Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「上毛野の古代史」の講座、そして鎌倉街道

2013年11月08日 22時20分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は10月22日に続いて根岸線本郷台駅傍の「アースプラザ」での古代史セミナーの5回目。「上毛野の古代史-歴史意識の形成と展開-」(講師:館林市市史編さん室専門指導員前澤和之氏)。紹介によると横浜市歴史博物館の前館長と云うことであった。
 文献史学の立場での講演、資料を丹念に紹介しながら、上毛野(現群馬県付近)・下毛野(現栃木県南西部付近)の歴史的な位置づけについての講演。
 「上毛野・下毛野がヤマト王権の蝦夷地(陸奥)進出の最短陸路をなしていて、その中枢は上毛野であったと思われること。蝦夷攻略の進展で毛野の中枢が東部に移り、下毛野が成立。蝦夷経営の前哨地が陸奥・出羽の現地に移るにしたがい、これまでの政治的地位の低下があり、蝦夷経営の兵員や物資の兵站基地として「坂東」8カ国という地域のあり方に再編された。延暦以降、武の地として足柄坂(東海道)と碓氷坂(東山道)に関が置かれ、「関東」という呼称が成立。東国統治のかつての拠点としての歴史意識が生み出されてきた。」というのがおおよそのまとめ。
 蝦夷進出の拠点としての重要な位置づけの反映が記紀の記述に反映していることを読み解く作業を解説してもらった。

 なかなか私には面白かった。兵站基地→坂東概念の成立→「騒乱の地」→「関東」の呼称成立→関東としての歴史意識が生み出される、ここら辺の展開をもう少しじっくりと聞く機会が欲しいと感じた。




 帰路は、本郷台からとなりの港南台駅まで鎌倉街道を約10000歩ほどを歩いた。この鎌倉街道は長年管理に関わった道路でもあり、また震災の当日暗い中を家まで歩いた道である。本日はその本の一部。この鎌倉街道の栄区から港南区に抜けるところは七曲といわれ、幕末の1860年までは急な峠道の難所であった。関内が開港地となり、その後背地であるこれらの地域と横浜を結ぶ鎌倉街道の重要性が増し、また付近の田畑の浸水対策もかねて1861年にこの峠道は切り開かれ直線の道になった。いまでも大きく迂回した当時の七曲の名にふさわしい旧道が残っている。また切り開いた尾根上の細い道も栄区側は辛うじて残っている。この尾根上の道も何かしらかの歴史的な役割を果していたと思われる。残して欲しい道である。
 仕事柄いろいろ調べたりしたことが懐かしく思い出された。この鎌倉街道沿いの江戸時代から幕末・明治維新直後の産業構造などは面白い研究課題となりそうだが、地元ではそのような研究は進められているのだろうか。私にその能力や熱意があれば関わっていたかもしれない。

《追記》
 参考図として下記の地図が添付されていた。私はこの図を見て講演者の意図が随分と理解できたと思った。毛野の地域、時に初期には上毛野と云われたところが交通の要衝という意味がなるほどと思った。 この地図を見ると毛野の地域の中心が当初は西部の峠側にあり次第に比重が東部に移り、下毛野が成立したという論が、頷ける。
 同時に中央から見ると確かに碓氷峠と足柄坂を出口として、孤立した地域として認識された可能性はあると感じた。陸路では入口が東海道が陸路として成立していたとしても足柄坂と、東山道の碓氷峠しかないように思われる。地理的にひとまとめに出来て、かつちょっと独立したような地域に見える。その上、陸奥への入口である。
 日本海側の海運は古くから発達していたと仮定できるが、太平洋岸の海運は短距離を除けば遅れたといわれている。とすると陸奥への入口は海路越後から信濃・碓氷峠→白河関というのが時間的にも利用されたのかもしれない。今の東京の東海道線沿いは湿地で通行が困難であったことも考慮しなくてはならない。海上交通と陸路を交互に利用しなくてはならない手間を考えれば、東山道は利用価値が高かったのかもしれない。
 ただし、ヤマトタケル伝承は東海道である。ここら辺はまだ考える余地はあるかもしれない。
このような地図は見たことはある。高校の歴史地図にもあったが、他の情報も書き込まれていて、平野と産地、陸路を単純にかつ目的に沿って明確に表示するということの大切さを認識した。





