文化逍遥。

良質な文化の紹介。

スティーブン・エモット著『世界がもし100億人になったなら』(2013、マガジンハウス刊)

2017年11月05日 | 本と雑誌
 最近、図書館から借りて読んだ本の中からの一冊。著者は、オックスフォード大学などの計算科学及び計算生物学の専門家。



 標題を見れば、大よその内容は察しが付く。が、正確な数字で危機に満ちた将来像を予測されると、やはり怖くなる。そして、それは今のままでは、ほぼ確実にやってくる。次の、あるいは次の次の世代が、確実に蒙らなければならない、破壊された環境に対する負担。それは「社会的コスト」ともいわれるが、これから生まれてくる子供達は、負の遺産を背負って生まれてくるようなものなのだ。なんとか、化石燃料や金属、さらには水などを異常に消費する文明を止める手だてを講じる必要があるが、現状では危機感があまりに乏しい。
 わたしは、個人的には太陽光や風力などによる発電、つまり「再生可能エネルギー」を有効に拡大利用できる科学技術に一縷の望みがあると考えていた。しかし、この本によると、太陽光パネルや畜電池の製造に必要な金属・レアアースを採掘することは環境に対する負荷の方が大きく、太陽光パネルの製造に欠かせない三フッ化窒素は極めて強力な温室効果ガスだという。悲観せざるを得ない、と暗い気持にもなる本だが、多くに人に読んでもらい、共に未来の環境について考えたい。

「・・・今のままのペースで子どもが生まれ続ければ、今世紀末までに世界の人口は100億人になるどころではありません。

280億人になります。・・・

よほどの馬鹿でないかぎり、地球が支えられえる人口には限度があることは否定しないでしょう。問題は、それが70億(現在の人口)なのか100億なのか、280億なのか、ということです。もう限度を超えている、とわたしは思います。それも大きく超えていると。

今わたしたちが置かれた状況は変えられます。科学技術の力で切り抜けることはおそらく無理だとしても、わたしたちの行動を根本から変えることによって。

しかし、それが起こっている様子も、これから起ころうとしている様子もありません。わたしたちはこれからも、たぶん何も変わらないでしょう。・・・」
(本文P195~より抜粋) 

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水野忠興著『秋の蝉』(2017年近代文芸社刊)、『ようこそ心療内科へ』(2002年近代文芸社刊)

2017年09月19日 | 本と雑誌
 最近、図書館から借りて読んだ本の中から、同じ著者による二冊。



 著者は、1942年生まれの心療内科医。この本は「自伝」で、書き上げたのは平成6年(1994年)というから、すでに23年たっている。フロッピーに保存されていたものを、今年になって上梓するはこびになったという。
 戦後に、複雑な家庭で少年期から青春期を過ごし、中学生で新聞配達をし、後、横浜国大で経済学を専攻、さらに横浜市大で医学を学んだという。つまり、二つの大学をでて、最終的に医師になった波乱に富む半生が描かれている。読み物としてとても面白かった。
 副題に―砂の器はだれが書いたか―とある。この人の叔父にあたる人に、庄野誠一という作家・編集者がいて、その人についてかなりページを割き詳しく語られている。内容は、どこまで真実か今となっては確認することもできないが、興味深いことに、松本清張の『砂の器』を実質的に書いたのは、その庄野誠一だった、というのだ。本文中には「ブラックライター」という表現を使っているが、普通に言う「ゴーストライター」ではなくて大まかな筋書きなどは元の作家によるところのアシスタントに近いものだったのかもしれない。漫画家などで、ほとんどの作画をアシスタントに任せるのに近かった可能性がある。あえて言えば、影に隠れた「シャドーライター」とでも云うようなものだったのか。膨大な著作を出版する人気作家ともなると読者の知らない所で陰に隠れてルール違反に限りなく近い事が行われているのかもしれない。そう言われてみると、『砂の器』は、他の作品とは文体が微妙に異なる気もする。また『砂の器』は映画化もされているが、基本的なプロットが小説とはかなり差異がある。よく原作者がOKを出したものだ、と感じたものだったが、そのあたりに、遠因があるのかもしれない。



