蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

若さんの論文  (bon)

2020-06-16 | 日々雑感、散策、旅行

 若さんとは、あの “ 神楽坂にお住いの 若さん ” です。
 これまで、当ブログに「神楽坂研究」などのテーマで、登場いただいていますが、 
今回は、『ベーマー商会とアメリカ市場』と題する論文を、『ベーマー会会報 第
6号』に寄稿され発行されましたので、そのホヤホヤを、当ブログにアップさせて
いただきました。明治期の植物『百合』における国際ビジネスの一端をご紹介され
大変興味深いものがあります。

 『ベーマー会』は、馴染みのない方も多いかと思いますが、明治初期に開拓使に
雇用されたドイツ系アメリカ人、ルイス・ベーマーという人が、10年の長きに亘り
リンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの栽培を指導するなど数々の業績を残して
おり、当時の開拓使の貢献を記念して、旧札幌農学校、現北海道大学出身者の熱い
思いから、ベーマーについて、2007年から具体的な研究が始められ、2009年に設立
された会で、会長、副会長は、北大出身でそのほか、宇宙飛行士の毛利衛氏も賛同
されるなど多くの人々で構成されています。 若さんは、副会長夫人と高校同期の
ご縁でもあるそうです。


 ベーマー会の活動の一つに、会報の発行があり、2009年にその第1号が発行され、
第2号(2010年)、3号(‘11年)、4号(’15年)、5号(‘17年)と続き今回が
その第6号にあたります。
 若さんは、第4号に『ロチェスター、サッポロ、神楽坂』、第5号にも『ルイス・
ベーマーと国産ワインについての思い』として論文寄稿がされていて、今回の投稿
は3回目にあたります。

 若さんは、札幌のご出身であり、会社は富士ゼロックスOBで、ベーマーの活躍した
アメリカNYCのロチェスターはゼロックス創業の地であるところから、そのご縁を
感じ興味を持たれているのです。

 前置きが長くなりましたが、『若さんの論文』をどうぞ・・。

 

***ベーマー商会とアメリカ市場』 若林成明 ***
           (ベーマー会会報第6号より)
 

 1.ルイス・べーマー日本における22年間の略歴

   
L.べーマー商会1889/90カタログ*1 サンフランシスコ市郡紋章*2 H.H. ベルガー社 百合挿し絵1907年*3 

  1872年(明5)にルイス・べーマー(29歳・ドイツ系アメリカ人)はNY州ロチェス
ター市Mt.Hope nursery 園芸会社から転身し、開拓使のお雇い外国人(草木培養方)
として東京青山官園に4年、札幌官園6年勤務し、リンゴ、ホップ、ワイン醸造用
ブドウ栽培など儲かる農業の普及に貢献しました。 1882年(明15)に開拓使廃止で
10年の勤務を終えます。

 日本での第2章は、横浜で花卉、苗木、球根、種子の輸出入のパイオニアのとして
べーマー商会(L. Boehemer &Co.)を起業。12年間同社を経営し、自らのJapan
Dreamを実現しました。同時に日本の園芸品産業振興、人材(技術者、経営者)の
育成に大きな足跡を残しました。べーマーの共同経営者になり、のちに経営を継承
したアルフレート・ウンガ―が、同社を売却して帰国する前年、200人を超える納入
園芸商、園芸農家とともに撮影した創業25周年の記念写真は圧巻です(Meiji
portraits)。

 横浜植木(株)を設立した鈴木卯兵衛はべーマー商会創業時からの番頭でした。
横浜植木(株)は最終的にはアメリカ百合根輸出でリーダーになりますが、この横浜
植木(株)や日本の植木屋をはじめとする全国の園芸農家を、近代的な儲かる園芸業
に進化・発展させるのに貢献したと言えるでしょう。

 もし、当時事業発展の通過点にIPO(株式公開)という環境があれば、創業時社員
にストックオプションを渡していたと思います。 上場時に貢献に見合う破格の売
却益を番頭鈴木等に与えることができていたなら、鈴木もスピンアウトすることなく、
両者でさらに世界に大きく羽ばたく会社として発展していったかもしれません。(笑)

   ※1 カラー表紙のヤマユリが登場(輸出急増時)! 
   ※2 同市は貿易・物流拠点、農産も盛ん
   ※3 サンフランシスコ創業のベルガー社1907年カタログの挿し絵、カラー挿絵や1ページめに
       百合を掲載始めたのは創業10年1888/9年以降。 


