立川市柴崎町に鎌倉建長寺の別格地として多摩一円に末寺18ヶ寺を有する臨済宗建長寺派屈指の名刹「玄武山普済寺」はある。「楼門」を抜けると池に架かる「太鼓橋」があり、正面に堂々とした「本堂」(常照殿)、右に「寺務所」がある。寺務所の前には観音像が祀られている。また本堂裏に「極楽浄土の庭園」がありその一角に柵に囲われた堂宇内に全高は2mを超える 国宝の古塔「六面石幢」(幢は「はた」を意味する)がある。六面で板を組み合わせた形で六角形の台石の上に6枚の緑泥片岩の板が立てられ、更にその上に三重に笠石を置き頂上には宝珠を載せている。立川氏の居館であった1万坪の広大な境内はかつて相当な堂宇を擁していたが平成7年放火により「本堂」、「庫裡」、「客殿」「書院」などの建物、重要文化財の開山「物外可什禅師坐像」、本尊「聖観世音菩薩像」などの寺宝を焼失した。寺内には皇族の別邸があり昭和天皇(皇太子時代)をはじめ、皇室の方々が来駕され、昭和45年10月の「楼門」落慶時には三笠宮崇仁殿下・同妃殿下が来臨された。当寺は創建以降、立川氏の庇護のもと僧侶修行道場として隆盛を極めた。貞治年間(1360年代)より約40年間に亘り「普濟寺版大乗経典」を刊行し当地方の仏教・文化の殿堂として重要な役割を果たしていた名刹としての名残、風格を備えている。(1610)
立川市柴崎町に鎌倉建長寺の別格地として多摩一円に末寺18ヶ寺を有する臨済宗建長寺派屈指の名刹「玄武山普済寺」はある。山号の「玄武」は四方の神のひとつで「北」に当たり水の神を表す。開山は物外可什禅師、開基は武蔵七党日奉氏の支族である立川宮内少輔宗恒で創建(伝)は文和2年(1353)。当寺は羽柴秀吉の小田原征伐により滅亡・衰退した立川氏の居館が当地に移され今の「普済寺」となった。江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領、末寺18ヶ寺を擁した中本寺格の寺院である。本尊は聖観音菩薩。立川駅南口より15分の所にあり、参道へ入る「山門」前左には精巧な造りというよりはむしろ荒削りな印象を受ける高さ高さ7m、重さ20トンの巨大な「石灯籠」(お化け燈籠といわれている)、そして右手にはどっしり感のある立派な「石柱」にまず目を奪われる。ここより昭和45年建立の入母屋唐様式扇垂木総檜造り四脚門「楼門」(澄心閣)まで100mはろうかとい長い綺麗な「参道」が続く。両側には土塁や墓所が配されている。重厚な「楼門」前右にはまだ新しい「鐘楼」、「心源庵」(塔頭)、左に閻魔大王像と10体の脇侍、地蔵菩薩立像、脱衣婆が安置されている「閻魔堂」、「六地蔵」がある。当寺には国宝の古塔「六面石幢」(幢は「はた」を意味する)があることでも名が知られている。次記事で紹介する。(1610)
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