 こちらは、2002年の刊行だが、実質的には書かれたのは『秋の蝉』よりも後になる。「メディカルエッセイ」とあるように、日本医事新報に掲載された随筆を中心にして、一般読者向けに専門用語などを平易な言葉に換えて編集されている。読みやすく、医療の現場からの警告、とも感じられる話が多く興味深い。また、これからの超高齢化社会に向けて「心の準備」にもなりそうだ。遠くない日に、生きていれば確実に、自分も高齢者の一員になるのだから。

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藤倉一郎著『人類は地球の癌か』2010、近代文芸社刊、

2017年08月09日 | 本と雑誌
 台風5号が列島を縦断。今日8月9日長崎原爆の日は、東日本で台風一過の猛暑。東京でも体温以上の気温になりそうだ。冷房が無ければ、命が危うい異常な気温。科学技術がもたらした負の遺産。人々が素朴に暮らすツバル諸島では、海水が上昇してきて、満潮時には住居の近くまで迫りくる。そこの人が先日テレビで言っていた「俺たちが何をしたっていうんだ」。

 科学はもっと謙虚に、あるいは慎重に、検証しながらその技術を使うべきなのだ。急ぎ過ぎれば、他の種をも巻き込んで破滅に至る。

 おそらく後世から見れば、スマートフォンの普及が、科学技術による「人」のアイデンティティ崩壊に繋がる歴史的事件として認識される事になるだろう。すでに、スマートフォンの長時間利用により、頸椎に異常が出たり、難聴になったり、あるいは脳への悪影響が報告されている。人を傷つける「便利さ」がどこにあるのだ。
 医学においてもしかりだ。「樹を見て森を見ず」と云うが、病に薬や手術で対処する前にその人の生活それ自体に問題が無いのか、それをまず考えるべきなのは素人だってわかる。最近図書館から借りて読んだこの本は、そんなあたりまえの疑問を公にしてくれている。あたりまえのことなのだが、誰もそれを言おうとしない、そこに今の医学の根本的な欠陥があるのだろう。著者は、1932年生まれのベテラン心臓外科医。若い医師、あるいは広く科学者にも読んでもらいたい著書、と感じた。


「今日のように、長寿のみを目的とした医学は止めて、動脈硬化とか癌のような病気は放置しておく。医学が進み、予防医学が発展すれば医療専門家はほとんどが不要になってしまう。自分自身が自分の健康管理を上手にできるようになるからである。自分自身が自己の最良の医師となり、今日のような医療費高騰をなげく必要もなくなる。」(P89)

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神谷美恵子の著作

2017年06月10日 | 本と雑誌
 最近、近所の古本店で神谷美恵子の代表的著作である『生きがいについて』が200円で売られていた。本の題名だけ見ると、軽いエッセイのように思われるかもしれないが、個人的には戦後に出版された本の中でも非常に優れた著作であり、後世に伝えられるべき価値があると考えている。そんな思い入れのある本が、価値に比してあまりに安く、捨て売りのような扱いを受けていたようで、書いておく気になった。






 神谷美恵子(1914-1979)は、精神科医であり、教育者あるいは著述家でもある。父は前田多門、戦前のILO代表で、後に文部大臣。実兄の前田陽一はパスカルのパンセなどの翻訳で知られる東大の教授だった。父の仕事の都合で幼い頃よりヨーロッパで過ごし、そのため後に語ったところによると日本に帰ってきてからも、考えるときはフランス語だったらしい。語学に堪能だったので、マルクス・アウレリアスやミシェル・フーコーなどの翻訳もものしている。
 この人の偉いところは、これだけ恵まれた環境に育ち、自身の才能にも恵まれながら、大学など研究機関に埋没することなく一人の精神科の医師として瀬戸内海のハンセン病医療所で医療活動に従事(1958-1972年)、閉鎖的な場で病と向きあう人びとと共に過ごし、医療活動を続けたことだった。その中で、同じ境遇にありながらも、日々を生きるのに苦しむ人と、生きがいを見いだせる人とが存在していることに気付き、その人の得ることのできる「存在価値」ということに着目して書かれたのが『生きがいについて』(1966初版、1980年みすず書房)だった。『人間をみつめて』(1971年初版、1974年新版、朝日選書)は、その続編とも云える著作。

