先日相模川左岸の「新戸会場」と「勝坂会場」他3ヶ所で開催された「相模の大凧まつり」。新戸会場のお隣では「座間会場」もある。初日(5/3)は3回目の挑戦で8間凧がやっと揚がった。新戸会場で凧揚げの様子を見守っていると皐月の大空に数回にわたって「軍機」(戦闘機とヘリコプター)が演習なのだろう飛来してきた。急いでフォーカスしてみたがスピードに追い付いていけない。どういう軍機なのか全くわからないが、この会場の近くには「座間基地」と大和に「厚木基地」のどちらかであるが、座間基地には滑走路がないので、恐らく厚木基地からの演習ではないかと思われる。基地傍の住宅、住民間では騒音の問題もあるようだが、こうして遠目に見ている分にはいいが、被写体の対象として捉えていいものかどうか・・・・考えさせられる。(1805)
厚木市恩名に曹洞宗寺院「玉宝山興福寺」はある。創建は永禄3年(1560)。本尊はお釈迦様、道元禅師と瑩山禅師。小田急線「本厚木駅」北口より左手に進み、県道603号線の左側に位置している。「寺号標」(寺門)の先に木造造りの「山門」が構えられ、六地蔵が建てられている。「山門」を抜けると広大な境内の中央に「本堂」右に庫裏がある。また嘉永年間(江戸時代後期)「火防の神」として篤く信仰された「秋葉大権現」を祀る「秋葉権現堂」、また明治期にこの地域で観音信仰が盛んになり「丹波国成相寺」の「聖観音」を勧請し祀る「観音堂」、別に「弁財天堂」がある。イヌマキやクロマツが茂り静寂な落ち着いた佇まいの寺域である。(1804)
厚木市旭町に「牛頭天王社」(現在の厚木神社)の別当寺「智音寺」は天正年間(1573~1592)開基の古刹であったが、廃仏毀釈(幕末から戦中にかけて行われた仏教排斥運動)で廃寺となり「智音神社」となった。屋島の合戦後、鎌倉に引き上げてから那須与一が眼病を患った際、厚木の天王森に祭られた薬師如来に祈願し完治した礼に「智音寺」を建立したとされる。鳥居を潜ると正面に「拝殿」、左手に「鬼子母神堂」がある。この堂は明治初期、呉服豪商「高部源兵衛」の夢枕に鬼子母神が現れ十羅刹の元屋敷に鬼子母神を祀るようにというお告げに土蔵内の仏像(鬼子母神)用の堂を建て祀り供養を行った由来をもつ。大正末期頃まで多くの露店が出て大賑わいであったが移転後は廃れてしまったようである。「游相日記」によると渡辺崋山が「厚木六勝図」を写生後、「知音寺」に立ち寄り住職より茶菓の接待を受けたと記してある。寺院であったの名残りなのか境内左手には墓地があり、そのどこかに「那須与一」が眠っているらしいが不明であった。(1804)