文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚ーブルース125 Willie Love

2021年03月22日 | わたしのレコード棚
 ウィリー・ラブ(Willie Love)は、かなりドライブするファンキーなピアノを弾き、ブルースというよりR&Bに近いミュージシャンだ。歌は、まあ、あまりうまいとは言えないが、声の質がハウンド・ドッグ・テイラーに似ているようにも聞こえ、なんとなく味わいがある。1906年11月4日にミシシッピー州ダンカン(Duncan)で生まれ、1953年8月19日に同州の州都ジャクソン(Jackson)で亡くなっている。我が家にある音源は少ないが、ソウル・ブルースの歴史を語るうえでは、重要な人だ。


 ミシシッピーのTRUMPETレーベルのLP、AA-702。このブログ「わたしのレコード棚ーブルース124」のビッグ・ジョー・ウィリアムスで取り上げたLPの表面で、ピアノに向かうウィリー・ラブの姿が印象に残る。写真をよく見ると、着ているスーツはヨレヨレで、靴下をはいていないようだ。当時のミュージシャンの生活が垣間見える様で、身につまされる。

 録音は「Willie Love & His Three Aces」というグループ名でクレジットされている。1951年7月25日分が2曲で、この時のバックを務めたのは、Elmore JamesとJoe Willie Wilkinsがギターとバックコーラス、Otis Greenがテナーサックス、ドラムスは不明だがprobably(たぶん)としてAlex Wallaceとなっている。さらに、同年12月1日分の4曲では、Little Milton Campbellがギター、T.J.Greenがベース、Junior Blackmanがドラムスという構成。
 このレコーディングデータを見て「おおっ・・」と思った人もいるかもしれない。後にブルースファンなら知らない人はいない、というくらいの2人がバックでギターを弾き、コーラスをつけている。言うまでもなく、エルモア・ジェイムスとリトルミルトンである。下の写真2枚は、LP内の解説書にあるもの。


 エルモア・ジェイムス、この録音時33歳。この翌年1952年に、このLP と同じTRUMPETレーベルに、ロバート・ジョンソンから学んだともいわれる「Dust My Broom」を吹き込みヒット。その後、シカゴに出ることになる。エルモアは、第2次世界大戦中の海軍での兵役を終えた後、弟が経営していたラジオショップを手伝っていたという。そこで、修理などを通して電気技術を身に付けた、と言われている。この写真では、小さめのソリッドギターを構えているが、後には色々と工夫して、独自の音色をものにしていったらしい。


 この録音時リトルミルトンは、わずかに16歳だったはず。すでに、ギターのテクニックは完成の域に近づいている。写真は、後のものかもしれない。いずれにしろ、これ以降才能が認められ、ソウル・ブルースの世界でギターリスト・ヴォーカリストとして活躍することとなる。亡くなったのは、2005年8月4日だった。


 LPの解説にある写真は、全体でこんな感じ。中央に写っているのはジャクソンにある「Dianne's Lounge(ダイアンズ・ラウンジ)」という店で1980年の撮影、と書かれている。国道沿いにあるクラブのような店だろう。一人では、怖くて入れそうにない。

 ウィリー・ラブは酒に溺れた生活を送っていたという。この録音の2年後、彼は46歳で亡くなった。

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わたしのレコード棚ーブルース124 Big Joe Williams

2021年03月15日 | わたしのレコード棚
 ビッグ・ジョー・ウィリアムス(Big Joe Williams)は、本名Joseph Lee Williams。1903年10月16日ミシシッピー州Oktibbehaに生まれ、1982年12月17日に同州Maconで亡くなっている。1975年には来日して演奏もしている。この時わたしは高校生で、残念ながら公演は聴いていない。

 かなりな肥満体の人で、それが為に「ビッグ・ジョー」と言われたようだ。その太った体に無理やりギターを構えた姿が目に焼き付くブルースマンだ。その生涯は、放浪の繰り返えしで、各都市のジュークジョイントやクラブなど、さらには工事現場などでも演奏したという。そんな生活の中で、時に野宿をするようなこともあり、警察に追われて拘束される事もあったらしい。あの体でそんな生活を続けて、よく80歳近くまで生きて晩年まで演奏を続けられたものだ、と感心する。ブルースが聴かれなかった時代でも、したたかに演奏活動を続けた人だったのだ。

 演奏スタイルは、独自にギターヘッドに3個の穴を開けてペグを付け、無理やり9弦にしたギターを掻き鳴らすという、個性の強いものだった。活動歴は豊富で、1920年代の初め頃、というから20歳前後には「Rabit Foot Minstrels Review」というミンストレルショーに参加。1930年代になると、「The Birmingham Jug Band」のメンバーとしてオーケー(Okeh)レーベルに録音。1934年にセントルイスへ出て、1935年にブルーバードと契約。以降10年間ブルーバードへの吹き込みを続け、『Baby Please Don't Go』など後にスタンダードになった曲も多い。共演したミュージシャンも多く、ブルースハープのサニーボーイ#1、ギターのロバート・ナイトホーク、ピアノのピーティー・ウィートストローなど。さらに、10代だったマディーウォータースとも南部を旅回りしたという。


 TRUMPETレーベルのLP、AA-702『Delta Blues - 1951』。これはLPの裏面で、左側に写っている3人の中で、手前がウィリアムス。その奥、向かって左がウィリー・ディクソンで、右がメンフィス・スリム。A面に8曲、ウィリアムスの演奏が入っている。1951年ミシシッピーの州都ジャクソンでの録音。ウィリアムスは粗削りなデルタの特徴を持ち、それがブルースファンにとってはひとつの魅力になっている。が、我が家にある音源を聞いても、その魅力を捉え切れておらず、雑な演奏に聞こえるものが多い。その点、このLPに入っている演奏は、彼の優れた面を良く捉えていて、わたしの好きな1枚だ。


