Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

肩凝り&台風30号

2013年11月10日 21時01分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 この一週間ほど首がとても凝っている。姿勢を正しく保つのがつらいときがある。
 40歳を過ぎた頃のいわゆる四十肩と言われた症状が出たときから首の回転がぎこちなくなっている。後ろを回すと左右とも30代のときよりもまわらなくなった。そしてゆっくり廻さないと痛みがある。それもずっと我慢してきている。
 今回、首の回転がつらいのはそのままであるが、首の凝りのひどい状況が続いている。背骨のゆがみやどこかの異状なのか、あるいは単なる肩こりなのかわからない。整形外科に行ったほうがいいのか、マッサージがいいのかそれもわからない。しかしこのまま凝りが続くようならば、保険診療で整形外科医に相談するのが金額的には安いのかもしれない、思うようになった。それだけつらくなってきた。

 本日は風が強く、雲が厚く垂れ込め暗い一日であった。午後妻の買い物に付き合って出かけたが、風が強いので厚手のシャツを着たらとても暑かった。帰りは腕まくりをして、汗を拭きながら帰ってきた。
 何とも不思議な、そして陰鬱な天候であった。こんな日は家でおとなしくしているのが正しい過ごし方なのかもしれない。それが出来ない性格なのが問題であることは承知している。それでもジッとしているのが嫌いだ。

 台風30号によるフィリピンの被害はひどい。日本では台風は偏西風に乗って東向きに進路を変えてからやってくる。弱まりながら襲ってくる。しかしフィリピン・台湾は弱くならずにそのまま直撃する。
秋田以北では明日は雪模様の予報が出ているが、一方で台風が猛威をほこっている。今年はいつまで台風が発生するのであろう。何事もないことを祈る。

釜石市長の講演から

2013年11月10日 13時45分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「危機に直面したとき、人は真価を発揮する」これは私のいつも頭の中に据えている言葉だ。危機というのは、突然の災害や危険に遭遇したときだけではない。それが予想されるときの引き受け方、身の処し方も含まれる。さらに災害・事故だけでなく人のつくる組織の運営に関して重大な決断をしなくてはいけないときなども含めて考えている。
 このような場面は、仕事をしているとき、通勤の途上のとき、山に登っているとき、買い物しているとき、地元の会合に出ているとき、家で寛いでいるとき‥24時間365日いつ何時出来するかわからない。たとえば地震、電車に乗っているときの事故‥。
 よく聞く話がある。普段は目立たないけれども、地震などの災害などのとき、避難の列でイニシャティブをとり的確な判断、指示をまわりに発信する人、避難所の混乱の中で全体の方向性をいつの間にか的確に示してリーダーシップを取っている人、大人数の事故などでも避難などの安全について冷静な判断を示して人々をリードする人‥。よく聞く話である。
 そのような人は普段あまりしゃしゃり出ることもない。どちらかというと目立たない人の場合が多いという。あるいは事態が収束すればそのままいつものように目立たない振る舞いにいつの間にか戻っているという。
 私はこういう人こそ本当のリーダーだと思う。

 昨日釜石市長の震災発生時の話し、震災直後の話を聞いた。野田市長の政治思想・政治的理念や所属政党について私は何も知らないし、今回この震災の話を聞くに際してそれらのことを事前に知っていたからといって、話を率直に聞くということに影響は無いと思っている。
 行政の長として、この未曾有の危機に直面して何をどう判断し、どのように対処しようとしたか、今までの何が欠点でそれをどう克服しようとしたか、どのような緊急判断をくだしたか、そして一番大切なのはこの危機に直面してどのように関わろうとしたか、聞きたかった。