2.べーマー商会創業時の夢(Japan Dream
   実現の鍵はアメリカ市場

 ベーマー商会創業時の海外の花卉市場はどういう状況だったでしょうか。品目を
百合に絞って見てみます。

 イギリスの園芸家J. Veitchが1862年にヤマユリ(Lilium auratum)を日本から
イギリスに持ち込むと大ブームが巻き起こり、1867(慶応3明1)イギリス園芸商社員
J.J.ジャーメンが横浜から本格的輸出を開始しました。以来、百合根輸出は横浜の
イギリス系商社の独壇場で、べーマーが創業期に欧州輸出に食い込む余地はなかっ
たようです。 このため、ベーマー商会にとっては、アメリカ市場の開拓が重要な
意味を持ってきます。

 それでは、重要市場として狙っていたアメリカになぜ最初から営業拠点を持たな
かったのか? 後に1890年(明23)に同社番頭鈴木卯兵衛が独立し、横浜植木(株)
を創業した際に、彼はサンフランシスコの東の対岸、オークランドに真っ先に支店
を開設し、ショールームの日本庭園開設までしたことと比較すればなおさらです。

  ベーマー商会がアメリカに営業拠点を持たなかった最大の原因は、開業当時に
アメリカ・サンフランシスコで花卉輸出業を営んでいたH.H.Berger社の存在だった
と推定されます。そこで、ベルガー社のカタログを精査してみました。その結果、
いくつかの興味深い事実が浮かびあがってきました。

  • ベルガー氏(ドイツ系アメリカ人)はアメリカサンフランシスコ1878/88年
    (明10)日本産園芸品専門輸入商として創業。西海岸(太平洋岸)重点に市場
    開発を開始。
  • サンフランシスコでは、波止場近くにデポ(倉庫・配送拠点)を開設。その
    後すぐに住所が変わり拠点拡張し、カタログにカリフォルニア栽培品種、発
    芽試験済種子などが掲載されるようになった。市内に温室そして郊外に栽培
    農園(契約)を広げ、事業は着実に成長していった様子がうかがえた。
  • 初期カタログ表紙にOur nursery, TOKIO and MUSASHIの表記。仕入先の農家、
    植木屋は染井(巣鴨・駒込)、埼玉安行(Anyryo)、横浜近郊等が含まれて
    いると思われる。輸出業務は当初横浜居留地に5~6社の園芸品輸出入商社が
    ありそここを利用していたと考えられる。

 カタログのなかで特に注目されるのは、ベルガーが1872~1877年(明5-10)の
5年間在日し、起業準備したという記載です。この期間はべーマー青山官園勤務の
4年間はちょうど重なり、その頃から二人の交流が始まった可能性が考えられます。

 上野副会長の資料によると、ベルガーは東京外語大(神田錦町)にドイツ語教師
として勤務していました。当時の住居が本郷・白山周辺だったとすると、徒歩4km
圏内に江戸時代から植木業の中心地だった染井(巣鴨・駒込)、飛鳥山、上野公園
があり、園芸業者と日本の花卉球根等の園芸事業創業に結び付く交流を始めたと考
えられます。江戸時代大名屋敷の造園管理も手掛けていた植木商,職人たちは維新
で茶や桑畑に転換強制させられた江戸城郭内全域と周辺の武家屋敷の惨状を前に、
新しい事業展開を渇望していました。

 以上のように、ベルガーは在日時代からベーマーとは面識があっため、ベーマー
はアメリカに営業拠点を設けなかったのではないかと推測されます。さらに推測を
進めると、ベルガーがべーマーの横浜での起業決断を後押ししたのではないでしょ
うか。 べーマー商会の発足時に、ベルガー商会はすでにアメリカ市場での5年の
販売実績がありました(日本での準備期間を入れると10年間)。 べーマー商会は
日本での仕入れ、輸出業務を担い、ベルガー商会の日本側リソースを肩代わりする。
べルガー商会はアメリカ市場、営業開発に徹するという相互補完関係について容易
に合意したのではないでしょうか。

 ベルガー社仕入れ額がべーマー商会売り上げ(キャッシュフロー)につながる
提携構造は、べーマーの横浜創業を強力に後押ししたのではないかと思われます。
この提携関係のおけげで、べーマーは1銭もかけずにアメリカ支店を開設したよう
なものでした。

