文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚ーブルース140 Ransom Knowling

2021年06月28日 | わたしのレコード棚
 戦前から戦後にかけて、シカゴブルースを陰で支え続けた一人のベーシストがいた。名前を、ランサム・ノウリング(Ransom Knowling)という。ビッグ・ビル・ブルーンジーの録音などで、目立たないがしっかりとしたリズムと音程で全体の構成を支え続けた。単独のアルバムなどは無く、あくまでセッションマンだったので注目度は低く、CDの解説などでも取り上げられることは、ほとんどない。が、わたしは、シカゴブルースの隆盛に貢献した一人として評価されるべき人だと思っている。
 彼に関する資料は少ないが、最近は、ウィキペディアでわずかながら知ることが出来るようになってきた。それによると、生まれは、1912年6月24日ルイジアナ州ニューオリンズ。亡くなったのは、1967年10月22日シカゴだった。
 1930年頃、というから20歳前後から地元ニューオリンズのジャズバンドに参加して演奏していたという。そして、1930年代の終わりころにシカゴへ出たらしい。あくまでも「縁の下の力持ち」的な役割を担い続けた人だったようだ。演奏に派手さはないが、安心してバックを任せられるベーシストだったのだ。いそうで居ないのが、そういった地味だがしっかりとバッキングを務めてくれるミュージシャンだ。

  この人の写真は、我が家にあるLPやCD のジャケットなどには無い。なので、インターネットで探してみたのだが、そこでも見つからなかった。唯一、ポール・トリンカ著『ブルースの肖像』(1996年シンコ-・ミュージック刊)P73に、1964年ロンドンで撮影されたツアー時のバスの社内と思われる写真があった。撮影者は、ヴァル・ウィルマー(Val Wilmer)となっている。著作権を侵害しない程度に切り取って下に載せておく。


 写真向かって右、サングラスと帽子の人がランサム・ノウリング。左で、こちらを見て微笑んでいる人がブラウニー・マギー。さらに右後方、帽子を冠って、顔の右半分だけ写っているのがマディー・ウォータース。

 本来が、セッションマンなので、色々なミュージシャンとの録音を残している。全てを取り上げているとキリがないので、下にわたしの好きなLPを1枚だけとりあげておく。

 オーストリアのWOLFレーベルのLP002。ハーモニカのジャズ・ジラムのLPで、1938年から49年までの15曲を収録している。この中で、ノウリングは、1945年の2曲(この時のギタリストはビッグ・ビル・ブルーンジー)、1946年の1曲、1949年の4曲、などでベースを弾いている。録音地はいずれもシカゴ。

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わたしのレコード棚ーブルース139 James Cotton

2021年06月24日 | わたしのレコード棚
 シカゴブルースを支えたハーピスト・ヴォーカリストの一人で、後に癌を患いながらも長く演奏を続けたジェームス・コットン。この人に関しては何度も来日しているし、残された音源も多く、多くの人が語っている。わたしも2度ほど生の演奏に接しているで、その思い出などを簡潔に書いておくことにしたい。
 生まれは、1935年7月1日ミシシッピ州Tumica。少年期にKFFAラジオのブルース番組「キング・ビスケット・タイム」を聞いてアーカンソー州ヘレナまで行き、サニーボーイ・ウィリアムソン2(ライス・ミラー)に直接ブルースハープを教えてもらったりした、という。その後は、1950年頃にメンフィスへ出て、18歳でサンレコードからデビュー。1955年頃にシカゴへ出て、リトルウォルターの後任ハーピストとしてマディー・ウォータースのバンドに参加。その後は、ブルースという枠にとらわれない活動をして、様々な音楽シーンで才能を発揮した。1990年代半ばに喉頭がんを患い声を失いつつも演奏を続け、2017年3月16日にテキサス州オースチンで81歳で亡くなった。


 CHESS原盤のLP1449で、国内からP-VainがPLP-814として発売したもの。マディーウォータース・バンドが1960年7月3日に、ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した際のライブ盤。ジェームス・コットンのハーモニカ、パット・ヘアのギター、オーティス・スパンのピアノ、アンドリュー・スティーブンソンのベース、フランシス・クレイのドラムス。今となっては伝説のライブとも言え、コットンが存在感を示した記念すべき1枚でもある。解説は、髙地明氏。


