蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

八甲田山   (bon)

2013-07-23 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日(22日)、テレビで映画「八甲田山」を見ました。

1977年(昭和52年)放映の映画で、この時は有楽町あたりの映画館で会社の連中と見たのでした。

 私はこの当時、会社ではこれまで全く経験してこなかった、未来型サービスシステムとして映像を主体とした
企業・個人向けのサービス開発のグループに所属していました。
何名かの担当リーダに分かれたそれぞれの部隊が、そのサービスシステムを分担して開発していた。
こうすればうまく行く、こういうサービスが求められている・・などの、確かな道しるべがないまま、各種の調査や
推定から開発を進めなければならなかった。

 私は、サービスシステム技術開発担当で、もう一人のサービスそのものの開発担当とはきわめて密接な関係があり、
常に連携しながら開発を進めて行かなければならない、そんな間柄にありました。
さらに、これら我々の開発推進部隊のほかに、より全体を包括的に鳥瞰してアドバイスやコメントする立場の
老練の調査役がおられた。

 前置きが長くなりましたが、この調査役が上映中のこの映画を観て、われわれにさも身近な出来事のように
噛み砕いて話されたのでした。  すなわち、神田大尉、徳島大尉よろしく精鋭部隊を引き連れて、
少なくない予算を使用しながらまだ見ぬ未来型サービスシステム開発に邁進している・・この姿を、
新田次郎のこの小説を基とした映画の困難を極めた“雪中行軍”に見立てていた。

 徳島大尉の率いる部隊は、何とか八甲田山踏破に成功するが、神田大尉率いる部隊は、
調査部隊として加わった山田少佐(大隊長)が、指揮権がないにもかかわらず、案内役を断ったり、
行動について口を出し、あげく部隊の指揮が乱れ、この大部隊は混乱し、210名中199名が死亡する大事件となった。

 映画を観てきた、老練な調査役氏自身がどうやら、社内のこの開発事業で山田少佐の立場を演じていると
認識している風であった。 つまり、我々の開発事業は、つまるところ失敗に終わるのではないか? 
というような示唆的な意味を含めて、映画のシナリオを現実のわれわれの部隊に当てはめて語られた。 
当然、この話を聞いた私たちは、上映中の映画館に入ったのでした。

 昨日テレビで、再びこの映画を観ながら36年前の当時のことが脳裏に浮かび、懐かしさとともに
改めて内容を噛みしめたのでした。

 

 24~5年後に、“当事者意識研修”という3泊4日の研修を珍しく受けた時の、出だしに
この“八甲田山死の彷徨”(小説)の一部が取り上げられて、神田大尉率いるこの部隊の失敗の原因はどこにあるか? 
というような設問だったと記憶しています。 
 指揮官の神田大尉を差し置いて、山田少佐がその地位を利用して口出しし組織を乱したことが原因だと
思ったのでしたが、 さらに詰めて行くと、山田少佐にそうさせてしまった神田大尉の当事者意識に
問題があったとも考えられる・・と。


 この映画は、真冬の八甲田でロケをし俳優、カメラマンなどスタッフ一同度肝を抜かれた過酷な撮影だったそうですが、
興業も大ヒットで当時大きな話題をさらっていました。
今また、再びテレビでこの映画を観てあれこれ思いを巡らせることとなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

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