 ミシシッピ・フレッド・マクドウェル(写真右)、とのカップリングヴィデオYAZOOの504。写真に写っているギターのヘッドをよく見ると、糸巻が3個先端部分に増設されているのが確認できる。

 上のヴィデオからの映像。レコーディングデータが書かれていないので、この時の年齢は不明だが、かなり若く見える。

 1~3コースを複弦にしていると思っていたのだが、改めて映像をよく見直したところ、実際に複弦ににしているのは1・2・4コースのようだ。常にこの様なセッティングにしていたかは不明だが、これにより独自な音色が出ていたと推測される。


 別のヴィデオVESTAPOLレーベルの13016より。1972年BBC制作の映像となっている。公園のようなところで撮っていて、眼鏡をかけた好々爺といった感じ。


 ヴィデオ『Mississippi Delta Blues Festival 1984』。このブログを書いていて初めて気づいたのだが、ビッグ・ジョー・ウィリアムスは1982年に死んでいる。なので、1984年のフェスティヴァルに出ているのはおかしい。没年か、このヴィデオの表記のどちらかが間違っていることになる。そこで、インターネットでミシシッピー州Freedomvilleでの Blues Festival で検索したところ、開催されたのはで1978年10月21日だった。アメリカ製品のこうした表記ミスは珍しくない。このブログでも、生没年など複数の資料で異なる場合は、なるべく両方を併記するようにしているのは、その為である。さらに言えば、レコードなどの解説にも、この手の間違いが結構ある。思い込みで書いていると、思わぬ落とし穴に嵌まることもあるので、確認を重ねながら書くようにはしている。

 上のヴィデオからの映像で、75歳の時ということになるので晩年の映像になるが、それほどの衰えは感じさせない。

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わたしのレコード棚ーブルース123 Walter Davis

2021年03月11日 | わたしのレコード棚
 ウォルター・デイビス(Walter Davis)は、わたしのレコード棚ーブルース121で取り上げたヘンリー・タウンゼントと同じくミズーリ州セントルイスで活躍したピアニスト及びヴォーカリスト。生まれは、1912年3月1日ミシシッピー州のグレナダで、亡くなったのは1963年10月22日セントルイスだった。
 


 OLD TRANPレーベルのLP、OTー1213。1930-1933年の録音だが、本人は何故かピアノを弾いておらずヴォーカルだけで、ルーズベルト・サイクスやジェイムス・ジョンソンがピアノを弾いている。1曲だけ、prob(たぶんー可能性ありの意味で、すなわち確実ではないこと)でヘンリー・タウンゼントがギター演奏となっている。年齢を考えると、デイビスがまだ20歳前後の録音になるので、あるいはピアノの演奏に不安があったのかもしれない。
 写真を見てわかるとおり、スリーピースを着こなしてポーズを決めており、なかなかにオシャレで、セントルイスでショービジネスに携わっていた黒人の意地のようなものを感じさせる。

 LP裏面。

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わたしのレコード棚ーブルース122 Henry Townsend

2021年03月08日 | わたしのレコード棚
 ヘンリー・タウンゼント( Henry Townsend)は、1909年10月27日ミシシッピー州Shelbyに生まれ、2006年9月24日ウィスコンシン州Mequonで亡くなっている。96歳の天寿を全うした人だった。ブルースマンは、乱れた生活を送ったり、あるいは殺されたりして短い生涯を終える人も多い。が、タウンゼントのように長命を保つ人も結構いる。
 この人はヴォーカルのほか、ギターだけでなくピアノも巧みに弾き、音感に優れた人だったようだ。下のLPやヴィデオの解説などによると、幼少期にはイリノイ州カイロに引っ越し、9歳の頃にそこから家出。1921年頃にセントルイスへ出て、靴磨きなどをしていたという。セントルイスでは、そこを拠点とするヘンリー・スポルディングというピアニストからピアノを、ロニー・ジョンソンからギターを学び、ものにしていったらしい。経済恐慌の後1930年頃よりルーズベルト・サイクスやウォルター・デイヴィスなどのピアニスト達やビッグ・ジョー・ウィリアムスなどのギターリスト達と活動し録音なども残している。また、セントルイスを訪れたブルースマン達とも共演を重ね、その中にはロバート・ジョンソンもいたという。
 タウンゼント達が活躍したセントルイスも1950年代中頃にはブルースシーンは衰退し、保険の外交員などをして糊口をしのいだ時期もあったという。1960年近くになりサム・チャータースに発見されて、再び演奏を始めた。その後は、伝統的な音使いに新しい工夫を加えたオリジナリティーのあるブルーススタイルで長く活動した。キャリアは長く豊富なので、もっと評価されてもおかしくないミュージシャンの一人だ。
 


 セントルイスにあるNIGHTHAWKレーベルのLP201。1979年の録音で、ヴォーカルとピアノの演奏13曲を収録。タウンゼントに関するかなり詳しい解説と、一部の曲の歌詞カードが付いている。録音時70歳くらいだろうが、声には張りがあり、洒落たブルースピアノと相まって円熟味のある演奏が聴ける。