 東京の神保町にある日本教育会館ホールで、1985年12月13日に行われた「ザ・ジェームス・コットン・バンド」の公演の半券。
 コットンは、この時50歳。ブルースナンバーが多かったが、ブルースという枠を超えたライブだった印象が強い。ブルースファンの中には、それが物足りないと感じた人もいたかもしれない。が、わたしは、ジャンルはどうあれ良い音楽であればそれで良い、と思っている。
 この時の招へい元であるブルースインターアクジョンズの髙地明氏は、ロード・マネジャーとして各地の公演に同行し、後に著書『ブルース決定版(1994年音楽之友社刊)』の中で次のように語っている。「・・ぼくがこれまで実際に接したブルースマンの中でも、ジェームス・コットンはとてつもなく豪放で意欲的な”ブルース馬鹿”であった。素晴らしくファンキーな人柄だった。・・」(P52)


 TELARCレーベルのCD83497 。1999年9月、メイン州ポートランドでの録音。ギターはリコ・マクファーランド、ピアノにデヴィッド・マックスウェル。この時すでに喉頭がんにより声を失いつつあり、コットン自らは振り絞るような声でヴォーカルを数曲とっている。他に、ダリル・ニューリッチという人が、2曲ヴォーカルで加わっている。ブルースファンとしては、どんなに悪声でも「コットンの最後の歌声」とも言える録音で貴重なものなのだが、ブルースに馴染みの薄い人には「何だこりゃ」と感じるかもしれない。なので、ロックやソウルが好きな人は下のCDをお薦めする。


 同じくTELARCレーベルのCD83550。こちらは2001年6月の録音で、やはりメイン州ポートランドでの録音。この時すでにコットンは、声を失っていたようで、ココ・テイラーやケニー・ニールなど9人のヴォーカリストを迎えて、自らはハーモニカに徹している。


 CD83497のジャケット裏の写真。手にしているハーモニカは、10穴のブルースハープではなく、ボタンを押して半音階が出せる音域の広いクロマッチック・ハーモニカだ。上の2枚のCDで、コットンは主にこのクロマッチック・ハーモニカを使っていて、それにより音楽性の高い演奏になっている。
 この人も音楽大学などで教育を受けていれば、ジャンルを超えて、例えばジャズやクラッシックのミュージシャンとも共演できる世界的なプレーヤーになっていただろう。

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わたしのレコード棚ーブルース138 Sam Collins

2021年06月17日 | わたしのレコード棚
 サム・コリンズ(Sam Collins)は、情緒に富んだスライドギターと少しファルセットが掛かったヴォーカルでCrying Sam Collins(泣きのサム・コリンズ)とも呼ばれる。また、1920年代から30年代にかけて複数のレーベルに録音を残しており、その為か別名を使っている。ジム・フォスター(Jim Foster)、あるいはソルティー・ドッグ・サム、という芸名がそれだ。その割には、写真は1枚も残っておらず、詳しい資料も乏しい。下のCDの解説によると、リサーチャーのゲイル・ディーン・ウォードロウという人の調査で、生まれは1887年8月11日ルイジアナ州、亡くなったのは1949年10月20日シカゴだったという。ロバート・サンテリ著『The Big Book Of Blues』も同じ説だ。

 同様に『The Big Book Of Blues』やCDの解説などを参照すると、育ったのはミシシッピ州のマッコム(McComb)という所で、そこでミュージシャンとしての修行を重ねて音楽で稼げるようになっていったらしい。時には、キング・ソロモン・ヒルと共に演奏をすることもあったという。その後、1930年代にシカゴへ移動したらしい。


 国内盤P-VainのCD、PCD2431。「キング・オブ・ザ・ブルース」シリーズ11。解説は、小出斉氏。1927年から1931年までのカントリー・ブルース22曲を収録。ただし、1927年12月のリッチモンドでの録音2曲では、コリンズはギター演奏だけで、ヴォーカルはJhon D Foxとなっている。

 演奏スタイルは結構多様で、スライド奏法ではテキサス風のナイフスライドの影響が感じられ、「Midnight Special」のようなルイジアナのレッド・ベター風の曲もあるかと思えば、ゴスペルナンバーも歌い上げている。結構、器用で研究熱心なひとだったのではないだろうか。せめて、写真の1枚くらいは残して欲しかった。

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わたしのレコード棚ーブルース137 Papa Harvey Hull

2021年06月14日 | わたしのレコード棚
 ヴォーカリストのパパ・ハーヴェイ・ハル(Papa Harvey Hull)に関しても、詳しいことはわかっていない。インターネットでも検索してみたが、具体的で詳しい資料は出てこなかった。