 哲学は、その昔「対話」だった。異なる認識を対話により新しい価値へと導く、のが基本だったはず。「弁証法」と訳されるのは、ドイツ語でDialektik、英語ではdialectic。両方ともギリシャ語のdialektos「対話」が語源。プラトンの著作は「対話編」と呼ばれるが、『国家』などを読むと「対話」というより「論駁」に近く、後のアカデミズムに繋がる萌芽がすでに内在している。

 神谷美恵子の著作には、本来の哲学が持っていた態度に近いものがあるように感じる。岩波文庫に入れて欲しい著作。

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長尾和宏著『薬のやめどき』2016年ブックマン社刊

2017年06月05日 | 本と雑誌


 著者の長尾和宏医師の著作に関しては、2014年にもこのブログで取り上げた。今回の『薬のやめどき』は半年ほど前に出版されたもので、図書館に予約しておいたのだが予約件数が多く、やっと順番が回ってきて読むことが出来た。

 自宅で母を看取ってから3年になる。今でも、投薬については辛い記憶が残っている。ムコダインという痰をとる薬で水疱などの副作用が出たのに気付くのが遅れたこと。さらに、感染症に対する抗生剤による治療をいつ辞めるべきなのか、それを判断しなければならなかったことなどだ。医療関係者は宿命的に延命を優先することが多く、家族も投薬することで役割を果たしているように考えてしまう事が多い。しかし、死は避け得るべくもなく、いつか必ずやってくる。必要以上の延命は苦しみが多いだけで、益がない。母も血管が弱って点滴が出来なくなり、それ以前に抗生剤を経口投与した際、口内が荒れるなどの副作用が顕著になってきたため医師に治療の中止を申し入れたのだった。医師は、筋肉注射をしたかったようだ。はたして、あれで本当によかったのか、今でも考えるときがある。看取りの専門医ともいえる長尾先生のこの本は、そんな時にひとつの指標―少なくとも参考にはなってくれるだろう。

 また、著者は抗認知症薬の過剰投与にも警鐘を鳴らし続けており、2015年11月の発足した「一般社団法人抗認知症薬の適量処方を実現する会」の理事も務めておられる。母も、ドネペジルという抗認知症薬をほぼ死ぬまで飲んでいた。母の場合この薬が体質に合っていたようで、怒りやすくなったこともあったが重篤な副作用は感じられず、むしろ認知機能の改善・維持に役だっていたと思う。が、人によってはかなりな副作用が出て、それが薬による異状と気付かれずに家族が崩壊する事例もあるという。会のホームページを読むと、医師や患者家族からの様々な実例が載っている。抗認知症薬に限った情報だが、介護に関わる人は読んでみても損はない。その中にある、ある医師の報告にハッとさせられたので少し引用しておく。

「・・・多くの医師が患者の身体と対話できないのだから、ドネペジル10mgまで増やすという指示は犯罪的である。厚労省が、この状況がわからないなら財務省に薬の無駄使いとして訴えるしかない。」(「抗認知症薬の適量処方を実現する会」のホームページより)

 参考までに、ドネペジルという薬は3mgから始めて2週間後に5mgに増量する厚労省による規定があり、さらに重症の場合10mgに増量するとされている。つまり、3mgで十分効いている人でも増量しなければならないわけだ。現代の医療が抱える病理のひとつがここにもある。ただし現在は、同会の活動等により少量投与を容認するようになってきているとのことだ。
 それにしても、“多くの医師が患者の身体と対話できない”というのは言い得て妙だが、わたしも常々感じていることでもある。これを、現場の医師の言葉として日本の医学界全体が重く受け止めてもらいたい。特に、医療・介護に関わる人を教育すべき機関は信頼に足りうる医療者・介護者を育成することにもっと心をくだいてもらいたい。わたしも、還暦になり様々な体の異常を感じる様になってきたが、信頼できる医者に巡り合えず「自分の体は、自分で守るしかない」というのが今の実感だ。

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松尾修著『高遠旅石工たちの幕末』2016年講談社エディトリアル刊

2017年05月19日 | 本と雑誌
 今年に入ってから、ひどいドライアイと眼精疲労で読書を控えていたが、このところやっと少し症状がやわらいできた。というわけで、最近、図書館から借りて読んだ本の中から印象に残ったものを一冊。

 

