本日は10月22日に続いて根岸線本郷台駅傍の「アースプラザ」での古代史セミナーの5回目。「上毛野の古代史-歴史意識の形成と展開-」(講師:館林市市史編さん室専門指導員前澤和之氏)。紹介によると横浜市歴史博物館の前館長と云うことであった。
文献史学の立場での講演、資料を丹念に紹介しながら、上毛野(現群馬県付近)・下毛野(現栃木県南西部付近)の歴史的な位置づけについての講演。
「上毛野・下毛野がヤマト王権の蝦夷地(陸奥)進出の最短陸路をなしていて、その中枢は上毛野であったと思われること。蝦夷攻略の進展で毛野の中枢が東部に移り、下毛野が成立。蝦夷経営の前哨地が陸奥・出羽の現地に移るにしたがい、これまでの政治的地位の低下があり、蝦夷経営の兵員や物資の兵站基地として「坂東」8カ国という地域のあり方に再編された。延暦以降、武の地として足柄坂(東海道)と碓氷坂(東山道)に関が置かれ、「関東」という呼称が成立。東国統治のかつての拠点としての歴史意識が生み出されてきた。」というのがおおよそのまとめ。
蝦夷進出の拠点としての重要な位置づけの反映が記紀の記述に反映していることを読み解く作業を解説してもらった。
なかなか私には面白かった。兵站基地→坂東概念の成立→「騒乱の地」→「関東」の呼称成立→関東としての歴史意識が生み出される、ここら辺の展開をもう少しじっくりと聞く機会が欲しいと感じた。
帰路は、本郷台からとなりの港南台駅まで鎌倉街道を約10000歩ほどを歩いた。この鎌倉街道は長年管理に関わった道路でもあり、また震災の当日暗い中を家まで歩いた道である。本日はその本の一部。この鎌倉街道の栄区から港南区に抜けるところは七曲といわれ、幕末の1860年までは急な峠道の難所であった。関内が開港地となり、その後背地であるこれらの地域と横浜を結ぶ鎌倉街道の重要性が増し、また付近の田畑の浸水対策もかねて1861年にこの峠道は切り開かれ直線の道になった。いまでも大きく迂回した当時の七曲の名にふさわしい旧道が残っている。また切り開いた尾根上の細い道も栄区側は辛うじて残っている。この尾根上の道も何かしらかの歴史的な役割を果していたと思われる。残して欲しい道である。
仕事柄いろいろ調べたりしたことが懐かしく思い出された。この鎌倉街道沿いの江戸時代から幕末・明治維新直後の産業構造などは面白い研究課題となりそうだが、地元ではそのような研究は進められているのだろうか。私にその能力や熱意があれば関わっていたかもしれない。
《追記》
参考図として下記の地図が添付されていた。私はこの図を見て講演者の意図が随分と理解できたと思った。毛野の地域、時に初期には上毛野と云われたところが交通の要衝という意味がなるほどと思った。 この地図を見ると毛野の地域の中心が当初は西部の峠側にあり次第に比重が東部に移り、下毛野が成立したという論が、頷ける。
同時に中央から見ると確かに碓氷峠と足柄坂を出口として、孤立した地域として認識された可能性はあると感じた。陸路では入口が東海道が陸路として成立していたとしても足柄坂と、東山道の碓氷峠しかないように思われる。地理的にひとまとめに出来て、かつちょっと独立したような地域に見える。その上、陸奥への入口である。
日本海側の海運は古くから発達していたと仮定できるが、太平洋岸の海運は短距離を除けば遅れたといわれている。とすると陸奥への入口は海路越後から信濃・碓氷峠→白河関というのが時間的にも利用されたのかもしれない。今の東京の東海道線沿いは湿地で通行が困難であったことも考慮しなくてはならない。海上交通と陸路を交互に利用しなくてはならない手間を考えれば、東山道は利用価値が高かったのかもしれない。
ただし、ヤマトタケル伝承は東海道である。ここら辺はまだ考える余地はあるかもしれない。