同LP裏面。



リットーミュージックのヴィデオGL-001『カントリー・ブルース・ギターの巨人たち』より、「カイロブルース」を演奏しているところ。オープンチューニングで、しっかりしたリズム、フィンガーピッキングによるリゾネーターギターの音と相まって、カントリーブルースマンの面目躍如といったところ。
 最初に、この「カイロブルース」を聴いたときは、エジプトに旅行にでも行った時に作った歌なのかと思った。しかし、ここで歌う「カイロ」はイリノイ州の幼少期を過ごした所だろう。アメリカの地名には、ヨーロッパからの入植した人達にちなんでイギリスやフランスの地名にnewを付けたものや、エジプトの地名を使っているものも多く、紛らわしい。例えば、ニューヨークはイングランドのヨークにちなみ、ルイジアナ州は元フランスの植民地でその名はルイ14世にちなみ、ニューオリンズはフランスのオルレアンからとっている。そして、カイロやメンフィスはエジプトの地名そのままだ。

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わたしのレコード棚ーブルース121 Joe Taggart

2021年03月04日 | わたしのレコード棚
 ギターとヴォーカルのジョー・タガートは、盲目だったのでブラインド・ジョー・タガート(Blind Joe Taggart)とも呼ばれる。この人に関しては、このブログ「わたしのレコード棚ーブルース120」のジョシュ・ホワイトの項で少し取り上げたが、事跡について分からないことが多かった。しかし、生没年などがインターネットなどでかなり分かるようになってきた。

 ウィキペディアなどによると、生まれは1892年8月16日サウスカロライナ州Abheville、亡くなったのは1961年1月15日シカゴ。チャーリー・パットンが1891年の生まれなので、同世代と言えるだろう。この人は、基本的には伝道者ーEvangelisutで、ゴスペルを主に演奏していたと考えられる。我が家には、5曲の録音があるのみで、やはりゴスペルナンバーだ。ウィキペディアには、他の芸名を使っていたということで、Blind Joe Amos、Blind Jeremiah Taylor、Blind Tim Russell、Blind Joe Donnel、などの名前が上がっている。ミュージシャンの多くは、レコード会社との契約上複数の名前を使う人が多いが、ゴスペルミュージシャンの中にも世俗的な歌とゴスペルを歌う時とで、名前を使い分けていた人も多い。


 ジョシュ・ホワイトの項で紹介したのと同じもので、AUTOGRAMのLP1003。1928年、シカゴ録音の4曲を収録。2nd-gとback-voは、この時14歳くらいだったジョシュ・ホワイト。


 オーストリアのRSTレーベルの3枚組LP、BD-01。1927年から1956年までのカントリー・ブルース系のブルース、一人(あるいは一組)1曲ずつ計60曲を収めた、オムニバスLPの名盤。選曲・編集はジョニー・パース、解説はポール・オリバー。ジョー・タガートは、1928年シカゴでの録音「Mother's Love」が入っており、上のAUTOGRAMのLPと同じ時の録音と思われる。やはりジョシュ・ホワイトが2nd-gとback-voで加わっている。

 箱(LP3枚組なので箱に入っている)の写真は、1927年にミシシッピー川が氾濫した時のものと思われる。背後は洪水により溢れた水で、中洲のようなところに取り残された人々の途方に暮れている姿を記録した、貴重で、心に残る一枚だ。この時の様子は「High Water Everywhere」としてチャーリー・パットンが歌い、ビッグ・ビル・ブルーンジーやブラウニー・マギーの「Back Water Blues」まで、様々なブルースマンが歌い継いでいる。ブルースを含め、民俗音楽としてのフォークロアミュージックは、この様な生活の内部を心情をこめて歌い演奏することに、その本質があるとわたしは考えている。


 同LP解説内にあるタガートの写真。

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わたしのレコード棚ーブルース120 Josh White

2021年02月25日 | わたしのレコード棚
 ジョシュ・ホワイトは、サウスカロライナ州Greenvilleの生まれ。生年は資料によりばらつきがあり、1914年(ウィキペディア他)か1915年としているものが多く、ポール・オリバーの『ブルースの歴史』は例外的に1908年としている。亡くなったのは、1969年9月5日で、ニューヨーク州Manhassetだった。しかし、いつも思うのだが、1969年まで生きた人の生年がはっきりしないのはどうしてなのだろうか。要は、本人もはっきりしない、ということなのか。
 この人の本名はJoshua Daniel White。父はPreacherつまり「説教師」だったという。それが為、彼の名も旧約聖書のヨシュア記やダニエル書からとっているようだ。その父親の影響からか、子供の頃から盲目の人の手を引いたり、聖歌隊に入って歌たりしたという。サポートした盲目の人の中には、Willie WalkerやJoe Taggardなどのミュージシャンもいて、ギター演奏を身につけたらしい。
 1928年、というから15歳の頃には盲目だったJoe Taggardのガイドをしながらシカゴへ出て伴奏やバックヴォーカルもこなし録音している。1932年には単独で録音し、1936年以降ニューヨークに出てフォーク系のミュージシャンと交わりつつ、広く長く活動した。当初、ARCレーベルなどにブルースを吹き込んだ時にはパインウッド・トム(Pinewood Tom)という芸名を使い、ゴスペルを歌う時と名前を使い分けていた。
 この人にはもともと音楽的な才能があったのだろう、残された音源を聴いてみても、どんなジャンルの音楽もソツなく巧みに演奏している。そんな洗練された音遣いが、逆にブルースファンには受けが良くなかったのかもしれない。


AUTOGRAMレーベルのLP、1003。この中にJoe Taggardの1928年シカゴ録音4曲を収録していて、ホワイトが2ndギターとバックヴォーカルを担当しており、若々しい声が聞ける。LPジャケットの写真は、キリストの磔刑像にギターリストを合成したもののようだ。Evangelistとは、「伝道者」ほどの意味。


