相生町に引っ越ししてきた春に、近くの公園にこの白いタンポポがたくさん咲いていました。昔みた在来タンポポだと思っていましたが、観察すると他の花と同じ八重の花弁ですので違うようです。今年はこの花だけでした。さて、先月に書いた丘の上について解説します。なんでこのようなことが浮かんだのかということですが、その当時みていたドラマか映画で犯人の手がかりに自分の首を持った聖人の絵が暗示的に使われていて私は生首というとギュスタブモローの絵を直ぐ思いだしサロメが求めた親の敵の生首の話しを思い浮かべたのですが、この自分の生首を持って10K歩いた聖人の話しはまた別な話で、フランスがガリアと呼ばれた古い時代にキリスト教の宣教師が次々に改宗させて怒った他の宣教師に首を跳ねられたらその首を持ったまま説教しながら10K歩いたというのです。歩いてたどり着いたのがモンパルナスでそこには聖堂がたてられたそうです。家賃が安いので芸術家が住み着き芸術の町として有名になったのはピカソの時代です。この生首を持って歩いた話しは他にもありベルギーにもそんな話の名前の付いたビールとか醸造所があります。昔は字の読める人や印刷技術がなく本物の聖書を読む機会もなく宗教画とか宣教師の話しというのは特別なものとして広がり各地の伝説と重なりまたそれが伝説となりというようなことが繰り返されたのでしょう。日本にもキリストの墓があったり、秩父に将門の墓があったりするのはまた違う理由なのでしょうが、結局はなにかを信じたいとかより有名な人に寄り添いあやかりたいということなのでしょう。問題は芸術でも人の世でもどれだけ普遍的な価値があるかということです。ピカソで有名になったモンパルナスですがピカソの絵を飾りたがる美術館は多くても自宅に飾りたいような絵ではなく、直ぐいくらの価値といった値段の話をする人もいますが、人類の普遍的な価値といったものとはぜんぜん違い今核戦争の脅威や温暖化による環境破壊と自然災害が増すなか我々が求めていかなくてはならないものとか取るべき行動が解離してきており、丘の上が示す普遍的な価値観とそれに伴う行動を改めて自問し、行動に移していくべきだと思うのです。日本はG7議長国として法の下の平等と自由と人権を守り、その理念を共有する先進国のリーダー的役割を担っているといいこの間の岸田キーウ訪問や林外務大臣の外相会談と役割を果たしているかのような報道ですが、国会で質問されるのはしゃもじは不適切といったことばかりで日本として適切なのか憲法上問題なのではないかといった論議は伝わって来ないのです。日本は武器輸出とか戦争とかに関わらないという平和憲法を有しているのに岸田はNATOの基金を通して武器供与を約束しました。それなのに国会で質問されたのはしゃもじが不適切などというものしか伝わってきません。武器を与えて戦争を続けるのでなく即座に停戦しロシアに領土回復を働き掛けることが必要なのではないでしょうか。35年ガソリン機関禁止の放棄もガソリン機関をやめてもそれに上回るイノベーションで電気自動車やモビリティの確保を果たしていく覚悟がなかったというのも現在の格差容認が根底にあり既得権者や勢力が改革を阻んでいるのかもしれません。秩父の丘の上、芝桜の丘とか公園のようですが、以前は民家や農地がある住居地でした。今ではすっかり更地で公園のように見受けられますがそれはいいことなのでしょうか。というのはアンチオックの丘の反対側にあった羊山センターという施設は入浴施設や宴会場、卓球場などの遊具施設のある市民の憩いの施設でした。今ではそれが更地になり市会議員に訪ねてもなんの問題意識もなくその後の計画も関心がないようです。福祉施設の改構もなく計画もなくだとするとそれは雇用の縮小と福祉の後退に他なりません。それを議会に問い質す議員もいないのです。丘の上のことを普遍的価値として市民で共有していくことが大事なんじゃあないでしょうか。
