Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「横山大観展-良き師、良き友」(その3)

2013年11月05日 23時32分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日横浜美術館の「横山大観展」に行ってきた。3度目である。今回はこれまでよりは少しは混んでいたが、連休中の割には人は少ないと感じた。ゆっくりと見てまわることが出来る。
 さて前回は横山大観の絵に現れる日本や中国の人々の姿態・表情に対する違和感と、一方で風景描写の馴致に触れた。また人物像でもインドの地の人々の描写や仏像特に観音像については新しい把握が感じられると私は考えたことを記した。

 今回再び展示を見てまわって、この感想に変更がないことをあらためて確認できた。その中でいくつかの感想を得たので、記してみる。

 まず前回、乳房も露わな観音像について触れた。人間の表情をした仏画、それも観音を女性像として描いた作品は、私はなかなか新しい視点をもたらしたのかな?と思った。仏陀の説法を描いた作品なども無表情なものではなく、個性豊かな人物像の集合としてみることが出来て好ましかった。それも類型化された表情ではなく個性ある表情に描こうとする意欲が伝わるように思えた。どうしてインドの人々の表情や仏画の表情と、中国に題材を得た歴史の一齣の絵などがこうも違うのか不思議である。中国の歴史的な人物を人間的に描こうとするには、その物語の背景にある人物理解に無理があるのかというのが、私の当面の理解というふうにしておこう。



 上に上げる3枚一組の絵、3枚を貫くのが何なのかは不明だ。しかし左右の絵の遠近法は作者が追及してきた技法に基づくもので、風景から受け取る空気感も好ましいと思う。左図の雪の中の近景の緑、右図の近景の濃い緑の森、共に緑が実に効果的だ。そして女性として描いたと思われる観音像の下を覆う黒い雲状のものがどっしりとして重みを与えている。構図上も私の好みの絵柄だ。
 観音の存在が、四季という時間と空間を超越していることを示す図なのだろうか。展示1915年の制作年代が示されていた。



 次が鹿と葡萄を描いた1917年の「秋色」。琳派のような描き方かと思ったが、琳派の装飾性ある絵と比べると、葡萄のデザインが少し細かすぎるように感じた。琳派の絵というのは、大胆にデフォルメされた装飾性の強い画面の迫力が特徴だと思っているが、この絵はそうではない。逆に一対の鹿、多分雄・雌なのだろうが、その鹿につけてしまった表情が軽薄の謗りを免れないのではなかろうか。
 座った雌と思われる鹿の髭と少し開き気味の笑うような口元。葡萄を食んでいる雄と思われる鹿の幸福感溢れる目元。いづれもこの秋の実りの豊かさと雄雌一対によってもたらされる生命の充足感を感じさせるが、それが安直な幸福感に見える。
 余計な表情をつけてしまったというのは、ひねくれた私の見方でしかないのだろうか。秋の実りの中にいる二頭の鹿を描くだけで、それだけで生命の充足感や満足感を象徴するのだから、余計なものは排除したほうが思いは伝わるのではないだろうか。「蛇足」という言葉の由来、「言いおおせて何かある」という芭蕉の言葉を思い出した。
 右双の葡萄と槙の木。これほどの繁茂を描きつくした熱意、エネルギーに脱帽だが、表現過多、くどさを感じてしまう。緑と赤と黄、そして実の黒い点のバランスやそれぞれの色のうねるような装飾性、構図に工夫は感じるのだが、やはりくどいいのではないか。葡萄と槙の取り合わせは面白い。針葉樹のと葡萄の広い葉、常緑と枯葉になりかけの葡萄葉、計算された配置なのだがそれが鼻についてしまう。
 私は鈴木其一の「夏秋渓流図」を思い出した。あの絵の溢れるような青と緑、常緑樹の茶の幹と緑の葉、そして微かに点在する黄葉した広葉樹の葉、全体にリズムがあり、緑と青のリズミカルな配色に比べるとどうしても見劣りがしてしまう。
 左双はもっとすっきりした配置が望ましいと、おこがましくも感じた。

