Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ドキュメンタリー映画「先祖になる」を観る(その1)

2013年11月20日 23時48分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 神奈川大学の横浜キャンパスで放映されたドキュメンタリー映画「先祖になる」を観てきた。
 3月11日の震災で津波に襲われた岩手県陸前高田町気仙町荒町地区で生き残った佐藤直志さんの震災後の生き方を通して、彼の生き様を浮き彫りにした映画。
 なかなか見ごたえがある。淡々とした語りと進行なのだが、気負うことなく復興・再建をごく当たり前の人生の一齣のように向っていく姿勢に、人間の強さを感じることが出来る。あまりの頑固さに辟易とする周囲の困惑もよくわかる。私の身内に、特に親父がこんなだったら私は切れてしまうかもしれない。
 私も元行政マンである。だからこんな親父に出会ったら仕事はお手上げである。頑として避難所にも仮設住宅にも入らない。77歳にもなって妻に別居を宣告され、亡くなった息子の連れ合いとも離れても自宅に留まり、復興計画に抵触しても家を再建してしまう。まったくもって困った存在である。
 この映画の主人公、山の職人としての佐藤直志さんを見ていると、私に仕事を教えてくれた現業の先輩のAさんを思い出す。年齢は直志さんより6つほど若いが、表情も仕草も頑固さもよく似ている。わき目も振らず仕事をしているときの表情がそのままその頑固さと柔和さを物語っている。
 都会にもこのような職人はいっぱいいたのだ。多分今でもそんな職人気質は生きているだろう。しかしこの職人気質の人は今の時代では社会の先端、仕事の第一線にはいない。生き方としては片隅に追いやられている。私の先輩も現業職韻として大工、運転、建設作業を黙々とこなしていた。そして職場で必要なあらゆる作業のコツを身につけ、人に教えるでもなく、淡々とこなしながら若い人に仕事のやり方から人生の処世訓までも自然に伝えていた。このような人と寄り添うように私の職業人生の半分を共に過ごさせてもらった。
 私は以前にこのブログで釜石市長の講演を聞いた感想に「危機に直面したとき、人は真価を発揮する」と書いた。この映画でも、震災直後の困難な時期の主人公の話し、そして誰よりも早く復興に向けて動き出したときの直志さんの話しに、この言葉をあらためて実感した。
 ひとつひとつの行動がいつの間にか新しい生活の再建・復興につながっていく。自給自足という言葉を口にして、たんたんとして、だが梃でも動かぬ頑固さを持って断固として一人で田植えをし、蕎麦の実を蒔く。誰もそれを止めることも出来ない。
 それを支えているのがこれまでの人生で培ってきた地域の共同性であり、人のつながりである。地域の共同性の中でこそ発揮される生き様である。「たとえ山の中でも水さえあれば生き延びられる」としてサバイバルの術を駆使できる直志さんであっても、その共同性の中でこそ、その技能が発揮されるのである。このドキュメンタリーはそこまで表現している。監督の非凡さを見た思いがする。
 直志さんを支える菅野剛さんという人物もまた魅力的である。彼は1949年同じ気仙町に生れた直志さんの16歳後輩。経歴では「東北大学工学部電気応用物理学科に入学するも、学園紛争に明け暮れる学生生活に嫌気がさし2年で中退。上京してキャバレーのボーイや沖仲士などの職を転々と」したとある。経歴を見る限り私の仙台での生活とちょうどすれ違いである。私が入学したとき、菅野さんは多分仙台を離れたのだろう。私の同学年にもこのような同窓生はたくさんいた。私もひょっとしたらこんな人生を送ったかもしれない。いやその可能性は極めて大きかったといえる。人を、頑固な職人を生活の現場で支えるというのはこのような振る舞いとなるのかもしれない。私の人生の選択とダブって見えるところがあった。
 直志さんの生き方は特に気負ったところはない。たんたんと目の前のことをこなしながら、いつの間にか復興という方向が町全体の方向と一致しているのである。ある意味でその土地の共同性を背負っている、あるいはその寡黙な背中で体現している生き様なのである。
 しかしその頑固さは周囲を辟易ともさせる。市の復興計画にまったくとらわれないわが道を行く生活の再建である。そこに力強さを感じることも出来る。だが、家族や、横浜などの大都会とは違って実に身近である市の行政との軋轢をうまく処理できないのもまた直志さんという人の生き様でもある。そこの狭間に立つのが菅野剛さんという人格である。
 私も職場のAさんならどう思っているかをいつも念頭に置きながら職場での立ち居振る舞いを考えていた。そしてAさんなら当局に対してどのような物言いをするだろうかと想定し、それを肯定したり否定したりしながら組合活動の方向性を模索していた。いつもAさんの振る舞いが、否定も肯定も含めて教科書であった。きっと菅野剛さんもそんな思いで直志さんと付き合い、そして地域で生きて来たのではないだろうか。直志さんと菅野さんの関係を、若い頃の私とAさんとの関係を思い浮かべながら、この作品を見ていた。
 菅野さんはこの地の「気仙町けんか七夕保存会」の副会長であり、太鼓演奏に指導的活躍をしている。祭りの日、直志さんも寄付を集める係をしながら達筆で寄付者名簿を作成し、大切な祭りを支えていた。祭りが地域の共同性の絆を強める大事な場面であることをドキュメンタリーは実にうまく撮っていた。
 祭りという瞬間の高揚の場の中で、地域の結束に向けた決意が共有される。祭りというのはそういうものなのであろう。我々が忘れかけたものがそこにはあった。特に震災というものを契機として、こういうものの価値が再認識された様子が伝わってくる。
 しかし祭りというのは、一過性だ。言い方が悪いが、気分の高揚が言わせていることもある。現実の生活の判断はもっとシビアで、熱気だけでは語ることはできない。そんな危うさも祭りの高揚は持っている。そうだ、私は既にそのような見方で、醒めた目で祭りを見ることを続けて来てしまった存在なのだ。