Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日はガン検診

2013年11月06日 22時12分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一年に一度のガン検診である。昨年は大腸癌、前立腺癌、すい臓癌で二次検査にまわされたが、大腸のポリープを内視鏡でいくつか切除したほかは問題なしということで放免となった。
 今年は前立腺については問診表の答え方がまずかったようなのでもこれは二次検査にまわされることは無いと思われる。すい臓についても昨年の画像が残っているだろうからのう胞に変化が無ければ問題は無さそうだ。問題は大腸癌。今年は潜血反応を調べる検便は無くて、最初から内視鏡検査にまわされるらしい。明日はその日程を決めることから始めるようだ。

 大腸の内視鏡検査はもう何回目だろうか。潰瘍性大腸炎ということで50歳の時に入退院を5回繰り返して以来もう9回はやっている。今年で10回となるはずだ。あるいはもっとしていたかもしれない。看護師には「内視鏡のプロですね」といわれる始末。しかし苦しいことは変わらない。大腸が直角に曲がる何箇所かのところを通過するたびに痛くなり唸り声を噛み締めなければならない。
 最初から痛み止めをうてばいいのだが、横浜の市立病院では大腸の動きを抑制する注射だけをするようだ。一度だけ近くの病院でしたときは、痛み止めをあらかじめ注射したのでまったく痛みを感じなかった。いろいろやり方があるのだろうとは思うのだが‥。

 とても残念なのは明日に備えて「お酒はダメ」というお達し。明日もお酒は微妙だ。バリウムも飲むので、すべて出きらないうちは、お酒は飲むのはまずいと思う。
 大昔、今よりもっとたくさんバリウムを飲まなくてはいけなかった時、もう出切ったと思って、仕事が終ったから職場の人とビールをたくさん飲んだ。翌日みんな休まざるを得なかった。なにしろアルコールを分解するために水分が大量に体内で必要になり、結果として残っていたバリウムが固化してしまったのだ。
 私も職場に出ることが出来なくなり、予定外の休暇を取らざるを得なかった。大量の下剤を飲んでもダメだった。妻に浣腸をしてもらってようやく排出したことがある。あのときの苦しさは忘れられない。
 今ではあの当時よりはずっと少ないバリウムなので楽にはなったが、あの経験はもうしたくない。

 さて、明日は午前中は雨。駆け足で冬がやってくる。ついこの間まで30度越えで、夏だとばかり思っていたが、あっというまに秋が去っていってしまった。私は、夏のじりじりする暑さも嫌いではないが、冬も身が引き締まるような寒気がたまらなく好きだ。小さい頃、家に閉じこもりがちの私は、暑さ・寒さが大の苦手だった。変われば変わるものだ。

「横山大観展-良き師、良き友」(その4)

2013年11月06日 20時51分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 今回横浜美術館で開催している「横山大観展」は、大観の生涯の円熟期ともいうべき1936(S11)年68歳の「野の花」までを展示している。亡くなったのが1958(S33)年、89歳までの画業についてはまったく私は知らない。この円熟期と言われる時期の作品と晩年にいたる画業に対して占める位置についてはまったく無知である。どんな作品があるのかも知らない。富士山を描いたすぐれた作品があるということだが、恥ずかしながら見ていない。
 だが、会場に展示された絵だけで判断する限り、私は大正年間後半の1910年代後半以降、大きな画期があるような気がする。
これまでに掲載した「秋色」(1917)、「陶靖節」「喜撰山」(1919)、「夜」(1922)、今回取り上げる「雲揺らぐ」(1927)、「夜桜」(1929)、「白梅」(1929) など私の印象に残っている絵は大体がこの時期以降の作品である。今回の展示の最後の作品は「野の花」は1936年でちょっとかけ離れているが、1910年代以前の作風とはやはり違う。
 大観という画家はすぐれた画家といわれたが、それでも40歳代半ばまでは作家独自の技法や構図や題材、対象の描き方の模索を続けて来たのではないだろうか。すぐれた画家といわれつつその努力を継続してきたと思われる。