 
 イギリスのMATCHBOXというレーベルのLPでMSE201『Country Blues - The First Generation. Papa Harvey Hull & Long Cleve Reed, Richard "Rabbit" Brown. Complete Recordings』。A面が「パパ・ハーヴェイ・ハル&ロング・クリーブ・リード」の6曲で、ライナーノーツにはシカゴで1927年頃の録音となっている。B面には、すでにこのブログでも取り上げたリチャード・ブラウンの5曲を収録している。解説は、ポール・オリバーが書いている。
 ハルはバンドでの演奏で、パパ・ハーヴェイ・ハルのヴォーカル、ロング・クリーブ・リード(Long Cleve Reed)のヴォーカルとハミング及びギター、ウィルソン(Wilson)のギター、という編成でクレジットされている。

 演奏を聴く限りでは、3人でミンストレルショーやメディシンショー、さらにはハウスパーティーなどで活動していたと推測される。YAZOOの2015『Before
The Blues』というオムニバスCDの解説には、「They may have been from around Carroll County Mississippi(おそらく、彼らはミシシッピーのキャロール郡あたりから来ていたのではないか)」とある。1927年という録音年から考えると、3人とも1900年前後の生まれと推測される。

 残された曲には8小節ブルースをアレンジしたものや、軽快なリズムに載せて歌われているものもある。その中でも「France Blues(フランス・ブルース)」はオムニバスCDなどに入ることが多く、歌詞にはサン・ハウスの「My Black Mama」や「Death Letter Blues」、あるいはスキップ・ジェームスの「Special Rider Blues」とほぼ同じフレーズを使っている所がある。ただし、メロディーやリズムは別物で、重いテーマとは逆に、軽快で聴きやすい曲になっている。この曲が何故「フランス・ブルース」というのかはわからない。あくまでわたしの推測だが、周辺の人々を集める―すなわち集客のために路上等で歌う際の奇抜な曲名とアレンジだったのではないだろうか。

 オムニバスLPのOJL-2にデイヴィッド・エヴァンスらが聞き取った歌詞が付いているので、参考までに、フランス・ブルースの歌詞を最初から3スタンザほどを下に書いておく。

Have you ever took a trip, babe, on the Mobile Line?
Hey, Lord, mama, mama, hey Lord, papa, papa, hollering, 'bout the the Mobile Line.
That's the road to ride, baby, to ease your trouble in mind.

Well, I got a letter, babe, that's the way it read.
Hey, Lord, mama, mama, hey Lord, papa, papa, hollering 'bout the the way it read.
Come home, come home, babe, the girl you love is dead.

Well, I packed my suitcase, bundled up my clothes.
Hey, Lord, mama, mama, hey Lord, papa, papa, hollering 'bout bundled up my clothes.
When I got there, she was laying on the cooling board.

この歌詞の中のthe Mobile Lineとは、ミシシッピーからアラバマ州に向かう鉄道を意味しているようだ。

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わたしのレコード棚ーブルース136 Hambone Willie Newbern

2021年06月10日 | わたしのレコード棚
 ギターとヴォーカルのハムボーン・ウィリー・ニューバーン(Hambone Willie Newbern)に関しても、詳しい事跡はわかっていない。CDの解説などによると、生まれたのは1899年頃。亡くなったのは1947年頃で、どこかの刑務所内で喧嘩に巻き込まれたとも言われている。ただウィキペディアによると、リサーチャーのボブ・イーグル(Bob Eagle)らの調査・研究では1965年にメンフィスの自宅で亡くなった、とある。


 P-VainのCD『キング・オブ・ザ・ブルース4』。写真のミシシッピー・ジョン・ハートがメインだが、ニューバーンの1929年3月にジョージア州アトランタで録音された6曲が入っている。曲の進行は、ラグタイム系のものもある。しかし、何と言ってもこの人の名が残っているのは「Roll And Tumble Blues」を最初に録音した人としてだろう。この曲は、ブルースファンなら一度は耳にするもので、歌詞を変え、曲名を変え、様々なブルースマンが取り上げている。中でも、マディー・ウォータースの「Rolling & Tumbling」はかなりヒットし、今でもブルースのスタンダードのひとつになっている。ちなみに、古いところでは、ガーフィールド・エイカースが「Dough Roller Blues」という「Roll And Tumble Blues」に近い曲を録音したのが1930年2月メンフィスでだった。おそらく、メンフィス辺りで歌い継がれていたブルースだったと推測される。