ソニーのCD、SRCS5511。ホワイトは、1933年と1935年のニューヨークでゴスペル1曲ずつを収録。


コロンビアのCD、CK46215。1934年ニューヨークでの1曲。ピアノはWalter Roland。

 残念ながら、我が家にはジョシュ・ホワイトの単独LP等は無く、上のようなオムニバス盤などになる。が、映像は結構ある。下の画像は、その中からデジカメで撮ったもの。


VESTAPOLのヴィデオ13004。箱の写真は、Roscoe Holcomb。

上のヴィデオから、1965年の映像で「John Henry」を演奏しているところ。


やはりVESTAPOLのヴィデオ13037。箱の写真は、Sylvester Weaver & Sara Martin。

上のヴィデオから、1962年のスウェーデン・テレビの映像から。

同じヴィデオの、やはりスウェーデン・テレビでの1967年の映像で、手前には娘のCarolynがヴォーカルをとっているのが写っている。

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わたしのレコード棚ーブルース119 Blind Boy Fuller

2021年02月15日 | わたしのレコード棚
 ブラインド・ボーイ・フラー(Blind Boy Fuller)は、本名フルトン・アレン(Fulton Allen)。1907年7月10日にノース・キャロライナ州Wadesboroで生まれ、としている資料が多いが、下のLPのポール・オリバーによる解説では1903年サウスカロライナ州Milledgevilleの生まれ、としている。亡くなったのは、1941年2月13日にノース・キャロライナ州Durhamで。30歳代の若さだったが、大酒飲みで、それが為の慢性腎臓病だったと言われている。
 この人は短い人生だったにもかかわらず、約150曲の録音を残しており、影響力のある人でもある。ギターの腕はしっかりしたもので、かなりポップな曲も多く手掛け、当時の人達には新鮮な音楽に聞こえたことだろう。ただ、我が家にある音源から判断すると、けっこう露骨に受けを狙ったものも多い気がする。少し例を挙げると、「Shake It Baby」などはまだいいにしても、「I'm A Rattlesnake Daddy」や「Sweet Honey Hole」などは性的なものを連想させ、少しウンザリする。もう少し詩的に表現して欲しいところだが、まあ、ストリートで、通りゆく人の足を止め、コインを投げ入れてもらうためにはこうなるのかもしれない。

 下のCD解説によると、この人は生まれつきの盲目ではなく、20歳近くになってから徐々に視力をなくし、1929年頃には完全に見えなくなっていたという。その頃すでに結婚しており、生活のためタバコの生産地であったダーラムに引っ越し、妻はタバコ工場で働き、フラーはゲーリー・デイビスなどからギターを習い、街角でギター演奏をしていたらしい。
 このCD解説内に興味深い話がある。ある1933年の書類が残っていて、それは公共福祉局が地元の警察署長にあてたもので、フラーが警察署管内の許された場所で演奏をする許可を求めたもの、だという。ストリートでの演奏は、「ゲリラ的」と言っては言い過ぎかもしれないが、人の集まるところを狙って小銭を稼ぐために邪魔にされてもめげずに神出鬼没で演奏する、そんなイメージだった。が、少なくともノースカロライナでは、それなりの理由があるものには、しかるべき公共機関が許可を出し、ある意味その保護下になされたものだったのだ。「演奏許可証」のようなものもあったのかもしれない。


ソニーのCDで、SRCS5508。国内盤で、ブルース・バスティンの解説(三井徹訳)と歌詞(対訳)つき。1935年から1937年までの、ヴォキャリオンへの録音20曲を収録。


ARHOOLIEレーベルのLPで、BLUES CLASSICS11。1935年から1940年までの14曲を収録。ウォシュボードのブル・シティ・レッドやブルースハープのサニ・テリーが加わったものを集めた名盤。

 1911年ノースカロライナ生まれのサニ・テリーは、すでにこの時に円熟の演奏を聴かせている。フラーの死後は、ブラウニー・マギーがその後の相棒となり、戦後も長く活躍した。ちなみに、ブラウニー・マギーは1915年テネシー州の生まれだが、若い頃からテントショーなどで旅回りのギターリストをつとめ、フラーに強く影響を受けており、その演奏スタイルはイーストコーストのものと言える。マギーは、当初「Blind Boy Fuller #2」を名乗り、フラーの死後『The Death Of Blind Boy Fuller』という曲を歌ったりしているほどである。

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わたしのレコード棚ーブルース118 Willie Walker

2021年02月08日 | わたしのレコード棚
 イーストコースト・ブルースといわれる、アメリカ東部地方のブルースを考えるとき、ウィリー・ウォーカー( Willie Walker)Vo&gという、どうしても忘れてはならない人がいる。資料によると、録音したのは1930年12月にジョージア州アトランタでサム・ブルックス(Sam Brooks)backVo&gと組んでの4テイクだけで、その内で当時リリースされたのは2テイクのみ。なので、今のところ我々が聴くことが出来るのはオムニバスCDなどに納められたこの4テイクからの「South Carolina Rag」と「Dupree Blues」だけだ。

 ロバート・サンテリ著『Big Book Of Blues』によると、生まれはサウスカロライナで1896年というから、ゲーリー・デイビスと出身州も生まれ年も同じことになる。しかし、亡くなったのは早くて、同州のグリーンヴィルで1933年3月4日。なので、37歳位だったことになる。先天性の梅毒症で、生まれつき目も悪くBlind Willie Walkerとも呼ばれ、亡くなったのも同じ病だったという。


