長生き台風で各地が被害をもたらし
関東でも竜巻注意報や大雨警報が
次々に出てその間に地震の情報など
あり、災害が繰り返される日本列島です。
最近、NHKのテレビ番組ではやたらジオ関係
の番組が多いのと何か呼応しているようで
なんの思惑なのか日本の成り立ち上しかた
ないということなのか、それとも新たな古事記
伝なのかという感じです。
最近やたらとパワースポットとか相撲とか日本人の
根本的ルーツをはやりにしてそれを真に受けた人たちで
たった数千円で開運やら安心やらを得るために人々が
行列を作っています。
秩父ではまず第一に三峰神社がそれに挙げられます。
人類の進歩とか科学的な発展とか発見から見れば
まったく意味がないこととして忘れらされるはずの
神社に人々が何を託して集まるのか。
本当にそのパワースポットに自身の人生を変えるパワーが
潜むと思っての行動なのでしょうか。
たとえば今人気の相撲も日本古来からのもので
神事であるといいます。
国譲りの物語で相撲を取って負けたので、出雲の
国は高天原の神々の大和の国になったということで
諏訪神社に負けた神は祭られ勝った方は鹿島神宮に
祭られているといいます。
さて、それでは秩父の総社秩父神社は日本書紀にも
出てくる古い神社といいますが、何の神が祀られて
いるのか気になります。
同様に皆さまが全国から殺到する三峰神社はどうでしょう。
古い神社は皆古事記に出てるく神が祀られでいて、
その神話上の剣だとか勾玉だとか鏡などがご神体と
して保管されています。
古事記とか日本書紀などは原本はないもののそれらに
かかれた神由来の品々が現存するというのも不思議な
感じがします。
実際に科学的検証がされることはないでしょうが、
所謂伝承とか文字とかがない古代のものが伝わるという
証拠として歴史的価値があるといわねばなりません。
そうなると実際にはない超常的な力が潜むとか言い始めて
も罪はないのかもしれません。
そんなものに近い存在が明治期の小説にもそんなものを
感じます。
その流れをくむ昭和初期の小説なども漱石から読み比べて
みると小説がいかに多くの人々を楽しまさせてきたかを
思い至らせ人工知能に多くの人の職が奪われ世界が変革
迫られようとしているときに芸術的創作物にはまだ幾許かの
猶予があるとホッとしたくなる思いに駆られます。
そんなわけで最近よく読むのが
や
これらはみなラジオの朗読の時間で聞いたもので
また読み返してみました。
最初に読んだのは中学のころでよく内容は解らなかった
ことを覚えています。
それなのにいきがった友達と悲劇名詞と喜劇名詞の出し合い
などしてその根拠を言い合ったのを覚えています。
そして銀座や神田にあこがれ太宰がよくあらわれ座った
椅子があるバーだとか三島が座った椅子がある店など
めぐったりしました。
今読んでみると太宰作品や生き方にカッコよさや
憧れを抱くというよりあまり近づきたくない、そばに
寄せたくないもののような感じがします。
江戸川乱歩なども北杜夫が昔伏字になっている本に
ドキドキしながら読んだというのを読んで読んでみましたが
ミステリー作品があふれた現代では『悪魔の紋章』など
直ぐ犯人が分かってしまうし
物語としてもそんなに優れているかというと三億円強奪事件やグリコ森永事件
などを経験した昭和の世代の人間には肯定しかねます。
グロテスクな事件とか血なまぐさい事件でもオーム真理教の一連の事件
とか連合赤軍事件や巣鴨信金籠城事件など小説を超えた世界で
強烈に印象に残っています。
そう思うとこれらの小説の価値というのも聖遺物的な価値しか
ないのかもしれません。
関東でも竜巻注意報や大雨警報が
次々に出てその間に地震の情報など
あり、災害が繰り返される日本列島です。
最近、NHKのテレビ番組ではやたらジオ関係
の番組が多いのと何か呼応しているようで
なんの思惑なのか日本の成り立ち上しかた
ないということなのか、それとも新たな古事記
伝なのかという感じです。
最近やたらとパワースポットとか相撲とか日本人の
根本的ルーツをはやりにしてそれを真に受けた人たちで
たった数千円で開運やら安心やらを得るために人々が
行列を作っています。
秩父ではまず第一に三峰神社がそれに挙げられます。
人類の進歩とか科学的な発展とか発見から見れば
まったく意味がないこととして忘れらされるはずの
神社に人々が何を託して集まるのか。
本当にそのパワースポットに自身の人生を変えるパワーが
潜むと思っての行動なのでしょうか。
たとえば今人気の相撲も日本古来からのもので
神事であるといいます。
国譲りの物語で相撲を取って負けたので、出雲の
国は高天原の神々の大和の国になったということで
諏訪神社に負けた神は祭られ勝った方は鹿島神宮に
祭られているといいます。
さて、それでは秩父の総社秩父神社は日本書紀にも
出てくる古い神社といいますが、何の神が祀られて
いるのか気になります。
同様に皆さまが全国から殺到する三峰神社はどうでしょう。
古い神社は皆古事記に出てるく神が祀られでいて、
その神話上の剣だとか勾玉だとか鏡などがご神体と
して保管されています。
古事記とか日本書紀などは原本はないもののそれらに
かかれた神由来の品々が現存するというのも不思議な
感じがします。
実際に科学的検証がされることはないでしょうが、
所謂伝承とか文字とかがない古代のものが伝わるという
証拠として歴史的価値があるといわねばなりません。
そうなると実際にはない超常的な力が潜むとか言い始めて
も罪はないのかもしれません。
そんなものに近い存在が明治期の小説にもそんなものを
感じます。
その流れをくむ昭和初期の小説なども漱石から読み比べて
みると小説がいかに多くの人々を楽しまさせてきたかを
思い至らせ人工知能に多くの人の職が奪われ世界が変革
迫られようとしているときに芸術的創作物にはまだ幾許かの
猶予があるとホッとしたくなる思いに駆られます。
そんなわけで最近よく読むのが
や
これらはみなラジオの朗読の時間で聞いたもので
また読み返してみました。
最初に読んだのは中学のころでよく内容は解らなかった
ことを覚えています。
それなのにいきがった友達と悲劇名詞と喜劇名詞の出し合い
などしてその根拠を言い合ったのを覚えています。
そして銀座や神田にあこがれ太宰がよくあらわれ座った
椅子があるバーだとか三島が座った椅子がある店など
めぐったりしました。
今読んでみると太宰作品や生き方にカッコよさや
憧れを抱くというよりあまり近づきたくない、そばに
寄せたくないもののような感じがします。
江戸川乱歩なども北杜夫が昔伏字になっている本に
ドキドキしながら読んだというのを読んで読んでみましたが
ミステリー作品があふれた現代では『悪魔の紋章』など
直ぐ犯人が分かってしまうし
物語としてもそんなに優れているかというと三億円強奪事件やグリコ森永事件
などを経験した昭和の世代の人間には肯定しかねます。
グロテスクな事件とか血なまぐさい事件でもオーム真理教の一連の事件
とか連合赤軍事件や巣鴨信金籠城事件など小説を超えた世界で
強烈に印象に残っています。
そう思うとこれらの小説の価値というのも聖遺物的な価値しか
ないのかもしれません。