 ニューバーンはスリーピー・ジョン・エステスにギターを教えた、という逸話も残っている。中山義雄氏によるCD解説には、エステスやヤンク・レイチェルと行動を共にしていたこともあるという。同じくエステスの話では、その頃ニューバーンはテネシー州のブラウンズヴィルの住人だったという。リサーチャーの調査ではメンフィスで亡くなったというし、エステスはメンフィスの人だし、あるいはニューバーンも主にメンフィス周辺で活動した人だったのかもしれない。

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わたしのレコード棚ーブルース135 Richard "Rabbit" Brown

2021年06月07日 | わたしのレコード棚
 リチャード‟ラビット”ブラウン(Richard "Rabbit" Brown)に関しても、詳しいことはわかっていない。ウィキペディアによると、1880年頃の生まれで、1937年頃に亡くなったらしい。主にルイジアナ州のニューオリンズなどでソングスターとして音楽活動をしていたという。ニックネームの"Rabbit"(うさぎ)は、体が小さい人だったことで、ついたらしい。
 音楽的には、ブルースというより民俗音楽という意味での「フォークソング」に近い。あるいは、ブルースという形式が確立する以前の「プリ・ブルース」とも言える。個人的には、アイリッシュ音楽のリズムの取り方に近いものも感じる。

 1927年3月に、ルイジアナ州で6曲をヴィクターがフィールドレコーディングしている。その内の1曲は発売されず行方不明になっているので、現在聴くことが出来るのは5曲だけだ。


 国内盤P-VainのCD『キング・オブ・ザ・ブルース4』でジャケットの写真に写っているミシシッピー・ジョン・ハートがメインだが、ブラウンの5曲とハムボン・ウィリー・ニューバーンの6曲も入っている。わたしも知らなかったのだが、ウィキペディアによると、ブラウンの「James Alley Blues」はボブ・ディランがカヴァーしている、とある。

 タイタニック号の沈没を歌った「Sinking Of The Titanic」という時事的な曲もあり、情報源が少なかった時代にミュージシャンが歌詞の中でニュースを発信して、ある種のメディアとしての役割を担っていたことを物語っている。日本でも、津軽民謡の「鈴木主水(もんど)」なども、まだメディアが乏しかった時代に、それと似た役割を負っていたのだった。

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わたしのレコード棚ーブルース134 Blind Joe Reynolds

2021年05月31日 | わたしのレコード棚
 ブラインド・ジョー・レイノルズ(Blind Joe Reynolds)。生年は資料によりまちまちで、1904年あるいは1905年としているものが多く、生誕地はルイジアナ州だったらしい。ただしウィキペディアによると、死亡確認書には1900年アーカンソー州生まれとなっている、とある。亡くなったのは、1968年3月10日で、ルイジアナ州だったらしい。
 録音は、確認できる記録によると、1929年頃にウィスコンシン州グラフトンで8曲をパラマウントに、1930年にメンフィスで4曲をヴィクターに入れている。レコード会社が異なるためか、ヴィクターへはブラインド・ウィリー・レイノルズ(Blind Willie Reynolds)という名前で入れている。本名は、ジョー・シェパード(Joe Sheppard)とも言われる。レコード会社でお蔵入りになっている曲もあり、我が家にある音源は、この内の4曲だけだ。



 この人の「Outside Woman Blues」という曲は下のLPにも入っているが、それを1960年代にエリック・クラプトンがいたバンド「クリーム」がカヴァーしている。なので、ロックファンにも多少馴染みがあるようだ。皮肉なことに、クリームが解散した1968年頃まで、レイノルズは放浪しつつ路上で演奏して日銭を稼ぐ生活をしていたと言われている。「再発見」されることもなく、自分の曲が世界的なロックバンドにコピーされていることも知らず、その1968年に亡くなっているのだった。


 HERWINレーベルのLP214。3人のブルースマンの1927-1931年の録音を集めたオムニバスLP。レイノルズは、グラフトンとメンフィスでの録音から2曲ずつを収録。LPタイトルは『Delta Blues Heavy Hitters』となっているが、実際にレイノルズの活動したのはルイジアナ州やアーカンソー州だった。ぺグレグ・ハウエルにも通ずる独特のリズム感覚を持ったスライド奏法(おそらくナイフ)のギターを弾き、力強いヴォーカルと相俟って、深南部のストリートで演奏して生活していた盲目のブルースマンの様子を今に伝えている。