「喜撰山」(1919)


 大正8年の作品だが、着色は緑にこだわっているが、緑の波のリズムに加えるに、赤い地肌と茶の木の幹の配置のバランスが私は新しい挑戦だと感じた。昨日の「秋色」よりも画面のくどさが減っている。色彩のリズムを構成している木々の描き方がすっきりしてきている。私はこの簡素さへの志向に何故かホッとした。「秋色」とこの絵の間に2年という時間が流れている。同時期の絵に「夜」という前々回取り上げた梟と三日月と竹林の墨絵がある。

「雲揺らぐ」(1927)


 私は今回の展示でもっとも好きになった絵である。そそり立つ崖に生える影のような樹木が濃淡で描き分けられ、胡粉による滝の勢いある形が忘れられない。水煙か雲か、優雅なようでいて力溢れる水蒸気の豊かな盛り上がりの感触がいい。音が消えて水の強さが迫ってくるように思える。
 影絵をみているような錯覚に陥る。

「白梅」(1929)


 この絵について解説では、「彩色に濃淡をつけ遠近感を表現している」とあるが最初は私は理解できなかった。左上に太くなっていく幹の色が次第に薄く彩色されているのに気が付いたのは三回目の今回になってからだ。
 私が最初にすごいと思ったのは、右の細い枝の先端に近いほど明るく描かれて、日が当たっていると感じたときだ。それが遠近感の表現だと気付くまで時間がかかった。ありふれた題材と構図だが斬新な技法なのだと思った。

「夜桜」(1929)


 この絵は今回の展示のメイン作品のような扱いである。
 当初は私はそれほどの興味は湧かなかった。
 「秋色」と同じようにくどさ、詰め込みすぎ、と感じた。赤い火の描き方が取ってつけたようで、くどいと感じたのだ。あまりにお誂え向きにほんのりと明るく光が膨れ上がっている。いくら装飾性を追及しているとはいえ、作りすぎではないか、と感じたのだ。
 その気持ちはあまり変わらないが、ただし、緑の木と花の配置、背景の暗い山の対比は不思議なリアリティーがある。現実離れしたリアリティーといったら変だが、花の膨らむ勢いが実際の満開の桜の雰囲気をうまくとらえているようにも感じたのだ。画面のくどさは「秋色」よりも少しすっきりしている。夜の背後に山がある分、奥行がありすっきりしている。月もくどくない。
 この絵は、横山大観の円熟期と言われるまでの時期の中の、画期となる絵と理解していいのであろう。これまでの日本画にはない何かがある、という評価は当たっているのだろう。それほどの知見を持ち合わせていないが、斬新さが目に飛び込んでくる。それが私にとって好ましい絵かというと私はそれについては疑問だが、気になる絵であることは間違いない。

 この時期になって、構図上も少しずつ簡素になり、画面の簡素さにホッとするようになった。何か肩の力が好ましい方向に抜けたようでちょっと楽になったと思った。

「野の花」(1936)は7年もあとの作品だ。ここまでの円熟期を迎えた時期の作品よりも時間がたっている。解説では「「風俗画」の新境地」と記されている。

   

 どうも相変わらず人物に私は違和感があるのだが、この絵の見所は左双の植物の描き方だと思う。これまでとは違ってすっきりとした空間が存在し、窮屈さがまるでない。のびのびとした野原の開放感が伝わってくる。植物が生きている。装飾性と実在感を同時に感ずる。蝶の舞も楽しい。この人物がいなければ私はポストカードを買っていたと思う。

 人間の描き方に違和があるということは、多分、人間把握・人間理解に私とは相容れない溝が存在すると思う。それは多分晩年の絵に表れてくるのかもしれない。
 大観の絵の感想はこれで終了としたい。