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小川国彦元成田市長を悼んで

2017年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
 元衆院議員で成田市長も務めた小川国彦さんが20日死去した。84歳だった。

 すでに、千葉県に住む人でも知る人は少なくなっているだろうが、かつて成田空港の建設をめぐり激しい反対運動があった。その中で、反対派にも機動隊にも死傷者が出た。当初、国会でも社会党を中心に政府の一方的な方針決定に反対運動が起きたが、現地の運動が次第に過激になっていく中で野党は手を引いていった。
 そんな複雑な政治状況の中でも、筋を通そうと活動を続ける政治家も確かにいたのだ。小川国彦さんもそんな一人だった。全国紙に小さな死亡記事が載っただけで、ひっそりと旅立って逝かれた。わたしも、東京新聞の千葉地方版に掲載された追悼記事で知ったところだ。無断転載は出来ないので、以下にその記事の要点だけをまとめておくにとどめることにする。


 『一九六六年、国は成田空港の建設地を成田市と芝山町にまたがる地域に決定。当時、社会党の県議だった小川さんは生前、本紙の取材に「寝耳に水。数十年続く問題になると、覚悟した」と話していた。反対運動が過激化し、社会党は運動から距離を置いたが、小川さんは県議会、七六年からは社会党衆院議員を六期務め、国会で成田問題をただし続けた。
 小川さんは九五年の成田市長就任後、二本目の滑走路建設に向け、空港用地内の地権者に(話し合いによる解決のため)頭を下げ続けた。
 二〇〇三年、二期途中で市長を辞任した後も空港の問題に関わり続けた。新たな滑走路建設や深夜・早朝の運用時間を延長する空港の機能強化案については「騒音下住民が、国や県と同じ立場で議論ができていない」として、国と県、成田国際空港会社(NAA)、地元九市町でつくる四者協議会に、住民側に立つ第三者組織を加えるよう、国会に求めた。』(東京新聞の5/23千葉地方版より抜粋)


 2003年に任期の途中で市長を辞任されたのは、公約の成田空港圏広域合併構想が議会で否決されて頓挫したためだった。 最近、国会議員の不用意で心ない発言が頻繁に報道され、政治家としての資質が問われる人も多い。そんな中で、しっかりとした政治理念を持った人の死が知られることも無いのは、あまりに残念なので、このブログであえて取り上げさせてもらった。ご冥福をお祈りします。

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