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わたしのレコード棚ーブルース133 J.D.Short

2021年05月24日 | わたしのレコード棚
 J.D.ショート(J.D.Short)は、1902年12月26日にミシシッピー州のデルタ地方南部ポートギブソン(Port Gibson)で生まれ、1962年10月21日にセントルイスで亡くなっている。日本では、ほとんど知られていないブルースマンだが、活動歴は長く、ギター・ヴォーカル・ハーモニカさらには足踏みドラムも同時に演奏するワンマンバンドで、ピアノも弾けたらしい。本来は、もっと注目されるべき人と思われる。

 若い頃は、クラークスデイルでチャーリー・パットンなどを聴いてブルースに親しみ、1923年頃にセントルイスへ移動。1930年~1933年には、パラマウントやヴォキャリオンに録音を残している。その後は、第二次世界大戦中に陸軍に入ったものの、戦前戦後を通じてセントルイスで小さなクラブやパーティーで演奏を続けた。ハニー・ボーイ・エドワーズやビッグ・ジョー・ウィリアムスとは従弟で、時に共に演奏することもあったらしい。


ORIGIN JAZZ LIBRARYのLP、OJL11。オムニバスLPで、1930年代と思われる初期の録音2曲が入っていて、名前は「Jaydee Short」となっている。

 以下4枚の写真は、イギリスBBC制作1963年のヴィデオ『The Blues 』よりテレビ画面をデジカメで撮ったもの。

セントルイスのストリートで、撮影はサミュエル・チャータース。画面左下に「SC」とあるのは、チャータースのイニシャルと思われる。

 けっこう恰幅がいい。

 ハーモニカは首からのホルダーではなく、ギターに固定されている。

 右足でバスドラムを叩きながらの演奏。


 GNP CRESCENDOレーベルのLP、GNPS10018。1962年7月にセントルイスでサミュエル・チャータースがフィールド録音したもの。LP裏ライナーノーツもチャータースが書いており、録音時にショートはすでにこの30年ほどセントルイスで暮らしていた、とある。チャータースのインタビューなども入っているが、残念ながらわたしは半分ほどしか聞き取れない。

 音楽的には、伝統的なカントリーブルースを自分なりにアレンジする、といった正統的なミュージシャンだ。ヴォーカルも力強く、ハーモニカもギターにホルダーで付けて吹いているにもかかわらず、咽喉を震わすようなヴィブラートをかけている。
 おそらく、昔のハウスパーティーなどでは、この人の演奏で踊ったりしたと思われる。

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わたしのレコード棚ーブルース132 William Robertson

2021年05月20日 | わたしのレコード棚
 ウィリアム・ロバートソン(William Robertson)。この人に関しても、詳しい事跡は分からない。インターネットでも検索してみたが、ほとんど資料はなかった。下のLPは、ジョージ・ミッチェルが1976年頃にジョージア州南部を訪れた際にフィールド録音したもので、ミッチェルが書いたLP裏面のライナーノーツが唯一と言っても良いほどの資料になる。

 それによると、ミッチェルが伝統的なブルースを演奏できるブルースマンを探していた1976年頃のジョージアには、古いカントリーブルースの継承者は死に絶えているか、老いて演奏をやめていた、という。そんな中で、やっと出会ったのがウィリアム・ロバートソンで、ジョージア州の南西に位置するアルバニー(Albany)という町から25マイル離れた農村に住んでいた。ピーナツ畑が水平線まで続いているようなところで、ロバートソンの収入はほとんどなく、家には電気も水道も来ておらず、わずかの障害者年金で生活していたらしい。
 録音時54歳だったというから、1922年頃の生まれと推測される。没年等は未詳。5歳の頃に、食用油の缶を使ってワンストリング・ギターを作って弾いたのが初めで、12歳の頃にギターを手に入れたという。その後は、近隣のパーティーなどで演奏していたらしい。


 SOUTHLANDレーベルのLP、SLP5。写真はロバートソンの家と思われるが、かなり傾いている。

 音楽的には、けっこうモダンな感じの多様なスタイルで、ギターはエレキギターを使っているようにも聞こえる。ただし彼の家には「電気も来ていなかった」ということなので、確かなことは分からない。ヴォーカルは、あまりうまいとは言えないが、ジョージアの田舎のパーティーを盛り上げていたソングスターの音色を今に伝えている。

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わたしのレコード棚ーブルース131 Frankie Lee Sims