新講座、そして何故かインフルエンザ予防接種

2013年11月05日 21時11分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 伊豆大島の水害から確かもう3週間がたったはずだ。まだ行方不明者がおり、捜索が続いている。土砂の撤去も大変な状態であるらしい。港が流れてきた土砂で埋り、海面よりも高く堆積している場所があるとのこと。船の出入りが出来ないということらしい。とてつもない量の土砂の流失ということのようだ。火山で出来た島の土砂災害のひどさをあらためて認識した。



 さて、本日から「国境と境界を考える」という神奈川大学の新しい公開講座が始まった。5回連続で5人の講師による連続講座である。
 国境紛争というナショナルな課題が浮上しているが、どのような講義となるか興味がある。
 本日は高江洲昌哉氏の講義。
 講義の内容は沖縄・奄美という境界領域の近代史から見た日本ということなのだが、なかなかうまくまとめられない。
 ただ、清沢洌(きよし)というジャーナリストの名を教えてもらった。「清沢洌評論集」というのが岩波文庫から出ているとのこと。
 清沢洌(1890-1945)はジャーナリスト・評論家で、戦前の田中義一内閣時の外交姿勢(国際協調の「幣原外交」を破棄し、日本の「利権確保」を掲げて3度の山東出兵)を批判して、「愛国心は地図の色と「国威」にのみ血眼となってその根底に算盤がない」と批判した人物とのこと。ここでいう算盤とは経済合理性・貿易による利のことを指すということのようだ。
 敗戦直前の1945年5月に病死したが、「今回の戦争の後に、予は日本に資本主義が興ると信ず。総てを消費しつくとたる後なれば、急速に物資を増加する必要あり。然も国家がこれをなすのには資金なく、また官僚を以ては、その事の不可能なことは試験ずみである」「政治家に必要なのは心のフレキシビリチーである」などの言を残したとのことがネットで検索したら、松岡正剛氏のホームページに掲載されていた。
 清沢洌という人、私はまったく知らない人である。

 高江洲氏の講義はうまくこなれていなくて、何を講師が伝えたいのか私にはうまく理解できなかった。島尾敏雄なども引用されていたし、沖縄・奄美・隠岐・対馬・小笠原などの島嶼から戦後史を読み解こうとする問題意識、辺境からの照射などなかなか興味深い視点をお持ちのようだ。だが、不肖の聴講生である私には難しかったといえる。しかし、この清沢洌という人物には興味を持った。何かの機会に読んでみようと思った。
 島尾敏雄の視点として取り上げられていた言葉は
 「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球孤の方が騒がしくなるといいますか、琉球孤の方からあるサインが本土の方に送られてくるのです。そしてそのために日本全体がざわめきます。それなのに、そのざわめきがおさまってしまうと、また琉球孤は本土から切り離された状態になってしまうのです。」(「ヤポネシアと琉球孤」1970年)
 私は、この「ヤポネシアと琉球孤」は、就職した頃だから1975年以降に単行本で図書館で読んだことは読んだのだが、この言葉に記憶がない。なんといういい加減な読み方をしていたのだろう。

 さて本日は、緑内障の点眼薬が切れたので眼科へ、さらに血圧の薬をもらうついでにインフルエンザの予防接種をしてもらった。この二つの診療と予防接種であわせて1万2千円。これは大変な出費。眼科が6千円もする。予防接種が3150円。
 予防接種を受けたら「今日は激しい運動はダメ。また大量のお酒は控えてください」とのこと。大量でなければいいんですか?と聞いたら看護師はニコッと笑って「少量ならば‥」と応えてくれた。妻に話したらそのような医院は信用しないほうがいいよ、との御託宣。それでも缶ビール1本をいただいた。

 夜のウォーキングはやめて、早く寝ることにしよう。