 また、両社の関係はソフトな戦略提携といえます。ベルガー社は後に中国、オー
ストリアからも調達多様化していました。 べーマーもアメリカの大口顧客に直接
販売もしていました。契約上は、Distributor(1次卸店で傘下に代理店を持つこと
ができ、直販もする)だったと思います。 そして両社の提携は、ベーマー商会が
後にアメリカで大成功することにつながるものでした。

 事業の成功には、好機をとらえ積極的に経営に生かすという事も重要です。1880
年代後半に、ベーマー=ベルガー連合がアメリカ百合根市場開発の好機を逃さず
絶妙な戦略遂行をしました。次にこれを見てみていきましょう。

 

3.バミューダ産百合を日本産百合根が席巻

 1853年(寛永6黒船来航、べーマー10歳))一人の英人宣教師が偶然にも百合の
球根を英領バミューダ諸島に持ち込み栽培が開始されました。現地でその見事さに
魅了された、米婦人T. サーシャがフィラデルフィアの園芸農家W.K.ハリスに持ち
帰った球根で栽培を勧め、1882年(明15べーマー開拓使退任)の復活祭の時期に
Lilium harissi var.の名前で出荷したところ、北米帰化種マドンナ百合(Lilium
audidum)より大振り、豪華でキリスト復活にふさわしいとプロテスタントが飛び
つき、大人気になりました。このため、産地のバミューダに大特需が発生します。


 マドンナ百合のように初夏にではなく、復活祭(移動祭日)に咲く豪華な新種、
白百合は一気に普及し、市場を席捲しました。アメリカ鉢植え農家とバミューダは
空前の特需に沸き、それはRomance of floriculture、Bonanza period to Bermuda
などと呼ばれました。その後4~5年間に急速に市場が拡大していた最中に(1885/6
年頃)、産地で病害が発生し、生産量の低下に加えて、到着港での全量廃棄等が増
え、1898年(明31べーマー没後2年)にわずか16年で産地が崩壊しました。

 バミューダ産百合出荷減少した1880年代後半に、日本からの沖縄原産・鉄砲百合
(Lilium Longfiarum)の輸出が拡大します。 アメリカの百合鉢植え栽培農家は
日本産百合球根の仕入れに切り替え始め、これに全面的に依存することになりました
(日本からの輸入経緯などは“Country life in America”Vol.5,1904に詳述され
ています)。

           
         鉄砲百合:Bermuda Easter Lily

 特筆すべきは、バミューダ産の病害初期から、日本から輸送される百合球根が、
アメリカ鉢植え栽培農家に十分な量が供給され続け、かつバミューダ産と比べ、は
るか遠くの日本から輸送される百合球根の値段が1/2で販売されたことでした。
日本産百合球根の競争力が、産地バミューダ復活、代替産地出現、欧州経由での
参入を阻止し、独占につながりました。べーマー、ベルガー連合の長期を見据えた
マーケテイング戦略・戦術の勝利でした。ちなみに、バミューダ産地壊滅後、当初
は、べーマー商会の輸出が4~500万個、横浜植木(株)が150万個といわれています。

 なお、ベーマー商会と競合していた横浜植木(株)も、バミューダ産地が崩壊後の
1898年(明31年)に、東海岸の百合鉢植え業者への販売急増に対応するためニュー
ヨーク支店を開設しました。特需に追随し、最終的には百合球根輸出量・額ともに
最も多く獲得したのは同社と言われています。


4.おわりに

 今回の寄稿にあたり、BHL(Biodiversify Heritage Library) Internet Archive
収録の米国農務省スキャンイメージで、べーマー商会、ベルガー商会、横浜植木(株)
のカタログ類を数千ページ参照しました。また国会図書館収録の「大日本外国貿易
統計明治15-明治38年」のイメージも数千ページ飛ばし読みしグラフ化しました
(本文では省略)。
  ハズキルーペと拡大鏡なしには全く読み取れないながら、個人的には楽しい時間
を過ごすことができました。横浜市、豊島区資料館に行き、調べたい資料もありま
したが、新型コロナウイルス関係で休館。これは空振りに終わりました。

 

 

明治・開拓使時代の札幌の風景 ~1872-1910 Hokkaido,Sapporo,Japan~

 

 

 

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