 松尾修著、小説『高遠旅石工たちの幕末』。著者は公務員の方で、仕事の傍ら信州を題材にした小説を執筆しているという。「高遠」は、現在の長野県伊那市北東部あたりの旧名。江戸の昔は、山地が多い信州辺りでは農業に代わる産業として石の加工などが奨励されており、多くの名工を出したという。そんな、優れた技術を持つ石工たちも農閑期などには旅をして各地で石仏などを彫っていたという。この本は、「高遠旅石工」の幕末期における旅とロマンのストーリーになっていて、読みやすく史実に題材をとった内容は興味深かった。ただ、主人公嘉助の人格が完成され過ぎているようにも感じたが、そこは、まあ、あくまで小説という事で楽しみたい。

 実は、わたしの母方の祖父に当たる人が千葉の外房の田舎町の石工だった。そのこともあり、昔の石工の生き様には興味があったのだ。この祖父は明治13年の生まれで、私が生まれるかなり前、昭和18年に亡くなっている。なので、実際にその働きぶりを見たこともないが、亡き母から聞いた話によると、毎朝炉に火を入れ、鞴(ふいご)で風を送っていたという。長年、石工がなぜそんなことをしなければならないのか疑問だったが、この本を読んで納得した。今でこそ、電動機器で石を彫るが、昔は石を鑿(のみ)で彫るため道具類が欠損する。それを修復するために石工には鍛冶の技術が必要だったのだ。逆にいえば、自分の道具を作れなければ一人前の石工職人とは言えない時代があったのだ。
 また、祖父も千葉の外房から東京方面に出て仕事をすることも多く、家にはあまり居なかったとも母は言っていた。それが、地元に仕事が少なかったためか、あるいは人手が足らないために乞われて行ったのかは分からない。おそらく、その両方の場合があったのだろう。なにしろ、明治・大正の頃と言えば、鉄道は蒸気機関車で、総武本線は両国が終点だったのだ。一度稼ぎに出れば、簡単には帰ってこられない。

 以前、学生時代の友人たちと群馬県の温泉によく行っていた。山道を歩いていると、道祖神などに出会うことも多かった。特に、沢渡温泉では、旅の石工が漂泊してきて掘ったという石仏群が川沿いに並べられていた。当時、すでにかなり傷んでいたので、今はどうなっているかわからない。あの、石仏達も、ひょっとしたら高遠旅石工の手によるものなのかもしれない。下の写真は、川原湯温泉の近くで道端にたたずむ道祖神を2000年11月に撮ったもの。千葉市にも旧街道などに道祖神はあるが「道祖神」と漢字で彫られているだけのものが多い。仲睦まじい男女の姿を硬い石に彫るのは、技術だけでなく精神性が必要だろう。名も無き職人達に感謝。



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三木卓著『裸足と貝殻』

2017年02月17日 | 本と雑誌
 このところの眼精疲労で、映画鑑賞や読書を控えていた。が、やはり本は読みたい。図書館には、数は多くないが「大活字本シリーズ」という文字を大きくした本のコーナーがあるので、その中から選んで読んでいる。読みやすく、目には楽なので、大いに助かっている。今回は、そんな大活字本シリーズの中から借りて読んだ一冊。三木卓著『裸足と貝殻』。単行本では500ページほどの小説だが、活字が大きくなるのでページが増えて上・中・下の3分冊になる。

 第二次世界大戦の敗戦にともない、旧満州から引揚船で母の郷里である静岡へ向かう少年「豊三」。満足に食事も摂れない中で、豊三一家は血縁の薄い親類を頼らざるを得ない。やがて、なんとか静岡での暮らしも落ち着き、豊三は地元の小学五年生に編入する。戦後の複雑で混乱した政治状況に翻弄されながらも、少しずつ大人になり、新制中学を卒業するまでの日々を綴った自伝的小説。
 やはり、この人の心理描写はすばらしい。読んでいて、思わず感心させられる。一方で、やはり大人から思い起こした少年時代なので、話がまとまり過ぎているようにも思われた。1999年、第51回読売文学賞受賞作。

