



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わたしのレコード棚ーブルース141 George Barns

2021年07月05日 | わたしのレコード棚
 ジョージ・バーンズ(George Barns)は、どちらかと言うとジャズのギターリストだが、初期のシカゴブルースの録音でエレクトリック・ギターを最初に使った人であり、ブルースファンとしては忘れることのできないミュージシャンの一人である。

 生まれは1921年7月17日シカゴ、亡くなったのは、1977年9月5日カリフォルニア州コンコルド(Concord)だった。父親がギタリストだったということで、9歳でアコースティックギターを手にしていたらしい。また兄が電気に詳しい人だったらしく、手作りのピックアップを作りアンプリファイドできるエレキギターを与えてくれたという。それがバーンズが10歳の頃のことというから、1931年頃にはすでにエレキギターを手にしていた事になる。そして、1938年3月にはビッグ・ビル・ブルーンジーなどと、エレキギターで録音に参加している。その時16歳だった事になる。その際、使用していたギターがどのようなものだったのかは確認できない。が、チャーリー・クリスチャンがギブソンのES-150を使って録音したのと同じ頃か、あるいはそれより少し早い可能性もある。
 まあ、それはそれとして、16歳でブルーンジーのギターと絶妙のタイミングでセッションできる素晴らしいミュージシャンだったことが重要なことだ。ブルースファンにも、もっと注目してほしい人と感じる。


 インターネットで見つけた写真。かなり年を取ってからのもののようだ。この人は当初黒人ギタリストと思われていたらしいが、実は白人で、戦後は主にスウィングジャスの世界で自らのバンドを組んで演奏したり、スタジオミュージシャンを務めていたらしい。今は、ユーチューブでそのプレイを見ることも出来る。


 ランサム・ノウリングのところでも紹介したが、オーストリアのWOLFレーベルのLP002。ハーモニカのジャズ・ジラムのLPで、1938年から49年までの15曲を収録している。この中で、1938年3月14日イリノイ州オーロラ(Aurora)でビッグ・ビル・ブルーンジーらとジラムのバック2曲をエレキギターで務めている。資料によっては、これがエレキギターを使った最初の録音、としているものもある。そのこと自体は、さして重要なこととは思えないが、ブルースのセッションだった事は意味深いことに感じる。

 しかし、この時、本当に16歳だったのかねえ?録音を聴く限り、ベテラン・ギタリストにしか思えない。この後、主にジャスの世界などでセッションマンとして生きていたようだが、本来ならばもっと注目されてしかるべき人だったように感じる。もし、彼が黒人でヴォーカルを取れる人だったら、また違った人生を歩んだのかもしれない。

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