昨日横浜美術館の「横山大観展」に行ってきた。3度目である。今回はこれまでよりは少しは混んでいたが、連休中の割には人は少ないと感じた。ゆっくりと見てまわることが出来る。
さて前回は横山大観の絵に現れる日本や中国の人々の姿態・表情に対する違和感と、一方で風景描写の馴致に触れた。また人物像でもインドの地の人々の描写や仏像特に観音像については新しい把握が感じられると私は考えたことを記した。
今回再び展示を見てまわって、この感想に変更がないことをあらためて確認できた。その中でいくつかの感想を得たので、記してみる。
まず前回、乳房も露わな観音像について触れた。人間の表情をした仏画、それも観音を女性像として描いた作品は、私はなかなか新しい視点をもたらしたのかな?と思った。仏陀の説法を描いた作品なども無表情なものではなく、個性豊かな人物像の集合としてみることが出来て好ましかった。それも類型化された表情ではなく個性ある表情に描こうとする意欲が伝わるように思えた。どうしてインドの人々の表情や仏画の表情と、中国に題材を得た歴史の一齣の絵などがこうも違うのか不思議である。中国の歴史的な人物を人間的に描こうとするには、その物語の背景にある人物理解に無理があるのかというのが、私の当面の理解というふうにしておこう。
上に上げる3枚一組の絵、3枚を貫くのが何なのかは不明だ。しかし左右の絵の遠近法は作者が追及してきた技法に基づくもので、風景から受け取る空気感も好ましいと思う。左図の雪の中の近景の緑、右図の近景の濃い緑の森、共に緑が実に効果的だ。そして女性として描いたと思われる観音像の下を覆う黒い雲状のものがどっしりとして重みを与えている。構図上も私の好みの絵柄だ。
観音の存在が、四季という時間と空間を超越していることを示す図なのだろうか。展示1915年の制作年代が示されていた。
次が鹿と葡萄を描いた1917年の「秋色」。琳派のような描き方かと思ったが、琳派の装飾性ある絵と比べると、葡萄のデザインが少し細かすぎるように感じた。琳派の絵というのは、大胆にデフォルメされた装飾性の強い画面の迫力が特徴だと思っているが、この絵はそうではない。逆に一対の鹿、多分雄・雌なのだろうが、その鹿につけてしまった表情が軽薄の謗りを免れないのではなかろうか。
座った雌と思われる鹿の髭と少し開き気味の笑うような口元。葡萄を食んでいる雄と思われる鹿の幸福感溢れる目元。いづれもこの秋の実りの豊かさと雄雌一対によってもたらされる生命の充足感を感じさせるが、それが安直な幸福感に見える。
余計な表情をつけてしまったというのは、ひねくれた私の見方でしかないのだろうか。秋の実りの中にいる二頭の鹿を描くだけで、それだけで生命の充足感や満足感を象徴するのだから、余計なものは排除したほうが思いは伝わるのではないだろうか。「蛇足」という言葉の由来、「言いおおせて何かある」という芭蕉の言葉を思い出した。
右双の葡萄と槙の木。これほどの繁茂を描きつくした熱意、エネルギーに脱帽だが、表現過多、くどさを感じてしまう。緑と赤と黄、そして実の黒い点のバランスやそれぞれの色のうねるような装飾性、構図に工夫は感じるのだが、やはりくどいいのではないか。葡萄と槙の取り合わせは面白い。針葉樹のと葡萄の広い葉、常緑と枯葉になりかけの葡萄葉、計算された配置なのだがそれが鼻についてしまう。
私は鈴木其一の「夏秋渓流図」を思い出した。あの絵の溢れるような青と緑、常緑樹の茶の幹と緑の葉、そして微かに点在する黄葉した広葉樹の葉、全体にリズムがあり、緑と青のリズミカルな配色に比べるとどうしても見劣りがしてしまう。
左双はもっとすっきりした配置が望ましいと、おこがましくも感じた。
さて前回は横山大観の絵に現れる日本や中国の人々の姿態・表情に対する違和感と、一方で風景描写の馴致に触れた。また人物像でもインドの地の人々の描写や仏像特に観音像については新しい把握が感じられると私は考えたことを記した。
今回再び展示を見てまわって、この感想に変更がないことをあらためて確認できた。その中でいくつかの感想を得たので、記してみる。
まず前回、乳房も露わな観音像について触れた。人間の表情をした仏画、それも観音を女性像として描いた作品は、私はなかなか新しい視点をもたらしたのかな?と思った。仏陀の説法を描いた作品なども無表情なものではなく、個性豊かな人物像の集合としてみることが出来て好ましかった。それも類型化された表情ではなく個性ある表情に描こうとする意欲が伝わるように思えた。どうしてインドの人々の表情や仏画の表情と、中国に題材を得た歴史の一齣の絵などがこうも違うのか不思議である。中国の歴史的な人物を人間的に描こうとするには、その物語の背景にある人物理解に無理があるのかというのが、私の当面の理解というふうにしておこう。
上に上げる3枚一組の絵、3枚を貫くのが何なのかは不明だ。しかし左右の絵の遠近法は作者が追及してきた技法に基づくもので、風景から受け取る空気感も好ましいと思う。左図の雪の中の近景の緑、右図の近景の濃い緑の森、共に緑が実に効果的だ。そして女性として描いたと思われる観音像の下を覆う黒い雲状のものがどっしりとして重みを与えている。構図上も私の好みの絵柄だ。
観音の存在が、四季という時間と空間を超越していることを示す図なのだろうか。展示1915年の制作年代が示されていた。
次が鹿と葡萄を描いた1917年の「秋色」。琳派のような描き方かと思ったが、琳派の装飾性ある絵と比べると、葡萄のデザインが少し細かすぎるように感じた。琳派の絵というのは、大胆にデフォルメされた装飾性の強い画面の迫力が特徴だと思っているが、この絵はそうではない。逆に一対の鹿、多分雄・雌なのだろうが、その鹿につけてしまった表情が軽薄の謗りを免れないのではなかろうか。
座った雌と思われる鹿の髭と少し開き気味の笑うような口元。葡萄を食んでいる雄と思われる鹿の幸福感溢れる目元。いづれもこの秋の実りの豊かさと雄雌一対によってもたらされる生命の充足感を感じさせるが、それが安直な幸福感に見える。
余計な表情をつけてしまったというのは、ひねくれた私の見方でしかないのだろうか。秋の実りの中にいる二頭の鹿を描くだけで、それだけで生命の充足感や満足感を象徴するのだから、余計なものは排除したほうが思いは伝わるのではないだろうか。「蛇足」という言葉の由来、「言いおおせて何かある」という芭蕉の言葉を思い出した。
右双の葡萄と槙の木。これほどの繁茂を描きつくした熱意、エネルギーに脱帽だが、表現過多、くどさを感じてしまう。緑と赤と黄、そして実の黒い点のバランスやそれぞれの色のうねるような装飾性、構図に工夫は感じるのだが、やはりくどいいのではないか。葡萄と槙の取り合わせは面白い。針葉樹のと葡萄の広い葉、常緑と枯葉になりかけの葡萄葉、計算された配置なのだがそれが鼻についてしまう。
私は鈴木其一の「夏秋渓流図」を思い出した。あの絵の溢れるような青と緑、常緑樹の茶の幹と緑の葉、そして微かに点在する黄葉した広葉樹の葉、全体にリズムがあり、緑と青のリズミカルな配色に比べるとどうしても見劣りがしてしまう。
左双はもっとすっきりした配置が望ましいと、おこがましくも感じた。