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若倉雅登著『高津川』2012年青志社刊

2016年09月23日 | 本と雑誌
最近読んだ本の中から、印象に残った一冊。




 著者は1949年生まれの医師で、医療関係の著作も多い。同じ著者による、今年2月に刊行された『茅花(つばな)流しの診療所』を図書館で借りて読み、良く出来た小説だったのでこちらも読みたくなった。この本、何故か図書館には無くて、仕方ないのでアマゾンで探したところ新刊本は品切れ。古本で安く出ていたものを購入した。届いた本はピカピカで、読まれた形跡は無かった。最近そういうことが多い。流通の過程でこぼれ落ちた本が特価本として出回ることもあるが、近頃はネットに流れているのだろうか。あるいは、買っても読まずに売ってしまう人が多いのか。いずれにしろ、本を取り巻く状況が悪い方に変化しているようだ。

 さて、本の内容。「医療小説」ということで、『高津川』は明治期に実在した右田アサという女性眼科医を題材にとった小説。『茅花(つばな)流しの診療所』は、やはり明治期に19歳で医師となった尾崎マサノという女医の生涯を描いている。差別と偏見に立ち向かわなければ女性が医師になれなかった明治期。そんな時代に生きた二人の女性医師を描いた「史実をもとにしたフィクション」と言えるだろう。二人とも夭逝しており、女性としての幸は薄かったようだ。にもかかわらず読後感が良いのは、主人公を暖かく見守るように描かれているからだろう。

 お茶の水、ニコライ堂の坂の下にある「井上眼科病院」。JRお茶の水駅の聖橋口を出て数分、小川町方向のカワセ楽器に向かって坂を下りていく時いつも通る道筋にある。夏目漱石が通ったこともある古い病院であることは知っていたが、日本の眼科病院の嚆矢であり、眼科医の育成に貢献した程の医院だとは『高津川』を読むまで知らなかった。著者は、そこの名誉院長でもある。身近な所に、歴史は隠れているものだ。

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山本(曻地)三郎著『しいのみ学園』2009年改訂復刻KATI出版

2016年09月17日 | 本と雑誌
 2013年に107歳で亡くなった曻地三郎氏の代表的著作『しいのみ学園』。山本は旧姓で、この本の初版は1954年。図書館で借りてすでに読んでいるが、今回、改訂復刻版がネットで安く出ていたので、それを買って読み直した。



 著者の曻地三郎先生は、医学・哲学・教育学そして文学博士であり、自身の長男と次男が小児麻痺を患ったことから開園した「しいのみ学園」の園長を長く勤められ、障害児の可能性を信じ、研究・実践活動を続けた世界的にも有名な教育者で、晩年にはテレビ出演も多かった。
 この本は1955年に香川京子主演で映画化もされ、昭和30年代のベストセラーになったという。その後、続編が書かれ、正・続を合わせた再編集版が出て、さらにその後の子どもたちの消息をまとめた『しいのみの子供たち』が1979年に出ている。しかし一過性の人気に終わったのか、再編集して文庫化され再販される、ということもなく、残念ながら現在では古本として辛うじて入手出来る程度だ。

 子どもというのは、環境によっては残酷になったり温厚になったりする。それだけに、背中を見られている大人は日々の言動に留意すべきなのだ。この本を読むと、それを痛切に感じる。また、心を閉じていた障がいを持った子供が心を開いてゆく描写は、何度読んでも感動する。著者のマヒを負った長男の方は1976年に39歳で、次男の方は2002年にそれぞれ亡くなっている。学園の運営を手伝っていた長女の方も2003年に他界されており、それに先立ち1996年に奥さまも他界されている。家族全てを失いながらも、笑顔と活動力を失わず、100歳を超えても研究と公演活動に励まれた。私財を投げうって障がいを持つ子どもの教育に挺身することだけでも並大抵のことではないのに、家族を失った後も地道な活動を続ける。これには、実にどうも、頭が下がる思いだ。

 わたしがギターを学ぶ時もっともお手本した人はブラウニー・マギーという人だが、この人は子どもの頃小児麻痺にかかり足が少し不自由な人だったという。それにめげずに独自のギタースタイルを生み出し息の長い演奏活動を続けた。さらには、7月の相模原の事件、あってはならない障害者殺傷事件に対するネット上の肯定的な反応が多かったことを鑑み、あらためてこの本を多くの人に手に取ってもらい「人の持つ可能性」について知ってもらいたいと考えている。

