邪馬台国はどこにあった? の論争はこれまで何度かありその都度、あぁ、そうなのか・・ぐらいの
知識しかありませんが、先日届いた“会報”に、掲題のような講演記録(13ページ)がありました。
この記事は、武田佐知子氏(阪大大学院文学研究科教授)の、“邪馬台国の女王卑弥呼の謎
~卑弥呼は男装の麗人だった?~” と題する関西講演会での内容ですが、日本古代史、服装史、
女性史などを専門分野とされる氏のユニークな内容でしたので、ここに、かいつまんでご紹介したいと思いました。
“宝塚歌劇は、女性だけが登場してストーリーが成り立っている演劇で、世界に稀な劇団の例だといわれている。
また、歌舞伎は男性だけの演劇ですが、これも日本では大変ポピュラーであり・・”で始まっているのですが、
丁度、折しも “タカラヅカ”音楽学校創立100周年で大々的なイベントがあったとか昨日のテレビで、報じていました。
つまり、日本では男装、女装が割合普通として受け入れられている・・というのです。
最近のテレビでも、女装のような歌手やタレント、逆に男装したタレントなどが目だったりしますが、
違和感なく存在しているようです。 が、この記事によると、ヨーロッパの留学生が一番驚くのは
テレビで男性が女装して出てくる番組が結構あるということだそうです。
女装した男性が堂々と存在していることに驚いているのだそうです。
ヨーロッパでは、男女の服装についてはかなり厳格な区別がなされているという。例えばジャンヌダルクは、
女性がズボンをはいたことで処刑されることになったと、“ジャンヌダルク処刑裁判記録”に明らかにされているという。
“神功皇后(第14代仲哀天皇后)が三韓征伐をした時、彼女は髪を角髪に結い男装して出征したとか、
巴御前が男装したなど、日本では異性装の例が割とありますが、女性の男装、男性の女装は全く非難の対象になっていない。”
日本では、これらの異性装が極めて許容的であるのに対し、ヨーロッパ世界はそうではない背景に、
“着物”があると述べられている。
男性も女性も同じ形の衣服を着ていたことがその基本にあると論じられているのです。
“魏志倭人伝”には、“貫頭衣”との記述があるが、メキシコなどのインディオのポンチョのようなものではなく、
30cm位の布を2枚並べて、膝から肩の2倍の長さにして、肩で折り曲げるようにして背中だけ縫い合わせて、
前は紐か何かで結んだ・・そんな形が提案されています。
貫頭衣2例(ともにネットから転写しました。)
これを着たところは、頭を貫いたような形だとされており、いうなればスカートが上から通じている“ワンピース”で、
3世紀の邪馬台国の人々は、スカート型のワンピースを着ていたと推定しています。
そして、この衣服の形は、以降の日本人の衣服の基本型になっていると断定されている。
このワンピース型の衣服は、女性ばかりでなく男性も着ていたと推定し、8世紀の農民も日常着として貫頭衣を着ていた・・
との説を発表されている。
貫頭衣は、水田耕作民の労働者として、水田耕作と一緒に中国から伝えられ、これが根本の衣服になり、
これに袖が付いて長くなったものが今の和服だと述べられています。
色はこの当時、赤色と青色しかなかったそうです。 卑弥呼が、親魏倭王に即位する時、自らの権威を
中国に認めてもらい、金印とともに男性用の衣服をもらってそれを着たと考えられる。
当時、王を認めた時 “朝服を授けた” や “衣冠を授けた” などの記述がみられるからだという。
ところが問題なのは、卑弥呼が女性だったことで、中国の儒教的な価値観から女性の“王”は承服しがたい存在
だったのですね。
“中国には“則天武后”という大変な女傑がいて、彼女は正式な手順を踏んで皇帝になりましたが、
“中国史上最大の汚点である”とされているように、中国では、彼女が皇帝位に着いたことは一番抹消したい事実
だったのではないか。“則天皇帝”とは呼ばす、“則天武后”のままですね。”
で、卑弥呼の場合は、中国からの使者に何とか合わせずに事なきを得たそうですが、632年に女性で新羅の王に
なった“善徳女王”(そんとく女王)の時も、いろいろと釈明があったとのことで、その後、高句麗と百済に
攻め込まれた時、唐に援軍を求めた際、“女だてらに王になるからで、お前が退位すれば済む・・”
とつれない返事をしたとか。
中国の皇帝は、卑弥呼は当然男性だと思ったに違いなく、彼女に送った衣服は男性用の衣服であったと考えられる・・
というのですね。 ところが、邪馬台国は、男性と女性の衣服の区別のない社会なので、卑弥呼がその男性用の
衣服を着ていても何の違和感もなかったと・・。
また、記事の最後には、天皇についての記述部分があり,“古代において、第33代 推古天皇(初代女性天皇)
から始まって、6人による8代の女帝が出現し得たのは、天皇の衣服の男女同形が大きく関わっていたのではないか、
おそらく天皇は、性を超越した存在として位置づけられていたからだろうと考えている。”とも述べられています。
それというのも、“820年、嵯峨天皇(第52代)になって、中国風の装飾のある衣服(男性用)を着用するようになって
からは、女帝の出現がごく稀になっている。
女性天皇の衣服は、真っ白で模様のない衣服のまま取り残された。” とあります。
1889年(明治22年)明治憲法発布の時に、皇室典範が定められ「皇位は直系の男子が継ぐ」という規定になり、
女性が皇位継承から排除されたのでした。
“明治天皇は、1873 年(明治6年)以降公式の場面ではすべて洋服を着てズボンをはくようになった。
それまではお歯黒を付けて、白粉を顔に塗って女房言葉で過ごしていた。この日、突然、髷を切って洋服になって、
大奥から帰ってきたときには、宮中の女官たちが、それは驚いたという記録が残っている。”
というお話でした・・。