23日に小海線甲斐小泉駅のすぐ横にある「平山郁夫シルクロード美術館」を訪れた。
平山郁夫という画家、私の印象はこれまであまり良くなかった。食わず嫌いというか、第一印象による偏見があってどうも近寄りたくなかった。
どんな第一印象かというと、あのシルクロードを行く隊商を描いた作品が私にはしっくり来ないのだ。
第1に隊商であるから荷の運搬が主である。ラクダの隊列ではラクダ1頭に人1人の割合でラクダを描くのは納得できない。1人でラクダを3頭も4頭も連れていなければ商売にはならないと思った。絵画であるから、それは省略しているのであろうし、また荷物だけのラクダがつながっていたのでは絵に緊張感がなくなるというのもわかる。
そして第2に、あれだけの大人数を描くことで、人の表情が画一的でつまらなくなっていると感じている。皆同じように表情がなく、寡黙に行進している。幻想の隊列である。いや作者の幻想の隊列であるのは当然なのだが、あまりに薄っぺらな幻想に見えて、実際の生身の人間の行進に到底見えない。
当然、当の自然の風景は写生に基づくものであろうが、それがあまりに平凡な景色に見えてしまう。厳しい自然条件下の風景なのに、あまりに平穏で静かな風景に見えてしまう。厳しい自然を敢えてあのように平穏に描いたのだろうか。
文化の伝播はもっと過酷な自然のもとで、もっと過酷な人間の集団の往来の中で、もっと過酷な運命にもてあそばれながら浸透したのではないだろうか。戦争あり、諍いあり、それを乗り越える厳しい統率があり‥。ただしそこの地域に定点として生きる人々は、そのような厳しさとは別に平穏な日常の連続の中で生きていたかもしれない。
あるいは定点の人々ではない隊商の人々も周囲の過酷な栄枯盛衰とは無縁にひたすら寡黙に砂漠の中を俯いて行き来していたのかもしれない。そうであっても平山郁夫の描く対象には人の息吹が感じられないと思っている。
言い方を変えれば、一連の作品には人間の意志が私には感じられなかった。それは多分に私の鑑賞に何らかの欠陥があった可能性のほうが強いと思う。しかしこのような食わず嫌いに近い形で私はこれまで平山郁夫の作品を敬遠して来た。
装飾的には美しいかもしれない。作者がシルクロードに持つイメージがこのようにあまりに平穏であることが、私には欠陥に見えてしまっている。
今回、日本の風景を描いた作品をいくつか並べた展示をしていたらしい。この中で私は奥入瀬渓流を描いた作品と、チラシの表に使われている奈良の佐保路の池の作品が気になった。緑のグラデーションが特徴のなのだが、平山郁夫の作品の多くが緑を主軸になっていないだろうか。緑の使い方に着目して他の作品も見ると面白いのかな、と感じた。私は新しい見方ができるのではないかと思った。
平山郁夫の作品を少し前向きにとらえてみる糸口にならないだろうか、と考えてみた。食わず嫌いを反省する機会かもしれないとの印象を持つことができた。
あるいはシルクロードの絵ばかりを目にしてきたのだが、この作者の真骨頂は国内の水が豊かで緑の鬱蒼とした風景が本来の力量が現れる作者なのかもしれないと思った。これまでの私の、食わず嫌いの評価の軸がずれていたのかもしれない。