 はっきりいうが、前回の台風26号のときの大阪の橋下市長のように30万人に避難勧告をだしているときに、家でツイッターに興じていて「私がいなくてはも市の行政は動く」と開き直る人間は論外である。これは危機を前にして逃げ出したのと同じである。戦争を仕掛けておいて、最初に戦場から逃げ出す司令官のようなものである。鳥羽伏見の戦いの時、戦いの回避の努力も、戦いの先頭にも立たず、自分だけ江戸まで戻ってしまった徳川慶喜のようなものである。「錦の御旗に鉄砲向けるのは水戸藩の主張・自分の本意ではない」というのは逃げた口実にはならない。
 今回の講演の釜石市長は、そういった意味では逃げも隠れもせず、震災という事態を真正面から引き受けた感じはする。実際に市政の現場でどのように振舞っているか、職員との関係など伺いしることは出来ないが、少なくとも話を聞く限りはエネルギッシュにそして、さまざまに行政の長としての判断・行動はやってきたと私は判断できた。
 通常の行政手法については現場ではいろいろあるだろう。人の使い方に問題があるかもしれない。私も行政の末端にいて、そして労働組合の役員をしていたから、行政手法については当局に文句もいい、争って来た経験もある。それについては材料もないので野田釜石市長に対する判断は今回はしていない。

 震災の発生当時、釜石市は議会の開会中であったとのこと。議長の休会宣言などという手続きを取る暇もなく、自然に休会状態となったこと。災害対策本部を作り情報を集めようとしたが停電となり、非常電源も働かないので、市域の情報を集めることも、国などの情報も聞けず、発信することも出来なかったこと。津波が襲ってきたときはさすがに茫然自失した瞬間があったことなどを生々しく語ってもらった。
 津波が引いても道路は瓦礫で使えず、バイク・自転車で職員が情報を集めたこと、港の国の機関に避難した人がいて、そこで非常電源が働き、避難者情報をまず聞いたことなど‥。短い時間に職員も含めて必死な市役所の状態はよく伝わった。
 多くの自治体の防災対策室や行政無線の発信場所が、外が見えないところにあるのはまずいという指摘はハッとした。災害の模様をモニター画面で見ることに頼ってはいけないのである。細かいこと、どうでもいいことではない。
 実際の状態を自分の目で見ながら判断をするということが大切なのである。マニュアルどおりに「津波が来るから避難してください」というアナウンスではダメという。実際に目で見ながら「津波が来る」という危険を切迫感をもって、自分の言葉でアナウンスするということが、真に危険を住民に知らせるもっとも大切なことだ、という指摘であった。これは生きた言葉だと感じた。
 横浜市という大きな都市では行政無線というのは現実的ではないが、それでも災害時のさまざまな判断を窓のない奥まった部屋でするというのは確かにおかしい。テレビドラマではないが、「事件は現場で起きている」のである。これは別に行政や企業や組織のトップの場合だけに求められるものではないであろう。どんな場合も現場の状況・情報が優先されて判断されるべきである。現場でどれだけ冷静に判断できるか、これが訓練であり、教訓化しなくてはならない。
 釜石市という歴史のある、名も通った三陸南部の中心的な市であるが、人口は4万人を切って過疎と高齢化に悩むまちであることは変わりない。

 このような状態を乗り切って復興に向けて次のステップに踏み出すわけだが、ハード・ソフトの面での復興計画がより身のあるものであることを願うものである。

 さて最後にひとつ付け加えると、戦争末期、釜石市は米軍の艦砲射撃を受けて市街地が壊滅したと言っていた。1897(M29)年、1933(S8)年の津波のほかに、当時の鉄鋼業を潰すための艦砲攻撃が行われていたということは初めて聞いた。空襲でなく艦砲射撃というのも生々しいものがある。


鎌倉街道補足

2013年11月10日 01時24分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は寒い日であった。午後の講座に出かける寸前にあわただしくブログの記事をアップした結果、いろいろと書き直しをせざるを得なかった。同時に補足が必要なこともあった。
 昨日の講座の補足は記事に《追記》として書き加えたのでそちらを見て欲しいが、鎌倉街道について、重複もあるがあらためて稿を起こしてみる。