2021年05月06日 | わたしのレコード棚
 ライトニン・ホプキンスの従兄弟ともいわれる、フランキー・リー・シムズ(Frankie Lee Sims)。我が家にある音源は下のLPだけだが、カントリーブルースでも8ビートに近いようなロックの要素を持ち、なかなかご機嫌なノリの良いサウンドになっている。戦後テキサスのエレキギターを使ったカントリーブルースを代表するブルースマンの一人と言えるだろう。
 LP裏のライナーノーツには本人の話として「1906年にルイジアナ州ニューオリンズで生まれた」となっていいる。しかし、ウィキペディアなど多くの資料は、1917年4月30日生まれとしている。亡くなったのはテキサス州ダラス、1970年5月10日で間違いないようだ。第二次世界大戦では海兵隊員だったらしいが、1945年以降はダラスのジュークジョイントなどで演奏したという。ギタースタイルや声の質は、ライトニン・ホプキンスに似ているようにも感じるが、よりラフで田舎の力強さを感じる。個性的な音を出せるブルースマンだったのだ。


 SpecialtyレーベルのLP、SPS2124。1953年の録音12曲を収録。LPのタイトル曲でもある『Lucy Mae Blues』は、一部地方でヒットしたらしい。バンド演奏だが、メンバー達のクレジットはされておらず、詳しいことは分からない。聴いて判断する限りでは、ドラムス、ベース、曲によってはブルースハープが入っている。べースは、エレキのプレシジョン・ベースではなくイミテーションベースのようにも聞こえるが、定かではない。

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わたしのレコード棚ーブルース130 Bessie Smith

2021年05月03日 | わたしのレコード棚
 ベッシー・スミスは、1894年4月15日テネシー州Chattanoogaで生まれ、1937年9月26日にミシシッピー州クラークスデイルで亡くなっている。マ・レイニーの後輩といえるクラシックブルースの女性ヴォーカリストだが、ルイ・アームストロングなどとも活動し、どちらかというとジャズヴォーカリストとして評価が高く、後のジャズヴォーカリストへの影響も大きい。1923年からコロンビアなどに170曲ほどの録音を残し、当時としては珍しく映画にも出演しており、戦前のスター歌手と言っても過言ではないだろう。

 彼女の死について、ウィキペディアによると・・「スミスは、1937年に乗っていた車がトラックに追突するという不運な交通事故に遭い、近くの病院に搬送されたものの白人専用病院だったので受け入れを頑なに拒否されたためたらい回しにされた。ようやくミシシッピ州のクラークスデールにある黒人専用病院に移送されたが、間もなくスミスは息絶えてしまった。43歳没。」とある。


 コロンビアのLP、CL885。1923年から1925年にかけての12曲を収録。バックには、ルイ・アームストロング他ジャズの名手がそろい、彼女の歌唱力を今に伝えている。

 下の二枚は、1929年制作の映画『St.Louis Blues』よりの映像をデジカメで撮ったもの。15分ほどの短い作品だが、1929年と言えばまだレコードも78回転盤が普及し始めた頃だろうし、かのロバート・ジョンソンが最初のセッションで録音したのが1936年なので、その7年前に当たる。その時期を考えれば、極めて貴重な映像と言えるだろう。

 映画の内容は単純で、恋人に捨てられた「ベッシー」が傷心の思いを込めてセントルイスブルースを歌う、というもの。


 バックにはフレチャー・ヘンダーソンのバンドとジェイムス・P・ジョンソンのピアノ、さらには客になって参加しているのはコーラスグループのHall Johnson Choir。

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わたしのレコード棚ーブルース129 Willie Guy Rainey

2021年04月19日 | わたしのレコード棚
 ウィリー・ガイ・レイニー(Willie Guy Rainey)は、1901年にアラバマ州Calhounで生まれ、1983年8月23日にジョージア州College Parkで亡くなっている。この人に関しては、資料が少ないので、あまり詳しい事は分からない。若い頃はアトランタ近郊の町のストリートやパーティーで演奏することもあったらしいが、70歳を過ぎた頃からブルースフェスティヴァルなどに出て、音楽で収入を得られるようになったと言われている。



 SOUTHLANDレーベルのLP、SLP7。1978年頃に録音されたと思われる11曲を収録。
 ヴォーカルのほか、エレキギターやアコースティックギター、さらにピアノなども弾きこなしている。そのスタイルは結構多様で、イーストコースト・ブルースの他にも、ミシシッピー・シークスの曲などもアレンジして自分のものにしている。歌は、あまりうまいとは言えないが、独特の味わいも感じられる。もっとも、この時77歳になっているので、それを想えばむしろ立派な演奏と言えるだろう。あやかりたいものだ。さらに、この内の2曲はバンド編成で、ハーモニカ、ベース、ドラムスが加わって、なかなかご機嫌なサウンドになっている。