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真継伸彦著『無明』

2016年09月05日 | 本と雑誌
 先月亡くなった真継伸彦氏の小説『無明』(1970年河出書房刊)を図書館から借りてきて読んだ。応仁の乱後の混乱の中、若い僧心源の苦悶と、そこから生ずる実存的問いを投げかける物語。

「・・・一切の情念を切りつくし、無情に徹してはじめて、私は無明の束縛を突破し、真の私、明なる無明に成りうるのではないか。」(p136)

 すでに半世紀近く前の小説で、現在の歴史認識と少しズレがある、と思われる記述もあるが、小説としては良い作品と思った。代表作といわれ第2回(1963年) 文藝賞受賞作である『鮫』も読んでみたくなった。

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木山捷平の詩

2016年08月20日 | 本と雑誌
 このところ詩人であり小説家でもあった木山捷平(1904-1968)の詩集を蔵書の中から引っ張り出して読み返していた。

 平易な言葉で、独り言のような、それでいて語りかけてくるような独特のスタイルを持った詩人だった。あまり知られていない存在だが、日本の現代詩の中で重要な詩人のひとりと個人的には考えている。
 かつて、「詩の時代」というものが、確かにあった。大正から昭和の終わり、金子光晴が亡くなる昭和50(1975)年頃までだろうか、多くの詩人が出て、詩の同人誌なども多く発行されていた。わたしが大学生の頃にはそんな時代も終わりをむかえようとしていた。ちなみに、詩の次の文芸では「評論の時代」といわれた。思い返すと、たくさんの詩、多くの詩人が出たが、時代を越えて読み続けられる質の高いものは少ない。詩である以上、言葉を弄ぶこと無く、地から湧き出るような普遍性を持っていなくては読み継がれることは難しいのだろう。

 思い入れかもしれないが、木山捷平の作品は読み継がれていくだけの価値があると思う。幸いにも、今では講談社文芸文庫からその作品の多くが発行されている。多くの人に手にしてもらいたいものである。

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『心』小泉八雲著平川祐弘訳2016年河出書房新社刊

2016年07月25日 | 本と雑誌
 「1895年9月15日 神戸にて」小泉八雲が英語で著した『心―日本の内面生活がこだまする暗示的諸編』の個人完訳が今年の5/30河出書房新社より刊行された。それを図書館で見つけたので借りてきて、わたしの蔵書の中にある平井呈一訳と少し読み比べてみた。かなり詳細な註が付いており、当時の社会状況や世相が理解しやすく、また英語の原義にかなり気を使って約されている、と感じた。

 さて、冒頭の「心」に対する八雲自身の説明文の中で「心―kokoro(heart)」の内面性として意味するところを次のようにまとめている。
『この言葉は、「心情」heartだけでなく情緒的な意味における「心意」mindをも意味し、「精神」spirit、「勇気」courage、「決心」resolve、「感情」sentiment、「情愛」affectionをも意味する。そして「内なる意味」inner meaningをも意味する。』
 これは、極めて大切な指摘だ。逆に考えれば、「心」と訳される時、原語ではかなり限定された意味を持つものなのに、あいまいにされてしまう可能性がある。特に、宗教性の強い「spirit」と科学的思考の対象となる「mind」は混同されやすく、時には故意にいっしょくたにしているのではないか、と思われるような翻訳もある。

 「心のありかた」の変遷と欧米文化との比較を考える上で、今読んでも大変有用な著作と感じる。
 

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大西暢夫著『津波の夜に―3・11の記憶』2013小学館刊

2016年07月08日 | 本と雑誌
 最近、図書館で借りて読んだ本の中から印象に残った一冊。著者はフリーのカメラマンで、著作も多い。この本は、東北への支援活動の傍ら取材した人達の震災後1~2年たってからのインタビュー記録となっている。

 この本を読むと、命が助かった人の多くに共通しているのが「偶然」であったことに驚かされる。避難所やそこに向かう途上で、たまたま流れ着いたり、何かにしがみついたりと、偶然に命拾いしたとしか言えない人が多かったらしい。この本は、つまるところ運良く助かった人たちの証言と写真で構成されている。しかし、そうして助かった人たちの「生」もまた辛く厳しいものがある。眼前で家族や知人友人が亡くなり、あるいはその亡骸を見ながら生活の再建をしなければならない。仮に自分だったら心のバランスを保てるだろうか、と思う。写真に関しは、さすがはプロのカメラマン。写真そのものもさることながら、シャッターを切るのが辛いと思われる人や津波の傷跡をしっかりとした構図と、的確な光を捉えて撮っている。

