以前から思うのですが、日本では詩といっても韻を踏むことを重要視されません。
それはなぜかという事ですが、それは漢字の輸入以来文字などの二次元での情報が重要に伝わり、音としての文化は二の次だったのではと思います。
中国の人が日本の文化について触れる時に中国伝来の行事やら故事やらが残っていてうれしいという事をよく言います。しかし、中国の音での言葉がそのまま日本語になったという事は少なく、オランダのカステラや金平糖みたいなのはないのです。中国の漢詩は伝わるもそれを音で楽しむという事もなかったのではないでしょうか。
だから日本の詩は韻をずっとおろそかにしていて独特の発展を遂げるのですが、かえって海外の人が最近短歌や俳句を楽しむことも多くなっているといいます。日本のわびさびの心を理解できるのかはなはだ疑問ですがこの映画『パターソン』をみるとしみじみと感じる映画でこんなのもできるんだと思うのでした。
主演のアダムドライバーはカイロレンを演じた人で日本でも知らない人はない俳優です。最近色々な映画に出ています。
それがまさかなにもない普通のバスの運転手を演じ何も事件も起きず淡々と一週間が描写されていきます。
普通の人の日本ではなじみのないニュージャージーのパターソンというところです。
日本人で訪れた人も少ないようですが、アメリカでは有名で週末には多くの人が訪れる地だそうです。かつてはその滝を利用した中核工業都市として栄えたのですが、今はすたれ治安もよいとは言えないと言います。所謂ラスタベルトというかつての地方都市でしょうか。それでも滝は観光名所でこの映画でも最後の方に出てきます。アダムドライバーのパターソンがその公園のベンチで滝を見ていると日本人が現れて会話するシーンにあっこれ見たことあると思いました。多分NHKのニュースか何かに出てたシーンです。
この日本人との会話が何を意味するのか、なぜ最後に日本人がでてきて詩について会話し、日本人も詩を書いており、貴方も詩人ですかと聞くのですが、
ただのバスの運転手だと答えるのです。なぜ、貴方と同じ発表はしないけど詩は書いていますと言わなかったのか、また、日本人は翻訳はしないそれはレインコートを着てシャワーを浴びるようなものだからというのです。
なるほどと思わせる台詞ですが、それがなぜ日本人に英語で言わせているのかにわかに謎なのです。
別れ際にノートを贈り意味不明の台詞アーハーと発して去っていくのでした。
間の抜けた英語に聞こえたアーハーは日本人の言語能力の限界を示したかのように響きました。
この映画では派手なアクションや銃の打ち合いもありません。それでも映画ができるんだという珍しいアメリカ映画です。
日本だと宮沢賢治の童話のように農村部でも生活に文化的な要素をとチェロを弾いたり宇宙に思いをはせたりとしたのと似て妻の活動が洋服を作ったり家のペインティングを独特のデザインでしていたりギターを始めて歌手デビューを目指すと言い出したりします。そのデザインはモノクロで丸の模様を手書きで書いていくもので仏教画につながるような印象もあります。かと思えば夢で
双子が生まれるのを見たといいその後双子が映画の中でも何度も出てくるのです。西欧で双子は不吉な象徴であり白黒のデザインは日本の陰陽とゴスッぽい
物を思わせ予言通り市場でカップケーキを売って儲けたからお祝いに週末に食事と映画に行ってみるのが古い白黒のホラー映画というのも何か共通したメッセージのようです。
地味な映画ながらカンヌで賞をとったり監督には根強いファンも多いらしく、
日本人永瀬正敏は二度目の起用とかで監督とは通じるところがあるようです。
日本の映画では『あん』の永瀬が印象にありますが、これも失敗した男の余生に
樹木希林のハンセン病のアルバイトがかかわる物語でその人生が少し再生されるというお話で見ごとにはまった役でした。今回は一度なくしたものが永瀬により再生されるというお話で意味深いのでした。