 オーストリアのDOCUMENTレーベルのCD5062。1927年から1930年までの古いラグタイム・ギターの演奏を集めたオムニバスの名盤。ウィリー・ウォーカーが3曲入っている。その中で、マトリックス・ナンバー(原盤の通し番号)は「Dupree Blues」が151063-1、「South Carolina Rag」(take-1)が151065-1で、同じく(take-2)が151065-2になっている。そこから推測すると、「Dupree Blues」に、-2という別テイクがあった可能性が強い。が、ナンバーが飛んでいるのも気になるところ。
 
 YAZOOのオムニバスCD『East Coast Blues』解説によると、ウィリー・ウォーカーとサム・ブルックスの二人は、1920年頃からコンビを組みサウスカロライナ州のグリ-ンヴィルで活動していたという。そして、多くのイーストコースト・ブルースマンに大きな影響を与えた。ちなみに、やはりサウスカロライナで1914年に生まれたブルースギタリスト、ジョッシュ・ホワイト(Josh White)はウォーカーの演奏をじかに聴いており、次のように語っている。
 「He was the best guitarist I've ever heard・・(彼は、わたしが聞いた中で最も優れたギタリストだった)」『Max Jones, Josh White Look Back,Part2,[Blues Unlimited,56](September 1068),P16.』

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わたしのレコード棚ーブルース 117 Pink Anderson

2021年02月01日 | わたしのレコード棚
 ピンク・アンダーソン( Pink Anderson)は、本名Pinkney Anderson。1900年2月12日サウスカロライナ州ローレンス(Laurens)に生まれ、1974年10月12日に同州スパルタンバーグ(Spartanburg)で亡くなっている。この人は、生まれつき芸達者だったようで、子供の頃からスパルタンバーグの近くの路上で歌ったり踊ったりして小銭を稼いでいたらしい。1915年頃から、というから15歳の頃にはメディシン・ショー(薬を売るために人を集める役割を負うショー)に参加して旅回りをしていたという。それは、1950年代半ばまで続いたが、病を得て引退。その後、1960年代に入り「フォークムーブメント」が起こり、「再発見」されるに至った。ちなみに、ロックグループのピンクフロイドは、この人の名前からそのグループ名を頂いているらしい。


 Fantasy社のRIVERSIDEというレーベルのCD148。Gary DavisとのカップリングCD。東部ピードモントブルースを代表する二人のブルース・ゴスペル・ミュージシャンということでこの様な編集になったと思われる。
 ピンク・アンダーソンは1950年5月29日ヴァージニア州Charlottesvilleで録音された7曲を収録。比較的早い時期の録音なので、声にも張りがあり、ギターの音にも力がこもっている。アンダーソンの録音経歴を調べたところ、1928年に当時コンビを組んでいたSimmie Dooney(1881~1961)とコロンビアへ4曲吹き込んでいる。が、これは残念ながら我が家にはない。
 ゲーリー・デイビスは1956年1月29日ニューヨークでの8曲で、こちらも録音時60歳に近い年齢ながらも、若々しく且つ円熟味もある演奏を聴かせてくれる。私が好きな1枚。


 これが、S.チャータースが、サウスキャロライナのスパルタンバーグでフィールド録音に近い形で収録した、やはりFantasy社のレーベルBLUESVILLEのCDOBCCD-504-2。我が家には、このCDの元となったLP(BV1038)もあるが、LPの方は全部で10曲。CDは、ボーナストラックが1曲ついて全11曲になっている。


 上のCDを録音した際に、S.チャータースが、サウスキャロライナのスパルタンバーグで当時の8ミリフィルムのようなものを使って撮影したと思われるフィルムからの映像をデジカメで撮ったもの。子供に教えているところで、アンダーソンの自宅前と思われる。画像はかなり不鮮明。


 1970年にノースカロライナで撮られた映像。『Blues Up The Country』(VESTAPOL13037)というヴィデオから、テレビ画面をデジカメで撮った一枚。70歳の頃で、すでに衰えは隠せないが、好々爺として親しみが持て、貴重な映像ではある。

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わたしのレコード棚ーブルース116 Baby Tate

2021年01月28日 | わたしのレコード棚
 ベイビー・テイト(Baby Tate)は、本名チャールズ・ヘンリー・テイト(Charles Henry Tate)。生まれは、1916年1月28日ジョージア州エルバートン(Elberton)。亡くなったのは、1972年8月サウスカロライナ州コロンビア(Clumbia)で、心臓麻痺だったという。
 下のCDは、1961年8月にサウスカロライナ州のスパルタンバーグ(Spartanburg)という所でサミュエル・チャータースがフィールド録音したもの。チャータースは、ピンク・アンダーソンを録音するためにスパルタンバーグを訪れた際に、偶然、アンダーソンの近くに住むテイトを発見したという。なので、おそらくは、そこがベイビー・テイトが長く生活の拠点としたところだったと思われる。CD の解説によると、1925年頃にはジョージアからサウスキャロライナのグリーンヴィルに移り、さらに1954年にスパルタンバーグに移住したという。


 BLUESVILLEレーベル原盤で、P-Vainが国内販売したCD、PCD-1963 。ベイビー・テイトのギターとヴォーカルで、全12曲を収録。


 S.チャータースが、サウスキャロライナのスパルタンバーグで撮影した映像『The Blues』から、テレビ画面をデジカメで撮影。おそらく上のCDと同じ所で、テイトの自宅前と思われ、奥さんや子供たちと思われる人たちも後ろに映っている。上のCDを録音した際に、S.チャータースが、当時の8ミリフィルムようなもので撮影したと思われる。画像はかなり不鮮明。

