元行政マンとしての私が現役ならば、きっと佐藤直志さんには手を焼いたろう。いや私だけではない、行政全体が手を焼いたと思う。何しろ市の建築計画・復興計画に従わず自宅の再建をやると宣言してしまうのであるから。立ててはいけないところに家を建てるというのだ。家をたてるということは確かに生活の再建・地域の復興の端緒ではある。そのことを直志さんは無言で若い人に訴えていると感じた。
しかし、市の再建計画・復興計画と直志さんの自宅再建の思いとのズレはどう整理されたのであろうか。そこのところの経過は映画では不明だが、何故か家の再建は許可が出ている。
菅野剛さんがインタヴューの中で「町には建築することに妨害はするなと言ってきた」というような発言をしている場面があるから、違法建築は黙認なのかとおもった。だが年が明けてから、再建資金の申請書を正式に提出しているところを見ると、復興計画には抵触しなかったと判断もできる。そこら辺のはっきりした経過と結末は映画に表現されていないのはちょっと残念であった。
行政というのは避難所にも仮設住宅にも入らず、孤立している直志さんのような人とコンタクトを絶やすことは許されない。多分私は仕事の分担、あるいは職場での自分の役割からすれば、最後まで直志さんのような人とのコンタクトを取りつづけ、関係を継続する役割をいつの間にか担当していると思う。行政マンとしてはそのような役回りを自ら進んで続けてきた。このような振る舞いは何も「経験豊か」な50代の仕事と決められたわけではない。20代や30代でもこのような仕事がまわってくることがある。あるいはまわってくるような性格というのがある。私はいつもそのような仕事を引き受けてきた。
古い共同性が解体した都会では、新興住宅に囲まれてしまった地域に、周囲から孤立してしまった高齢の頑固者が点在している。古いことにこだわったり、些細なことに依怙地になって地域と軋轢を起こして嫌われ者になっているのだ。かれらが周囲と引き起こす事象で行政が関わらなければならないものは、どれも杓子定規では裁断できない困難がある。逆に言えばそれを引き受ける困難さが、仕事のやりがいでもある。人生の機微に触れながら、人との関係を継続する応用力が問われ続ける仕事である。
何度も繰り返してしまうが、副主人公でもある菅野剛さんはきっとこんな役回りをずっと続けてきた人柄かと思った。とても魅力的な人物である。その経歴がその豊かな人生を物語っている。この人を見つけたこともこの映画の手柄だと思う。
最後の場面で、出来上がった真新しい家に、妻とも別れ、津波で亡くなった長男の嫁ともわかれ、ただ一人で朝日を浴びながらお茶をすすり「ああ」と嘆声する直志さん。映画の評を書いている瀬戸内寂聴さんは「すがすかしい部屋でひとりお茶を呑む直志さんの無邪気な笑顔を見たとき、どんな災害も人間の柔らかな心と、強い意志を奪うことは出来ないのだという深い感動に、自分の心がうるんでいるのを感じた」と記している。
私は瀬戸内さんらしい優しさに包まれた言葉だと感じる。そのとおりだと思う。
だが、地域から孤立しながら、地域のまつりを支えた若い力に町の復興の明るい未来を見ている直志さんは、父母の位牌や写真、津波で亡くなった長男の位牌と写真以外の家族からは見放されているのである。位牌と写真と本人以外がいない真新しい家、最低限いなくてはいけない生きている妻が、この家にはいないのである。
この寂しさを直志さんはどこかに秘めている。監督もそれに気付いている。あの美しい朝日に「ああ」と出てきた言葉にもこの寂しさはこもっているのではないか。希望は確かにある。それだけの若い力もないわけではない。しかし一方で解体に瀕している地区の課題も残っている。若い力も永続的にこの地区にこだわるはずだという保障はない。 残念ながら祭りという熱気ある場だけでは明るい未来は描けない。直志さんが家族で孤立しているのは、実はこの地区で共通の悩みなのである。課題は笑顔に隠された向こう側に頑として立っているのである。
私はとてもいい映画を見たと感じた。