相模原南区下溝の鳩川沿いに福井県の永平寺、鶴見区の總持寺を本山とする曹洞宗寺院「補陀山清水寺」(補陀とは観音が住むという山、清水は相模川の清流に因む)はある。縁起によると慶長元年(1596)、天應院八世天山存雪大和尚が開創。寛永年間(1624~44)に浅草「東岳寺」の慧林宗哲が晋住し伽藍を建立した。本尊は十一面観世音菩薩(慶長末期に寺の井戸から現れたもので、大同年間(806~10)に坂上田村麻呂が観音勧請の聖地として祀ったもの)。寺号標(門柱)奥正面に新しく建て直された「本堂」があり、参るには二階へ上がらなくてはならない。本堂前には十一面観世音菩薩像と石碑があり、寺の背後に墓地がある。また当寺は「武相48ヶ所観音霊場」の32番札所である。5年ぶり訪問(参拝)であった。(1711)
人吉市麓町=国指定史跡人吉城跡内に七百年に亘って人吉・球磨地方を治めてきた相良家関係の資料を収蔵、史跡人吉城をまるごと知ることができるガイダンス施設「人吉城歴史館」はある。白色で統一された建物(館)は「展示棟」、「管理棟」、「地下室遺構覆屋」に分けられている。展示物は兵法や狩りに関する古文書、人吉城の別名でもある「繊月城」の名の由来となった「繊月石」がある。館内には「城に学ぶ」を展示テーマとし「人吉城」と「当主相良氏」を中心に映像を使用した展示もされている。また世界に類例のない相良清兵衛屋敷の井戸を備えた特殊な石造の地下遺構「地下室遺構」がある。これは東西が6m、南北が5.2m、深さは3m。地下室には北東角と南西角に石階段の出入口が付いている。西側中央部には湧き水を湛える深さ2.3mの井戸があり、その底には日本刀一振が沈められていたという。寛永17年(1640)の人吉城絵図にある相良清兵衛屋敷内の二階建て「持仏堂」の位置にある。建造当時の姿に石積みが復元されている。(1711)
相模原下溝に昭和29年に築造された相模川系横浜水道局の沈殿処理に使われている「相模原沈殿池」はある。昭和29年に築造され88万㎡の貯水量で横浜市民が一日に使用する水量の7割というからごい貯水である。柵越しに見る光景はまるで海か湖を見ているかのような広さで素晴らしい景色である。この沈殿池は「かながわの探鳥地50選」にも選ばれておりコサギ、カルガモ、カワラヒラなど数十種類の野鳥の休息場で、その野鳥を観察、撮影する愛好家の「バードウオッチング」スポットとなっている。訪れた日、「20羽近くのカモ」が陸に上がり餌を啄み休息中であった。(1711)
南区相模大野=伊勢丹、グリーホール、図書館に隣接し地域住民の憩いの場として親しまれている「花と水と緑」がテーマの公園、相模大野のもんじぇ祭り、ハロウィンなど各種イベントが行われる公園「相模大野中央公園」はある。園内には四季を通じて季節の花が咲き乱れる花壇、相模湾をイメージした池と噴水、幾つもの遊具と砂場のある「チビッコ広場」、風の広場、水の広場、語らいの広場、集いの広場、四季の道などがある。園内でまず目を惹くのがグリーンホール、図書館から繋がっている階段そばの紅く染まった「モミジ」は美しく、また公園の左側の遊歩道を木々を見上げれば紅く色づいたモミジやオレンジ色、黄色く色づいた「落葉樹」が公園を今美しく、華やかに染めている。(1711)
熊本県人吉市に相良藩により360年以上、一向宗(真宗・浄土真宗)の教えが禁じられていた人吉・球磨地方に明治11年(1879)一向宗の念仏禁制の解禁後初めて現在地に「本願寺人吉説教所」として竣工した浄土真宗の寺院「本願寺人吉別院」はある。明治36年に「光尊寺」と改称、本山別院と定めて地方庁の許可を得た後、大正8年11月21日に認可され「本願寺人吉別院」と改称、現在に至っている。本尊は京都「勝満寺」の息で、一条「浄教寺」の住職「智洞師」の所宝を本山より明治36年に御下附された由緒ある阿弥陀如来である。「山門」を抜けると境内正面に「本堂」、脇に「庫裡」、「鐘楼」、親鸞上人の石像、歌碑、三田源七老の名号碑等がある。(1711)