このような地図は見たことはある。高校の歴史地図にもあったが、他の情報も書き込まれていて、平野と産地、陸路を単純にかつ目的に沿って明確に表示するということの大切さを認識した。
文献史学の立場での講演、資料を丹念に紹介しながら、上毛野(現群馬県付近)・下毛野(現栃木県南西部付近)の歴史的な位置づけについての講演。
「上毛野・下毛野がヤマト王権の蝦夷地(陸奥)進出の最短陸路をなしていて、その中枢は上毛野であったと思われること。蝦夷攻略の進展で毛野の中枢が東部に移り、下毛野が成立。蝦夷経営の前哨地が陸奥・出羽の現地に移るにしたがい、これまでの政治的地位の低下があり、蝦夷経営の兵員や物資の兵站基地として「坂東」8カ国という地域のあり方に再編された。延暦以降、武の地として足柄坂(東海道)と碓氷坂(東山道)に関が置かれ、「関東」という呼称が成立。東国統治のかつての拠点としての歴史意識が生み出されてきた。」というのがおおよそのまとめ。
蝦夷進出の拠点としての重要な位置づけの反映が記紀の記述に反映していることを読み解く作業を解説してもらった。
なかなか私には面白かった。兵站基地→坂東概念の成立→「騒乱の地」→「関東」の呼称成立→関東としての歴史意識が生み出される、ここら辺の展開をもう少しじっくりと聞く機会が欲しいと感じた。
帰路は、本郷台からとなりの港南台駅まで鎌倉街道を約10000歩ほどを歩いた。この鎌倉街道は長年管理に関わった道路でもあり、また震災の当日暗い中を家まで歩いた道である。本日はその本の一部。この鎌倉街道の栄区から港南区に抜けるところは七曲といわれ、幕末の1860年までは急な峠道の難所であった。関内が開港地となり、その後背地であるこれらの地域と横浜を結ぶ鎌倉街道の重要性が増し、また付近の田畑の浸水対策もかねて1861年にこの峠道は切り開かれ直線の道になった。いまでも大きく迂回した当時の七曲の名にふさわしい旧道が残っている。また切り開いた尾根上の細い道も栄区側は辛うじて残っている。この尾根上の道も何かしらかの歴史的な役割を果していたと思われる。残して欲しい道である。
仕事柄いろいろ調べたりしたことが懐かしく思い出された。この鎌倉街道沿いの江戸時代から幕末・明治維新直後の産業構造などは面白い研究課題となりそうだが、地元ではそのような研究は進められているのだろうか。私にその能力や熱意があれば関わっていたかもしれない。
《追記》
参考図として下記の地図が添付されていた。私はこの図を見て講演者の意図が随分と理解できたと思った。毛野の地域、時に初期には上毛野と云われたところが交通の要衝という意味がなるほどと思った。 この地図を見ると毛野の地域の中心が当初は西部の峠側にあり次第に比重が東部に移り、下毛野が成立したという論が、頷ける。
同時に中央から見ると確かに碓氷峠と足柄坂を出口として、孤立した地域として認識された可能性はあると感じた。陸路では入口が東海道が陸路として成立していたとしても足柄坂と、東山道の碓氷峠しかないように思われる。地理的にひとまとめに出来て、かつちょっと独立したような地域に見える。その上、陸奥への入口である。
日本海側の海運は古くから発達していたと仮定できるが、太平洋岸の海運は短距離を除けば遅れたといわれている。とすると陸奥への入口は海路越後から信濃・碓氷峠→白河関というのが時間的にも利用されたのかもしれない。今の東京の東海道線沿いは湿地で通行が困難であったことも考慮しなくてはならない。海上交通と陸路を交互に利用しなくてはならない手間を考えれば、東山道は利用価値が高かったのかもしれない。
ただし、ヤマトタケル伝承は東海道である。ここら辺はまだ考える余地はあるかもしれない。
このような地図は見たことはある。高校の歴史地図にもあったが、他の情報も書き込まれていて、平野と産地、陸路を単純にかつ目的に沿って明確に表示するということの大切さを認識した。