 我が家に、この人に関する資料は少なく、インターネットで調べた資料と、鈴木啓志氏が1994年に書いたCDの解説を参照して書いておくことにする。まず、CD解説には「・・音楽活動を断念したことはなく、キャロライナのブラック・コミュニティ、あるいは白人聴衆に向かって歌い続けていたのである。」と、ある。
 ウィキペディアによると、第二次世界前は、グリーンヴィルで、Joe Walker(Willie Walkerの兄弟)やRoosevelt "Baby" Brooksとトリオを組み、地元のラジオ局などで演奏。戦争中は陸軍に入隊しイングランド南部へ、戦後はスパルタンバーグでピンク・アンダーソンなどとも演奏していたという。1961年に、上のCDに収められている録音が出てからはアメリカ中を広く演奏活動した。1970年から’71年にかけて、Peter.B.Lowryという人のプロデュースで60曲近くを録音したが、これは残念なことにリリースされなかった。

 音楽的には、やはり東部ピードモント・ブルースの伝統的なスタイルを基礎としつつ、他の地域のブルースを吸収して自分のスタイルを作っている。ゲーリー・デイビスを想わせる音遣いの曲なども含み、なかなかのギター巧者で深みのあるブルースを聴かせてくれる。
 ギターの低音弦と高音弦をうまくからませて弾き語りをしてゆく、そんなカントリーブルースの伝統を受け継ぐミュージシャンは、めっきり少なくなった。ベイビー・テイトのCDも、今はもう国内盤は出ておらず、海外盤も入手しづらい状態のようだ。ギターの弾き語りは、良い言葉を選び抜き、良い音を出せれば、テーマを広く取りやすく人生の深いところまで表現できる、と信じている。優れたミュージシャンの歴史的録音が残り続け、若い人たちが生きる上での一助になることを願うばかりだ。

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わたしのレコード棚ーブルース115 Sidney Maiden

2021年01月21日 | わたしのレコード棚
 シドニー・メイデン(Sidney Maiden)は、前回の「わたしのレコード棚ーブルース114」で取り上げたK.C.ダグラス(ギター)と共に西海岸で活動した、ヴォーカルとハーモニカ・プレーヤー。生没年など詳しいことは分かっていないが、生まれたのはルイジアナ州で1917年か1923年。1940年代初頭に、カリフォルニアに移動し、そこでK.C.ダグラスなどと出会い、副業としてナイトクラブなどで二人あるいは小編成のバンドでダウンホームなブルースを演奏していたという。亡くなったのは1987年か、あるいは1970年としている資料もある。
 

 BLUESVILLEレーベルの原盤(BV1035)をP-VainがCD化し、1994年にPCD-1969として国内で発売した『Trouble An' Blues』。録音はカリフォルニア州バークレーで、1961年4月。ギターのバッキングをしているのはK.C.ダグラス。実はこれ、CD評を担当した時にP-Vainから貰ったもの。ただし、CDのプレスが間に合わず、貰ったのはカセットテープ。今は、CD-Rに落としてある。解説等は白黒のコピー。なので、画像が少し見にくいが、ご容赦願いたい。
 ライナーノーツには「Mouthharp」となっているが、使っているハーモニカは10穴のいわゆるブルースハープだろう。それを吹きながら、しっかりと歌うことが出来る人は、なかなか少ない。スタイルはけっこう多様で、サニー・ボーイ・ウィリアムソン#1を彷彿とさせるものや、サニー・テリー風のホーカム・ブルースもある。そこに、ダグラスのミシシッピーのカントリースタイルギターと相まって、なかなか味わいのある演奏になっている。

 以下に『ブルース&ソウル・レコーズ No.2(1994年9月)』に、斎藤業の名で書いたわたしの記事を、我田引水ながら載せておく。

『シドニー・メイデンのハーモニカと歌にK.C.ダグラスがギターをつけている全12曲。「アメリカ南部の田舎の街角から聞こえてくる素朴なブルース」といった印象を受けたが、これは61年カリフォルニア州バークレーでの録音。ルイジアナ生まれのメイデンとミシシッピー生まれのダグラスは、職を求めて西へと渡り歩き、45年頃カリフォルニアで出会いコンビを組んだという。ブルース好きな人ならどこかで聞いたことがあるメロディにメイデンが詞を付けた曲がほとんどだ。ダグラスのギターのチューニングが少しずれていてホンキートンク・ピアノみたいな音になっているが、これはギター自体に狂いがあったためだろう。3000Km離れた故郷を想いつつ演奏されたアクのあるブルースに耳を傾けるのもオツなもの。
 ブルースヴィルは白人のための録音といわれるが、60年代に異なるコミュニティに属する人達が接点を求め合った記録、と言うことも出来るだろう。勇気あるエンジニア、プロデュサー、ミュージシャン達、そして聴衆の人達にも、拍手。』

 少し補足しておくと、このCDが録音された1960年代は、公民権運動が始まって黒人・白人間の対立が深まり、フィールド録音などでも危険を伴うことがあったのだ。一方で、いわゆるフォークムーブメントという、アコースティックな弾き語りが流行った頃でもあり、古いスタイルのカントリー・ブルースも多く録音された時代だった。シドニー・メイデンもそんな幸運に恵まれた一人だったと言える。しかし、この録音などの後、ほとんどその事跡は分からない。死亡地も、インターネットなどでも調べてみるとアリゾナ州としていたりするが、ほとんどわかっていないのが実情だ。


