小田原市城山に北条氏綱の娘の「崎姫」や北条氏綱公の娘の「香沼姫」達の菩提寺となる曹洞宗寺院「栖龍山高長寺」はある。明治時代に横浜監獄小田原分署幼年監が設置された際に用地内にあった小田原北条時代(1500年頃)に創建の「高源院」と現在地にあった「長吉寺」が合併し一文字ずつ取り「高長寺」と改称した。小田原駅より線路沿い際に銅板葺き薬医門形式の「山門」が構えられている。この門は西栢山村の旧家井上八衛門の所有であった。山門前には当寺の縁起案内と石柱、右には「地蔵堂」が建っている。「山門」を抜けると長い石畳の参道の先に銅板葺き入母屋造り屋根平入り「本堂」がある。藍鼠色に着彩された軸組に軒桁と細い飛貫の隙間に換気格子を嵌めて精巧な造りは技術の高さが窺える。季節ではないが境内にある「白木蓮」の大木は市の天然記念物となっている。また裏手の墓所には近代浪漫主義文学の先駆者「北村透谷の墓」と文政年間に日本最後の公許による仇討ちを果たした浅田兄弟の兄「鉄蔵の墓」があることで知られている。(2101)
大和市下鶴間、矢倉沢往還(大山道)の下鶴間宿があったところに大和市指定重要文化財施設である「下鶴間ふるさと館」(2006年4月開館)はある。この「ふるさと館」は江戸末期に薬など雑貨商を営んでいた「旧小倉可光家住宅」の母屋と白壁の「土蔵(袖倉)」を復元した建物である。宿場の商家建築としては県内でも数少ない建物である。平成7年の解体調査の際、ザシキの床板から墨書きの落書が見つかった。「安政3年」(1856年)という年紀のほか、大工と思われる「石田利三良」という名前、さらに黒船の絵などが書かれている。矢倉沢往還(母屋の裏)には幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き人目の惹くように高く掲げておく場所であった「高札場」の「説明板」がある。高札場は神奈川県の東海道では9つの宿場にそれぞれ1ヶ所ずゝあったという名残である。母屋は江戸時代の建築遺構で「木造銅版葺き」、「入母屋造り」、「四間取り」となっている。(2101)