 同LP裏面。ライナーの解説は、ジョージ・ミッチェル。それによると、本人はマ・レイニーの親戚(Third cousin)と主張していた、という。が、マ・レイニーの「レイニー」は結婚相手の名前だし、これは、にわかには信じがたい。

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わたしのレコード棚ーブルース128 Ma Rainey

2021年04月15日 | わたしのレコード棚
 「クラシックブルース」と言われる音楽ジャンルがある。基本的にはブルースのコード進行なのだが、クラシック音楽の手法を取り入れて、マイナーに転調したり、小説数を工夫したりしてメロディアスに仕上げ、主にショービジネスの世界で広まった。

 マ・レイニー(Ma Rainey)ことGertrude Pridgettは、そんなブルースの女性ヴォーカリストだった。生まれは1886年4月26日ジョージア州コロンバス(Columbus)、亡くなったのは1939年12月22日で、やはり生地だった。10代後半でウィル・レイニー(Will Rainey)と結婚し、以降マ・レイニーとしてミンストレルショーやテントショーで南部や中西部を回ったという。そんな中で、8歳ほど年下の若いベッシー・スミスと出会い、共に旅回りしたりしたらしい。つまり、20世紀初頭に旅回りのショービジネスの世界で生きていたわけだ。ハンディー(W.C.Handy)が「セントルイスブルース」を作曲したと言われるのが1914年なので、マ・レイニーは、クラシックブルースの嚆矢とも言える女性ヴォーカリストと言っても良いのではないだろうか。録音は、1923年12月にはパラマウントに行っている。
 マ・レイニーが亡くなったおよそ半年後の1940年6月、メンフィス・ミニーは『マ・レイニー(Okeh原盤 05811)』という追悼曲を録音している。後の女性ヴォーカリストに与えた影響は大きい人だった。


 MILESTONEレーベル2001。FANTAZYレコードのジャズ向けのレーベルなので、主に管楽器やピアノをバックにしたものを中心に12曲を収録。1924年から1927年までのシカゴでの録音。すでに、100年近く前の演奏、ということになる。録音されたものでは彼女の声量が十分に伝わってこないが、マ・レイニーが旅回りしていた初期の頃は拡声用のマイクなどというものはまだ無く、全てが生音で演奏されたいた。当然、ヴォーカリストも自分の声だけでバックバンドに負けないだけの声を出していたわけだ。聞き及ぶところマ・レイニーは後になってマイクが普及しても、それを使うことを恥としていた、という。すごいもんだ。


 国内盤P-VainのCD、3752。「P-ヴァインーブルースの巨人」シリーズの12で、選曲・編集・解説は佐々木健一氏。1995年に発売された雑誌『ブルース&ソウル・レコーズ』NO.7にわたしがCD評を書いたので、その時に支給されたもの。上のLPと重複している曲もあるが、こちらには、タンパ・レッドのスライドギターやパパ・チャーリー・ジャクソンのギターバンジョーをバックにしたブルース色の強い曲も入っている。

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わたしのレコード棚ーブルース127 Robert Nighthawk

2021年04月08日 | わたしのレコード棚
 ロバート・ナイトホーク(Robert Nighthawk)は、本名ロバート・リー・マッカラム(Robert Lee McCullum)。1909年11月30日にアーカンソー州ヘレナで生まれ、1967年11月5日に同地で亡くなっている。ただし、資料によっては1967年の10月に没としているものもある。わたしのレコード棚ーブルース126で取り上げたヒューストン・スタックハウスの従兄弟ともいわれている。
 この人も音楽的才能に恵まれていた人で、第二次世界大戦以前はロバート・リー・マッコイ名で主にハーモニカを演奏して、ギターもベースも弾けた。スライド奏法は、後にヒューストン・スタックハウスから教わったらしい。


 ソニーレコードのCDで、SRCD5679。「Big Jo and His Washboard Band」でハーモニカ(ロバート・リー・マッコイ名)を担当、1940年録音の4曲を収録。このバンドのビッグ・ジョー(Big Jo)とはジョー・マッコイ(Jo McCoy)のことである。