 本郷台からとなりの港南台駅まで鎌倉街道を約10000歩ほどを歩いた。この鎌倉街道は長年管理に関わった道路でもあり、また震災の当日の夜に暗い中を家まで歩いた道でもある。
 一昨日歩いたのはそのほんの一部。この鎌倉街道の栄区から港南区に抜けるところは七曲といわれ、幕末の1860年までは急な峠道の難所であった。関内が開港地となり、その後背地であるこれらの地域と横浜を結ぶ鎌倉街道の重要性が増し、また付近の田畑の浸水対策もかねて1861年にこの峠道は切り開かれ直線の道になった。いまでも大きく迂回した当時の七曲の名にふさわしい旧道が残っている。また切り開いた尾根上の細い道も栄区側は辛うじて残っている。この尾根上の道も何かしらかの歴史的な役割を果していたと思われる。残して欲しい道である。
 本郷台から港南台めざして歩いたのだが、現役当時、仕事柄いろいろ調べたりしたことが懐かしく思い出された。この鎌倉街道沿いの江戸時代から幕末・明治維新直後の産業構造などは面白い研究課題となりそうだが、地元ではそのような研究は進められているのだろうか。私にその能力や熱意があれば関わっていたかもしれない。
 今歩いている鎌倉街道は、1941年の戦争中に大船の海軍工廠が出来たことで、一層重要性が増した道であった。現在では片側二車線で前線が開通しているが、私が就職した頃はまだ片側一車線で交通渋滞の頻発する道路であった。そして海軍工廠への物資の輸送路としての重要性からか、舗装の厚みが極めて厚い道路であった。あるいは大船の海軍工廠が米軍に接収された戦後に、この鎌倉街道の舗装が厚くなった可能性もあるが、いつごろ舗装が厚くなったのかは調べてもわからなかった。地元の方への聞き取り調査が必要だったのかもしれない。
 私が就職した当時、10センチのアスファルト二層の舗装の下には20センチものコンクリートの舗装がしてあった。水道やガスなどの地下埋設物を敷設したり、それを修理する際には、このコンクリートを破砕しなくてはならず、また道路の復旧に際しての手間を考えても、かなりの金額が必要となった。大変管理のしにくい道路であった。
さらに掘ってみたらコンクリート舗装の下は、小さな沢の水の排水に留意しないで道路を強引に作ってしまったために、土が洗われて広い範囲が空洞になっていたこともある。現在では拡幅にともない、このような舗装はすべてなくなった。
 軍事上重要であった鎌倉道は、確かにもともとが鎌倉幕府の軍事目的の道路であったことは間違いがないが、戦争中から戦後にかけても軍事用に再利用されたのは何かの因縁かもしれない。
 さて、畠山重忠が人生の最後を悟り、鶴ヶ峰から軍勢を従え鎌倉に向った際に通った道は、この川沿いの鎌倉道ではなく、山の尾根を縫うようにして走っていた鎌倉道であったらしい。この道は現在では大きな宅地造成の影響で寸断され面影もなくなっている。ほとんどの個所で辿ることも出来ない道になっている。しかしところどころに狼煙台跡や館跡などがあり、それらは当時を偲ぶよすがである。それらもいつの間にか忘れられていくかもしれない。
 現在鎌倉道は横浜市の南部では、上の道、下の道、早駆けの道、金沢道などの痕跡を辿ることが出来る。尾根の道、川沿いの道、軍勢のための道など目的もさまざま、そして盛衰もあったようだ。
 しかし道の記憶というのは忘れられやすい。確かな文献があるわけではない。古代の官道はよく現代の高速道路の整備にともなって発掘される場合がある。これらは古代も現代も意外と同じような施設を同じような手法で作るものとして話題になることがある。しかし人工的に作る古代や現代の道路とは違い、中世の道路は意外と自然地形に沿って出来上がり、そして時代と共に消長があったということだ。それは実際に住んでいる人々が行き来している、生きた道を利用して作ったことの証左でもある。