 ACEというイギリスのレーベルのLP、CH247。BLUESVILLEに残された音源から、フォークブルースの16組のミュージシャンそれぞれ1曲ずつ計16曲を選んで編集された名盤。シドニー・メイデンやK.C.ダグラスを含み、フォークブルースを知るには良い編集になっている。ちなみに、BLUESVILLEというレーベルは、母体がPRESTIGEというジャズのレーベルを制作しているFantasyという会社で、そこがブルースファン向けに作ったのがBLUESVILLEだった。


 LP裏面。

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わたしのレコード棚ーブルース114 K.C.Douglas

2021年01月14日 | わたしのレコード棚
 K.C.ダグラス(K.C.Douglas)は、1913年11月21日ミシシッピー州のマディソン(Madison County)郡で生まれ、1975年10月18日にカリフォルニア州バークリー(Berkeley)で亡くなっている。生まれた所はミシシッピーの州都ジャクソンの北25マイルの所ということで、下のアーホーリーLP解説によると、若い頃はジャクソンのブルースマン達と音楽活動をしていたらしい。特にジャクソンを代表するブルースマンであるトミー・ジョンソンとは、1940年頃にジャクソンからデルタ地方を共に回って演奏したこともあるという。なので、やはりトミー・ジョンソンからの影響は大きく、CDのタイトルでもある「Big Road Blues」はそのままジョンソンの曲だ。
 1945年、すなわち第二次世界大戦が終わる頃には、ミシシッピーから西へと移動。サンフランシスコ湾で港湾関係の仕事をして生計を立て、その合間にバンドを組んだりしてブルースを演奏し、そのままカリフォルニアで亡くなっている。ブルースマンの中には北のシカゴを目指すのではなく、ダグラスの様に、西に向かった人も少なからずいる。寒いシガゴを忌避して西海岸で仕事を得ることを考えたようだ。


 BluesvilleのCD1050。1961年のギターとヴォーカル、単独での11曲を収録。フォークムーブメントの頃で、アコースティックな音作りになっている。この人は、なかなかに器用な勉強家だったようで、シカゴで活躍したミュージシャン、トミー・マックレナンやビッグ・ビル・ブルーンジーの曲を演奏して、面白いアレンジになっている。
 

 ARHOOLIEレーベルのLP1073。A面6曲は1973年11/17の録音で、アコースティックギターによる一人での演奏やハーモニカとの演奏。B面5曲は1974年1/26で、さらにエレキギターによるスライド奏法でのバッキングや、ドラムスが入ったバンド演奏になっている。録音場所は、ARHOOLIE Houseと書かれているので、カリフォルニア州のバークリーにあったアーホーリーのスタジオのようなところだったようだ。ハーモニカを演奏しているのはリチャード・リギンズ(Richard Riggins)という人で、かなりなテクニックで優れたバッキングをしている。この隠れた名手とも言えるチャード・リギンズについて、LP解説には、1921年7月1日ミシシッピー州Tupeloの出身で、1963年にオークランドに移ってきたとある。ダグラスと同様に、ミシシッピーから西へと移動してきた人だった。


 同LPの裏面。


 LP裏面の写真を大きく切り取ったもの。見てわかるとおり、バンドでの演奏しているところで、ダグラスは立ってエレキギターを弾いている。


 ハーモニカ・ヴォーカルのシドニー・メイデンの1961年録音のCDで、Bluesvilleレーベル1035をP-Vainが日本向けに発売したもの。全12曲で、ダグラスがギターを演奏している。

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わたしのレコード棚ーブルース113 Blind Blake

2021年01月07日 | わたしのレコード棚
 ギターとヴォーカルのブラインド・ブレイク(Blind Blake)に関しては、不明なことも多く、語るのは簡単ではない。が、ギター演奏に関しては、わたしのような凡人からすれば「超人的」とも思える音とリズムのコントロール能力を持ち、それを自在に発揮できたと感じられる録音を多く残したミュージシャンだった。
 本名は、Arthur BlakeあるいはArthur Phelpsらしい。生没年やその場所もはっきりしないが、生まれは1890年代前半でフロリダ州で、亡くなったのは1933年か1934年頃でフロリダとしている資料が多い。比較的新しい資料といえるジャス・オブレヒト著『9人のギタリスト(原書は[Early Blues]で2015年刊)』では、2011年に発見された死亡証明書の記載から1896年生まれで、1934年12月1日にヴァージニア州のニューポートで肺結核で死亡、としている。同書によると、パラマウント・レコードが1932年に潰れた後「ブレイクは人生最後の二、三年間をウィスコンシン州のミルウォーキーのブロンズヴィル北十丁目一八四四B番地で、一九三一年に結婚したビアトリス・マギーと暮らしていたようだ(P131)」と、述べている。死亡証明書の職業欄には「無職のミュージシャン」と記載されていた、という。その頃にはミュージシャンとしての仕事も収入も無かった、ということだろう。今では考えられないことだが、レコードがいくら売れても、それに見合うロイヤリティ(著作権料などの保証)は無く、経済的な安定は望めなかったのだろう。それでも確かに言えることは、1920年代半ばにシカゴに出て様々なミュージック・シーンで活躍し、パラマウント(PARAMOUNT)レーベルに多くの録音を残した、ということだ。