本日のお酒

2013年11月08日 20時46分44秒 | 読書
   

 最近は料理のカテゴリーではお酒の紹介ばかりで、実際の料理が掲載できていない。調理をサボっているのは間違いないのだが、お酒の紹介が多すぎるということは確かである。何とも情けない。
 本日も日本酒の紹介。飛騨市の渡邉商店という醸造元のお酒。ホームページでは「渡辺酒造店のにごり酒は、数あるにごり酒の中でも「一番濃い」にごり酒です。どぶろくと同様に飲むというより"食す"と言ったほうが合うくらい濃いです。どぶろくと違い、微炭酸のピチピチ感や米のつぶつぶの食感、独特の酸っぱさはありませんが、南部杜氏の技、蓬莱蔵元のこだわりが注ぎ込まれた濃厚な甘み・旨みがあります。」となっている。本来にごり酒を中心とした醸造元のようだ。この「うすにごり」という製品の説明はなかった。
 アルコール度が18~19度と高めで「原酒」となっている。琉球グラスに注いでみたが、写真のとおりにうすくにごっている。微炭酸でとても口当たりがいい。以前に磐梯山の麓の温泉地に言ったとき、猪苗代湖の傍の酒屋さんで購入した出来立ての微炭酸のうすにごりのお酒を飲んだことがある。それと同じように実に爽やかな感じである。
 どこか懐かしい味がする。購入した酒屋さんのご主人の話では、にごり酒というのは普通は日本酒度とか酸度の表示はしないそうである。「旨味があり、煮魚に合うよ」といってくれた。本日我が家では煮魚ではなかった。椎茸の肉詰めと南瓜と小豆の従弟煮であったが、いい取り合わせであったと思う。飲みすぎる可能性があり、今晩は1合と少しでやめた。
 それでも4合瓶で1155円だったと思う(値段の記憶はあいまい)が、他のお酒と比べて特に高価ではなかった。



「北翔(純米酒)」

2013年11月08日 11時06分09秒 | 料理関連&お酒
 昨日の飲み会では、「ノンアル飲料で」という決意を新宿湘南ラインの中で固めていた。最初はウーロン茶を1杯注文しチビチビと飲みながらお通しやツマミをつついていた。しかしどうしても口がさびしい。
 店の中を見回すと、チラシが片隅に張ってある。新潟の酒の一覧表である。20数種類もの銘柄が書いてあり、日本酒度や酸度が書いてある。この日本酒度という尺度は何回読んでも理解できないのだが‥。酸度はあまり高くないものが私は口に合うような気がしている。古い友人に日本酒度も酸度も+2前後のものを目安にするといいといわれ、昔からそれにしたがっている。
 その一覧の中から、「北翔(純米酒)」という銘柄を選んだが、値段が手ごろであったことも大きな要因である。
 私はとてもおいしい感じた。サラダ一皿のほかに、鯛の兜煮が安くおすすめメニューになっていたのでこれを肴として注文した。この兜煮も薄味でおいしかった。つい「北翔」をおかわりしてしまった。

 なんという意志薄弱なオッサンだろうと自責の念はあっという間に吹き飛んで、至福の1時間半。21時に帰途についた。新宿湘南ラインのホームに行くと電車が遅れていた。「宇都宮線内濃霧のため」というアナウンス。珍しいと思いながら、たった10分の遅延だが、帰宅の通勤客でギュウギュウ詰め。
 しかも横浜に着いたら、横浜も霧の中。傘をさすのも変なのでそのまま歩いたが、家についたら着物がかなり湿っていた。もし長時間歩いたらかなり濡れていたに違いない。怒られるところであった。

 今朝、ネットで「北翔」を検索してみたら、新潟県長岡市の酒店「地酒サンマート」という店のホームページに「北翔」の紹介が出ていた。新潟県村上市の「大洋酒造」という醸造元のお酒とのこと。私の飲んだ「北翔(純米酒)」の説明では、
 「大洋酒造には「高い酒が旨いのは当たり前、高品質の酒を低価格でお届けする」というコンセプトのもと、年1回の特約店からの注文分だけを仕込む、完全計画生産の限定銘柄「北翔」がありあます。」
 「「北翔」は、全国の特約店だけに販路を限定し、宣伝費などの醸造以外の余分なコストを徹底的に抑え、完全計画生産により普通酒にして吟醸酒クラスの55%精米という高精米、高品質を実現する、知る人ぞ知る銘酒です。」
 「控えめな香りと淡麗な味わいの中にも、適度で穏やかな米の旨味と奥行きのある円やかな味わい、キレの良い後味と純米酒特有の優しい飲み口が特徴です。」
と記載されていた。

 心配したバリウムは今朝何とか出きったようで、ホッとした。