顔をめぐる人々の捉え方、文化や生活の中での位置づけを、その人に固有の表象・属性であった時代から化粧・整形による修正を経て自由に加工できる現代での変化の中で、社会的・文化的・哲学的に論じた本。
「はじめに」の最後で5章構成だが「各章の関連は希薄である」と述べられている(ⅹページ)ように、比較的軽めのサブカル論的なものと衒学趣味的な哲学的な文章がぶつ切れに並んでいます。どこかに書いたものを寄せ集めたのかなと思えますが、「初出」の記載はありません。全部書き下ろしならば、もっとつながりを持たせようとするものだと思うのですが。
「奥行きをなくした顔」は、1つには平面(2次元)の顔(かつて日本人は西洋人の彫りの深い顔に憧れ化粧でそのようになろうとしていたが今や加工で「かわいく」しやすい平面的な日本人の顔にフランス人の女の子が憧れる時代なのだとか:47~48ページ)を(平たい顔族:テルマエ・ロマエか…)、もう1つには内面や経験を示さない/その裏付けのない表層を示しています。デジタル・ヴァーチャルの世界でしか会わない人の間で加工し放題の/加工に抵抗がなくなった「顔」の持つ意味はそのような方向性を持って変容していく、というようなことかと思います。
ビデオ会議について、「はじめに」で「実際にオンライン授業や会議にビデオ会議システムを導入してみると、双方向的なコミュニケーションに関心ていえば、メリットよりもデメリットの方が目についた感がある。たとえば、参加する人数が多い会議では誰が発言しているのか分かりづらく、また聴いている他の参加者の反応も伝わりにくいために、時間と空間を共有しているという臨場感に欠ける。発言者はまるで壁に向かって話しているような気持ちになり、共感や異論が確認しづらいため、会議の進行を不安にさせたのである」(ⅱページ)、「ディスプレイに浮かんだ『顔』からは解読すべき記号性を見つけることが困難」「お互い『顔色をうかがう』ことが難しく、一方通行的な情報の伝達に終始せざるを得ないのである」(ⅲページ)と書かれているのは、Web会議嫌いの私には、共感できるところです。単に新しい技術に対応できない「旧人類」の愚痴・ぼやきかも知れませんが。
米澤泉、馬場伸彦 晃洋書房 2021年9月30日発行
「はじめに」の最後で5章構成だが「各章の関連は希薄である」と述べられている(ⅹページ)ように、比較的軽めのサブカル論的なものと衒学趣味的な哲学的な文章がぶつ切れに並んでいます。どこかに書いたものを寄せ集めたのかなと思えますが、「初出」の記載はありません。全部書き下ろしならば、もっとつながりを持たせようとするものだと思うのですが。
「奥行きをなくした顔」は、1つには平面(2次元)の顔(かつて日本人は西洋人の彫りの深い顔に憧れ化粧でそのようになろうとしていたが今や加工で「かわいく」しやすい平面的な日本人の顔にフランス人の女の子が憧れる時代なのだとか:47~48ページ)を(平たい顔族:テルマエ・ロマエか…)、もう1つには内面や経験を示さない/その裏付けのない表層を示しています。デジタル・ヴァーチャルの世界でしか会わない人の間で加工し放題の/加工に抵抗がなくなった「顔」の持つ意味はそのような方向性を持って変容していく、というようなことかと思います。
ビデオ会議について、「はじめに」で「実際にオンライン授業や会議にビデオ会議システムを導入してみると、双方向的なコミュニケーションに関心ていえば、メリットよりもデメリットの方が目についた感がある。たとえば、参加する人数が多い会議では誰が発言しているのか分かりづらく、また聴いている他の参加者の反応も伝わりにくいために、時間と空間を共有しているという臨場感に欠ける。発言者はまるで壁に向かって話しているような気持ちになり、共感や異論が確認しづらいため、会議の進行を不安にさせたのである」(ⅱページ)、「ディスプレイに浮かんだ『顔』からは解読すべき記号性を見つけることが困難」「お互い『顔色をうかがう』ことが難しく、一方通行的な情報の伝達に終始せざるを得ないのである」(ⅲページ)と書かれているのは、Web会議嫌いの私には、共感できるところです。単に新しい技術に対応できない「旧人類」の愚痴・ぼやきかも知れませんが。
米澤泉、馬場伸彦 晃洋書房 2021年9月30日発行