コロナの第6波が来るまでの間隙を衝いて寄席に行ってきた。前回行ったのが、2020年の1月だったので、ほぼ2年振り。奇しくも、前回と同じ真打だった。
時節柄、客は少なくソーシャル・ディスタンスは十分。出演者もいつもより少なめで、早めに終演するように設定されていた。それでも、芸人さん達は、客の前で芸を披露することが出来るのを喜んでいるようだった。
真打は三笑亭茶楽。この人は、とび抜けてうまい人ではないが、芸に対する姿勢は真っすぐで好感が持てる。この日に掛けたのは「芝浜」。古典落語の人情噺の名作で、数ある落語の下げ(落ち)の中でも、この「芝浜」の下げは抜きん出た傑作。私の父はアルコール依存症で早死にしたので、「芝浜」の下げは、何度聞いても感動する。この噺は、大晦日が下げにつながる。なので、年末に掛かることが多く、この日のように秋の紅葉の時期にかかるのは珍しい。本格的な人情噺が聴けるとは思っていなかったので、何か得した気分になった。現実的には、この噺のようにうまくはいかない事はわかっている。ある意味「夢物語」にすぎない。それでも「一縷の望み」を噺に託したい気持ちがある。
それにしても、芸人さん達には苦難の時代が続く。感染症だけでなく、聴く耳を持った客がどんどんと居なくなってゆく。柳家小三治もすでに亡く、古典落語の神髄を語ることで客を呼べる噺家も、古い言葉を説明なしで理解できる客も減る一方だ。そんな中でも、古典に精進する若手も確かに存在する。今は、地道な稽古と目立たぬ活動が求められる時だろう。が、それは困難を多く伴う道になる。わたしにできるのは、たまに寄席に行くくらいで、それがもどかしい。
時節柄、客は少なくソーシャル・ディスタンスは十分。出演者もいつもより少なめで、早めに終演するように設定されていた。それでも、芸人さん達は、客の前で芸を披露することが出来るのを喜んでいるようだった。
真打は三笑亭茶楽。この人は、とび抜けてうまい人ではないが、芸に対する姿勢は真っすぐで好感が持てる。この日に掛けたのは「芝浜」。古典落語の人情噺の名作で、数ある落語の下げ(落ち)の中でも、この「芝浜」の下げは抜きん出た傑作。私の父はアルコール依存症で早死にしたので、「芝浜」の下げは、何度聞いても感動する。この噺は、大晦日が下げにつながる。なので、年末に掛かることが多く、この日のように秋の紅葉の時期にかかるのは珍しい。本格的な人情噺が聴けるとは思っていなかったので、何か得した気分になった。現実的には、この噺のようにうまくはいかない事はわかっている。ある意味「夢物語」にすぎない。それでも「一縷の望み」を噺に託したい気持ちがある。
それにしても、芸人さん達には苦難の時代が続く。感染症だけでなく、聴く耳を持った客がどんどんと居なくなってゆく。柳家小三治もすでに亡く、古典落語の神髄を語ることで客を呼べる噺家も、古い言葉を説明なしで理解できる客も減る一方だ。そんな中でも、古典に精進する若手も確かに存在する。今は、地道な稽古と目立たぬ活動が求められる時だろう。が、それは困難を多く伴う道になる。わたしにできるのは、たまに寄席に行くくらいで、それがもどかしい。