蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

老い 迫る  (bon)

2022-01-28 | 日々雑感、散策、旅行

 退職してからも山のグループと年に1度はみんなで山登りを楽しんできたし、蓼
科の畑では、月一の合宿もしんどいながらも楽しくこなせていました。 それが、
3年半前に整形外科で、脊柱管狭窄症の診断を受け、その後ずっとリハビリを続け、
最近では週一ペースになっていますが、コロナによる巣ごもりが続いて、もはや散歩
も満足にできない・・といっても日常の家の中での生活は普通に出来ているのですが、
身体的な衰えをひしひしと感じるようになっています。

 テレビの声が聴きとれず、老眼も進んでいるようですが、自身の年齢を思うとき、
それはやむを得ないことと言い聞かせている有様です。

               (ネット画像より)

 

 こんなような状況ですから、老化現象をキチっと認識しているので、掲題は今さら
のように聞こえる感じでもありますが、この年末始、年賀状でハタと「老い」が迫っ
て来ていることが知らされたのです。

 これまで、年末を迎えると「欠礼」のハガキが舞い込んできますが、たいていは
ご本人ではなかったのです。長い間、年賀状だけのお付き合いが続いている方々も、
同じだけ年月を過ごしているわけで、今年のそれは、ご本人が亡くなられたのが
6人もおられ、お正月に入ってから奥様から電話をいただいて、そのことを知り、
改めて昔の想い出が蘇り、昔一緒に海外出張をしたり、同級生だったり・・。
 また、頂いた年賀状の中にも身体の具合が良くない、闘病している方が 7人も
おられ、中にはご自身ではなく息子さんからの代筆便をいただいたり、私の周辺事情
がひしひしとそれに向かって進んでいることを実感したのでした。

 亡くなられた方の中には私よりいくらかお若い方もおられ「がん」等を患ってお
られたのです。

 こればかりは何とも推し測れませんが、私は今のところすぐにお迎えされるような
兆候はないのですが、なんとなく「老いが迫って」来ているのだと認識しているのです。

           (ネット画像より)

 

 拙ブログ、2017.1.16の「多死社会」の記事は、新聞に取り上げられた五木寛之の
インタビューを交えたものでしたが、ブログの一部をコピペしました。

 『「死が突然訪れて来れば簡単ですが、多くの場合、自分が崩れゆく過程を体験
しないといけない。昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにあ
りました。しかし今は、死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう。」 「自らの人間的、
肉体的な崩壊に日々直面していかなきゃいけない。介護を受ける人たちも、ある種
の失意というか、痛みを感じているんだろうと思います。 だから、認知症は、天の
恵みなのかもしれないという医師もいますね。」で、本人は、そのような状態にな
れば、あまり食べず、水もあまりとらずに、枯れてゆけばいいじゃないか・・など
と語り、これからは、家族との絆も薄れるなかで、自らの老いや死と向き合わねば
ならない時代だといっています。子や孫に囲まれて、息を引き取るようなことは、
もうあり得ないと思った方がよいのではないか。最期は一人で逝く覚悟が必要だと
・・。』

          (ネット画像より)

 残り時間を宣告されているわけではありませんので、これまで通り何の準備もな
いまま日々を過ごしてしまうのですが、こんなので良いのでしょうか? さりとて
何をどうすればよいかもわからず、いっそのことアッと運び去ってもらうことを暗に
期待しているのかもしれません。

 無責任かもしれませんが、「そんなことまで責任を感じておれるか!」 の心境
で今日も過ぎて行くのです。

 

 

Love Story - Francis Lai (ある愛の詩)

 

 

 

コメント (4)
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