相生町に引っ越ししてきた春に、近くの公園にこの白いタンポポがたくさん咲いていました。昔みた在来タンポポだと思っていましたが、観察すると他の花と同じ八重の花弁ですので違うようです。今年はこの花だけでした。さて、先月に書いた丘の上について解説します。なんでこのようなことが浮かんだのかということですが、その当時みていたドラマか映画で犯人の手がかりに自分の首を持った聖人の絵が暗示的に使われていて私は生首というとギュスタブモローの絵を直ぐ思いだしサロメが求めた親の敵の生首の話しを思い浮かべたのですが、この自分の生首を持って10K歩いた聖人の話しはまた別な話で、フランスがガリアと呼ばれた古い時代にキリスト教の宣教師が次々に改宗させて怒った他の宣教師に首を跳ねられたらその首を持ったまま説教しながら10K歩いたというのです。歩いてたどり着いたのがモンパルナスでそこには聖堂がたてられたそうです。家賃が安いので芸術家が住み着き芸術の町として有名になったのはピカソの時代です。この生首を持って歩いた話しは他にもありベルギーにもそんな話の名前の付いたビールとか醸造所があります。昔は字の読める人や印刷技術がなく本物の聖書を読む機会もなく宗教画とか宣教師の話しというのは特別なものとして広がり各地の伝説と重なりまたそれが伝説となりというようなことが繰り返されたのでしょう。日本にもキリストの墓があったり、秩父に将門の墓があったりするのはまた違う理由なのでしょうが、結局はなにかを信じたいとかより有名な人に寄り添いあやかりたいということなのでしょう。問題は芸術でも人の世でもどれだけ普遍的な価値があるかということです。ピカソで有名になったモンパルナスですがピカソの絵を飾りたがる美術館は多くても自宅に飾りたいような絵ではなく、直ぐいくらの価値といった値段の話をする人もいますが、人類の普遍的な価値といったものとはぜんぜん違い今核戦争の脅威や温暖化による環境破壊と自然災害が増すなか我々が求めていかなくてはならないものとか取るべき行動が解離してきており、丘の上が示す普遍的な価値観とそれに伴う行動を改めて自問し、行動に移していくべきだと思うのです。日本はG7議長国として法の下の平等と自由と人権を守り、その理念を共有する先進国のリーダー的役割を担っているといいこの間の岸田キーウ訪問や林外務大臣の外相会談と役割を果たしているかのような報道ですが、国会で質問されるのはしゃもじは不適切といったことばかりで日本として適切なのか憲法上問題なのではないかといった論議は伝わって来ないのです。日本は武器輸出とか戦争とかに関わらないという平和憲法を有しているのに岸田はNATOの基金を通して武器供与を約束しました。それなのに国会で質問されたのはしゃもじが不適切などというものしか伝わってきません。武器を与えて戦争を続けるのでなく即座に停戦しロシアに領土回復を働き掛けることが必要なのではないでしょうか。35年ガソリン機関禁止の放棄もガソリン機関をやめてもそれに上回るイノベーションで電気自動車やモビリティの確保を果たしていく覚悟がなかったというのも現在の格差容認が根底にあり既得権者や勢力が改革を阻んでいるのかもしれません。秩父の丘の上、芝桜の丘とか公園のようですが、以前は民家や農地がある住居地でした。今ではすっかり更地で公園のように見受けられますがそれはいいことなのでしょうか。というのはアンチオックの丘の反対側にあった羊山センターという施設は入浴施設や宴会場、卓球場などの遊具施設のある市民の憩いの施設でした。今ではそれが更地になり市会議員に訪ねてもなんの問題意識もなくその後の計画も関心がないようです。福祉施設の改構もなく計画もなくだとするとそれは雇用の縮小と福祉の後退に他なりません。それを議会に問い質す議員もいないのです。丘の上のことを普遍的価値として市民で共有していくことが大事なんじゃあないでしょうか。