過ぎてしまいましたが、先週の1月18日が 牧野富太郎博士の命日でした。
牧野富太郎博士(1862年~1957年)は、土佐の生まれで、「日本の植物学の父」
とも呼ばれ、世界的に著名な植物学者ですが、小学校 2年で中退しているのです。
その理由として、生家は、酒造業と雑貨業を営む裕福な家に生まれますが、3才で
父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くし、造り酒屋の跡取りとして学問などは必要ない
と考えたとあります。しかし、幼少のころから植物に興味を持っていたそうです。
小学校中退でありながら65歳で東京帝国大学から理学博士の学位を受け、その後、
文化勲章受章、名誉都民・名誉区民などに顕彰されています。
牧野富太郎翁(70歳ころ)
(ウイキペディアより)
牧野翁は、学校には通わなかったが、身近な植物の観察や採集などに明け暮れ、
独学していたようで、10代の後半には、欧米の植物学に触れ、当時の著名な植物学者
との交流機会を得、19歳で上京し書籍や顕微鏡を購入したり植物園を見学するなど
活動を広げて行くのです。
やがて東京帝国大学の植物学教室に教授を尋ね研究に没頭し、天性の描画力にも
恵まれていて、25歳で同教室の学者らと共同で『植物学雑誌』を創刊します。同雑
誌は、現在も権威ある植物学誌となっているそうです。
また、『日本植物志図篇』(植物図鑑)を自費刊行に向けて絵は自筆で仕上げる
など注力し、さらには植物の新種を発見し、命名するなど着実に実績を積み、水草
の一種である「ムジナモ」を日本で新発見し、正式な学術論文で世界に発表したこと
で、世界的に名を知られるようになるのです。 この時、彼は28歳で結婚し大学の
近くに居を構えるのです。
研究は順調に進んで行くのですが、文献購入費や研究に多額の自費をつぎ込むこと
から、家業の経営が破綻するなど経済的には大変苦労する時代が続くのです。研究
にあまりにも一途過ぎることや学歴がないことなどから学内でも軋轢が多く苦労を
重ねますが、次々と成果を上げ、津村順天堂の協力などもあり、50歳から77歳(昭和
14年)まで東京帝国大学理科大学講師を務め、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、
助手時代から含めると実に47年間大学に留任しているのです。
東京帝国大学から理学博士を授与された年、発見した新種の笹に、妻の名をとっ
て「スエコザサ」と命名しています。 命名種は1500種にも及ぶそうですがイヌノ
フグリなども彼の命名によるとあります。
スエコザサ
(ウイキペディアより)
1940年には、集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行します。この本は改訂を
重ねながら現在も販売されているそうです。
もう8年も前になりますが、ランチの会で練馬区大泉の「練馬区立牧野記念庭園」
を訪れたことがありました。 この時は、初めに西武池袋線の練馬駅近くの小竹町
というところにある “まちのパーラー” でイタリアンランチを楽しみましたが、
この店は、乙武洋匡さんが経営する「まちの保育園」に併設されたレストランでテ
レビでも紹介された洒落た店でした。 8月の暑い日でしたが、車移動して牧野記念
庭園を訪れたのでした。
練馬区立牧野記念庭園
(ウイキペディアより)
庭園はそれほど広くはありませんでしたが、ひっそりと多種の植物が植えられて
いて、先の「スエコザサ」の碑がありました。 記念館は冷房がよく効いていて、
快適な中たくさんの資料類の展示を丁寧に拝見しました。 自筆の植物の絵など素
晴らしく感動モノでした。
牧野博士は、94歳で亡くなりますが、この30年間は、この地に住まわれていたそ
うです。 その居宅と庭の跡を昭和33年(1958年)に区立庭園としたとありました。
また、高知県には、高知県立牧野植物園が設立されているそうです。
墓碑 (東京谷中)
(ウイキペディアより)
ヘンデル: 歌劇「セルセ」:オンブラ・マイ・フ[ナクソス・クラシック・キュレーション #ロマンチック]