 同CD内にある写真。若い頃のもののようだ。


 ARHOOLIEレーベルのCD402。ヒューストン・スタックハウスが4曲入っており、ナイトホークはバックでベースやギターを弾いている。


 スタックハウスと共に録音したTESTAMENTレーベルのLP2215。ヴォーカルとエレキギターで、シカゴで1964年5月の3曲、同10月の6曲。さらに、1967年8月のミシシッピー州Dundeeの録音ではスタックハウスのバックでギターを弾いている。そして、この1967年の秋に急死する。
 1964年5月シカゴ録音では、ハーモニカがリトル・ウォルター(Little Walter Jacobs)で、Jonny Youngがギターでバッキングしているトリオ演奏になっている。さらに、同年10月では、ハーモニカがJohn Wrencherに変わっている。
 ここで聴けるナイトホークの演奏は、スライド奏法でも指弾きでも、完全にシカゴブルースのサウンドになっている。スタックハウスがあくまでトミー・ジョンソンの曲を中心に演奏したのとは、その点ではかなり異なっている。レコード会社からの要請もあったのかもしれないが、ナイトホークは自分なりの演奏を試みていたようにも感じられる。
 ナイトホークの演奏を手本にして練習に励んだロックのギターリストも多いらしい。また1964年に、シカゴのマックスウェル・ストリートでライブ収録された『Live On Maxwell Street 1964』は、ライブ盤の傑作と評価するブルースファンも多い。残念ながら、今は入手しにくく我が家にも無い。

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わたしのレコード棚ーブルース126 Houston Stackhouse

2021年04月01日 | わたしのレコード棚
 ギター・ヴォーカルのヒューストン・スタックハウス(Houston Stackhouse)は、1910年9月28日にミシシッピー州Wessonで生まれ、1980年9月23日にアーカンソー州ヘレナ(Helena)で亡くなっている。
 ギターはトミー・ジョンソンに直接学んだといわれ、1920年代の終わりころにはジョンソンと共にジャクソンあたりのパーティーなどを共に演奏して回ったという。1940年代中頃にヘレナに移動して、「キングビスケット・タイム」というKFFA局のラジオ番組でハーモニカのサニーボーイ・ウィリアムソン#2(ライス・ミラー)などと演奏する仕事を続けた。1950年頃にはシカゴへ出たが、その後、再びミシシッピーやアーカンソーに戻り演奏・録音したりしている。我が家にあるのは、1960年代以降の録音となる。


 TESTAMENTレーベルのLP2215。1967年8月にミシシッピー州Dundeeで録音したもので、スタックハウスは4曲入っている。ここで演奏しているのもトミー・ジョンソンの曲が多く、ギターはエレキだが、スタイルは完全にジョンソンのものだ。バックでギターを弾いているのは、ロバート・ナイトホークで従兄弟ともいわれている。ナイトホークに関しては、ページを改めて書くことにしたい。ドラムスはジェームス‟ペック”カーティス。


 ARHOOLIEレーベルのLP1014。1960年代にジョージ・ミッチェルがミシシッピーで現地録音したものを編集したレコード。有名無名なブルースマン、12曲を収録。

 同LP裏面。写真の一番下、2人の内右がスタックハウスで、左側でドラムスを叩いているのがジェームス‟ペック”カーティス。カーティスもスタックハウスと共にKFFA局のラジオ番組の仕事をしており、このLPに「The Death Of Sonny Boy Williamson(サニーボーイ・ウィリアムソンの死)」というドラムスをたたきながらの語りを入れている。「キングビスケット・タイム」という放送はブルースの歴史の上で重要な番組で、ほぼ毎日午後の決まった時間に放送されて、ブルースマン達の修練と安定した収入を得る場になっていた。ロバート・ロックウッド・ジュニヤーなども参加していたこともあり、ファンの間では伝説のラジオ番組だ。


 上のLPと同じARHOOLIEのCD402。スタックハウスは4曲入っていて、LPに入りきらなかった曲をこちらに入れたようだ。


 YAZOOのヴィデオ505『Good Morning Blues』より。使っているギターは、エピフォンのカジノだろうか。アンプとの相性もあるだろうが、低音が不足気味で安っぽい音に聞こえる。が、それが妙に田舎のブルースっぽく、スタックハウスの少しファルセットがかかった声と相まって独特の雰囲気を醸し出している。当時のエピフォンは、けっして安物ではないが、ギターは値段が高ければ良い、というものではないのだった。何より、それを使うプレーヤーとの「相性」というものが大切。


 VESTAPOLレーベルのヴィデオ13016『Legends Of Country Blues Guitar』より、1972年頃の映像。

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