蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

笹本恒子ー98歳のカメラウーマンの好奇心と情熱      (mak)

2013-05-27 | 科学・生物
知人から笹本恒子の事を知った。 98歳にして、心身共に矍鑠として、30歳は若く見える才色兼備、好奇心旺盛、チャレンジング精神を未だ持つ、すごい女性であると。
71歳にして、報道カメラウーマンとして再出発し、昨年9月に98歳になり、今や引っ張りだこの人気者となっている。彼女からすれば70歳なんて若者です。
今からでも遅くないという気にさせてくれる、元気を与えてくれる好奇心ガールです。
 今年は、パリ郊外の芸術家向け老人ホームを撮影する海外取材に行く計画をしているという。また、社会の片隅でいい仕事をしている無名の方々を撮り紹介したいとか、その視線はどんどん広がっていく。
 肉とワインが大好きで、毎日英語の勉強を欠かさない日課としているというから、こんな女性が世の中にいるのかと驚きである。


大分前から話題の人でしたので、ご存知の方も多いでしょう。興味をひかれたので、ネット情報から抜きだし引用してみました。




 笹本恒子氏は日本ではじめての女性報道写真家です。カメラをとおして戦時下の日本を伝え、戦後はフリーの写真家として活躍、その活動は半世紀を超えます。

 氏が初めてカメラを手にしたのは1940年、日中戦争の真っ最中でした。戦時下の情報宣伝の重要性を感じていた東京日日新聞(現毎日新聞)社会部の林健一氏が「日本は宣伝戦で立ち後れている」と、写真による国外宣伝機関「写真協会」を立ち上げます。そこでは世界各国の写真やグラフ誌をまとめる一方、国内のニュースや文化を広く海外へ発表していました。面白そうだから行ってみないかと知人にすすめられ、笹本氏は思いきって写真協会の門を叩きます。そこで出会った林氏の熱弁に好奇心をくすぐられ、何も知らない写真界に飛びこむ決意をしたのでした。「女性の目をとおして物を見る、女性だけが撮れる写真が必ずあるはず」、その言葉を胸に、男性ばかりの職場に少々怖気づきながらもシャッターを押し、報道写真家としての道を今日まで歩きつづけました。
 順調だったかに見えた仕事も転機が訪れた。毎日、現場に通ってトラックに乗り、撮影したという「60年安保闘争」が終わった頃、長年写真を提供してきた雑誌が次々と廃刊になったのだ。この頃、皇太子夫婦の成婚パレードをきっかけに、テレビが一般家庭に普及しつつあった。また写真家の数が増え、競争は激しくなる一方だった。気がつけば積極的に売り込まないと、仕事が得られない時代に突入していた。
 収入を稼ぐために、職を転々と変え気づくと1970年以降、写真の世界からは完全に遠のいていた。笹本さんが写真家としての復活を遂げるきっかけは、夫が末期がんで亡くなった後の71歳の時、1985年のことだった。昭和時代に撮りためた写真を素材にした写真展開催の話が、にわかに持ち上がったのだ。貴重な写真の数々を紹介した写真展は新聞でも紹介されて大成功。それをきっかけにフリーの写真家として再始動した。






女性社会派写真報道家としての腕前を発揮した写真:

女性だけを招待したストリップショー

ストリップショーが各地で上演されるようになったころ、本場浅草のある劇場では、
これは決して、いかがわしいものではないということを女性に知ってもらおうと、地元の
主婦や女性文化人たちを招待した。
コメント (3)
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