 残された音源から、一応、ブルース・ラグタイムのミュージシャンとはなる。が、音感が良くピアノなども演奏出来たらしく、様々な音楽に対応し、大恐慌前後のパラマウントにおいて多様なミュージシャンのバックも務めている。残された録音を聴いてみても、単なるブルーノート・スケールではなくて、後のロニー・ジョンソンに影響したと思われる様な多彩な音遣いで、ジャズの要素も感じさせる。また、ビッグ・ビル・ブルーンジーへの影響も大きく、ブルーンジーの『Brown Skin Shuffle』はブレイクの『West Coast Blues』のアレンジだ。リズムは、シャフルと言うよりも、イースト・コースト・ブルースの伝統的な2ビートに近いラグタイムが基本で、後のジャズに近いものも多い。

 当時のパラマウントの同僚とも言えるテキサス出身でスライド奏法も弾くブラインド・レモン・ジェファーソンとは、ギターもヴォーカルもスタイルが異なる点が多い。が、歴史的にみると、この二人の盲目のミュージシャンが、これ以降レコード盤を通してブルースギターを広く知らしめ、強い影響力を多くのミュージシャンに与えたことは疑いない。

 そのあまりの器用さゆえか、今では「ギター・ソロの教則本に出てくる昔の人」程度にしか評価されていないような気もする。しかし、才能ある若いプレーヤーには、ジャンルを問わず聴いて欲しいミュージシャンの一人だ。


BIOGRAPHのLP、BLP-12037。


同じくBIOGRAPHのLP、BLP-12050。ジャケットの写真は、パラマウントが宣伝用に撮ったものといわれ、ブレイクのものとしては現在確認されている唯一の写真。下に書かれているサインは、パラマウントの誰かが代筆したものと思われる。


P-VainのCD2436。


YAZOOのCD1068。


オーストリアのDOCUMENTレーベルのCD5025。


P-VainのCD3760。このCDが雑誌『Blues &Soul Records.Vo7(1995年9月号)』に紹介された時に、CD評をわたしが書いたので、その時にもらったもの。

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わたしのレコード棚ーブルース112 Lonnie Pitchford

2020年12月24日 | わたしのレコード棚
 ロニー・ピッチフォード(Lonnie Pitchford)は、1955年10月8日にミシシッピー州のレキシントン(Lexington)の生まれ。わたしより1歳少し年長で、ほぼ同世代、と言えるだろう。しかし、1998年11月8日に亡くなっている。43歳の若さだった。エイズだったともいわれ、ブルースマンとしては、これからだったのに惜しいミュージシャンだった。


 SouthlandというレーベルのLP、SLP21.写真左がピッチフォード。1984年、アトランタでのライブ録音6曲を収録。その内4曲は、ジャケット写真に写っている自作と思われる弦が1本だけのワンストリング・ギターを使った曲。ディドリー・ボウを改良したものとも言えるが、今となっては貴重な録音となった。残りの2曲は、エレキギターを使ったロバート・ジョンソンの曲で、かなり細かいところまでコピーされ、その上で独自色を感じさせる。この時、ピッチフォードは29歳だった。いずれ、ミシシッピーブルースの伝統を受け継ぎ、ブルースの未来を背負うべき人だったのだ。


 P-VINEのヴィデオ『Deep Blues』。このDVDの最後の方で、ディドリー・ボウを演奏する姿や、アコースティックギターでロバート・ジョンソンの『If I Had Possession Over Judgement Day』と『Come On In My Kitchen』を演奏するところが収められている。


 VESTAPOLレーベルのヴィデオ13078。下の写真2枚は、このヴィデオの映像をデジカメで撮ったもの。


 柱に釘を2本打ち針金を張ってディドリー・ボーにして演奏しているところ。


 やはり、自作と思われるワンストリング・ギターを使って演奏しているところ。よく見るとピックアップが付けられていて、電気増幅ーつまりアンプから音を出せるようになっているようだ。この人は、なかなか器用だったようで、自分なりに楽器を工夫して創作していたようだ。

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わたしのレコード棚ー『Songcatcher 』

2020年12月17日 | わたしのレコード棚
 2003年秋、渋谷の道玄坂の路地裏にあった小さな映画館に『歌追い人』という映画を観に行った。その時に、映画館で購入したCD『Songcatcher』を最近聴き直していて、その良さを改めて感じたので書いておくことにする。


 有料パンフレットの表紙。アメリカ映画で、製作年は2000年。原題は『Songcatcher』。監督・脚本は、マギー・グリーンフィールド。音楽監督・作曲・トラディショナルな曲のアレンジ等は、監督の夫でもあるディヴィット・マンスフィールド。主演はジャネット・マクティア。
 映画の舞台となっているのは、1907年ノースカロライナ州のアパラチア山脈の奥深く。一人の女性音楽学者が、失われていたと考えられていた古いアイリシュ・ミュージックに出会う。それらを、困難を伴いながらも録音・採取しようとする姿を通じて、バラード(物語り歌)を中心にしたオールドタイム・マウンテン・ミュージックと呼ばれるアイルランドやスコットランドに起源をもつ音楽のすばらしさや、当時のアイルランド移民に対する偏見・差別、更には女性や同性愛に対する偏見をも映画の中で語り進めてゆく・・。


 これが、映画の中で使われた音源6曲に、エンディング曲のエミルー・ハリス、さらにドリー・パートンなどが歌うオールドタイム・マウンテン・ミュージックを加えた全16曲を収録したCD。2001年にVanguardから発売されている。
 ブルーグラスやカントリーミュージックの起源といえるマウンテン・ミュージックだが、ポピューラーになるにしたがってその素朴さが失われるのは、ある意味必然なのだろう。しかし、そこからさかのぼってオリジナルな民間伝承された民俗音楽の良さを再認識出来れば、それはそれでよいのではないだろうか。このCDを聴き直して、そんなことを考えた。
 


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