 

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中川右介著『戦争交響曲―音楽家たちの第二次世界大戦』朝日新書2016刊

2016年06月06日 | 本と雑誌
 最近は本を買うことがほとんど無く、もっぱら図書館で借りての読書だが、どうしても手元に置きたい本や早く読みたいものも稀にある。今回買って読んだのもそんな本で、この4月に出たばかりの新書だ。



 帯を見ただけでクラッシック音楽が好きな人ならおよその内容が想像できるかもしれない。わたしはと言えば、クラッシック音楽には疎いのだが、第二次大戦前後のヨーロッパで音楽家達がどのような行動を取ったのかは興味深いところ。独裁者の恐怖政治の中でミュージシャンはどんな行動を取るべきなのか、重い選択が演奏家や指揮者に迫られた、そんな時代。時の政府に加担した者、あるいは演奏そのものを拒否してパルチザンに加わった者。様々な演奏家あるいは指揮者100人ほどがこの本には取り上げられている。時代のうねりの中で、結局は時の政府に音楽が利用され消耗してゆく姿が描かれていて、400ページ近いが引き込まれて読んだ。

 著者は音楽誌などの編集・発行に長く携わった人で、多くの史料に当たり1冊の本にまとめる編集力には頭が下がる思いだ。全体に、記録文学というよりは、「史実に基づく小説」として読んだ方が良いように感じた。

 

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小林照幸著『死の貝』1998年、文芸春秋社刊

2016年05月19日 | 本と雑誌
 書名からすると貝の話のように思われるが、本の内容は寄生虫の話である。
わたしが小学校低学年の頃(昭和30年代後半)までは、学校で寄生虫の検査が定期的に行われていたものだった。具体的には、検便や朝起きた時に肛門にシールを張って寄生虫の卵があるかを確認するもので、卵が見つかった場合は駆虫薬いわゆる「虫くだし」を飲んで回虫などを駆除した。その後、水洗トイレや下水道の普及などにより昭和40年代に入るとほとんど寄生虫の感染は無くなったようだ。

 この本で取り上げているのは「日本住血吸虫」という人や家畜など多くの動物の血管に住み着く寄生虫で、その発見から撲滅に至るまでのルポルタージュと言える。日本住血吸虫は、感染すると腹が膨れ、あるいは成長を阻害し、時に死に至らしめるという恐ろしい寄生虫で、地方によってはかなり深刻な被害が出たという。そして、その寄生虫の孵化から幼虫―成虫に至る過程で、「宮入(みやいり)貝」という数ミリの小さな貝が中間宿主であることを発見するに至るまでの様々な医学者・衛生学者の血のにじむような苦労を資料に基づき小説風に完成させているので、深刻な内容のわりには読みやすい。時代としては、大正時代の話なので、わたしの父母の生まれた頃だ。それほど昔の話ではない。
 今では、農作業で命を落とすような病気にかかる危険性はほぼ無くなったろうが、父や母の生まれた頃にこんな恐ろしい寄生虫が田んぼや湿地に居て、命の危険と隣り合わせで作業していた事は驚きだ。そして、それは特効薬の開発や貝の駆除により終息するつい最近まで続いていたのだ。『死の貝』という書名からすると貝自体が危険なもののようだが、マラリヤにおける蚊のように吸血したりするものではなく、あくまで寄生虫の生育過程で必要な宿主になる貝というだけだ。その点を注意しておきたい。ホタルの幼虫の餌にもなることから、宮入貝を駆除したことがホタルの生息数が減った一因であるとも言われている。

 中国や東南アジアでは、今なお日本住血吸虫による感染が続いているらしい。セルカリアと呼ばれる肉眼では見えないほど小さな幼虫は、水のある所にいて皮膚を介して体内に侵入し、その後太い血管内で雌雄が合体、膨大な数の卵を産むという。われわれ都会に住む者は豊かな農村風景に心癒されるものだが、そんな甘い感傷を嘲笑うかのような危険性が自然の中には潜んでいるものであることを、この本は教えてくれる。

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