Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

3年8ヶ月の実感

2015年12月01日 23時24分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日・本日と現役時代に携わっていた業務のノウハウを思い出す必要にかられた。しかし現役を離れて3年8カ月、それが長いのか短いのか、もうすっかり忘れかけていた。現役時代に操作していた端末機を使って各種情報を引き出したり、その情報をどのように解釈するのか、そして現在の問題を解くのにどのように評価するのか、解決に向けどのように道筋をつけるか、なかなか思うように思考が展開していかない。
 37年も携わった業務であるにもかかわらず、実際にその業務に携わっていないとあっという間に忘れてしまうものらしい。
 ただし2日経ってから随分思い出した。思い出してから、昨日になぜすぐに思い出せなかったのか、とてももどかしかった。
 現役を離れると新しいやり方についていけないのではなく、考え方の基本ややり方を忘れてしまう、ということにようやく思い至った。

 私も現役の頃に、多くの先輩が退職して1年くらいして職場に来たときに、その先輩が多くのことをすっかり忘れているのを見て、もどかしい思いをしたことが度々あった。今自分がそのような立場になって、とても複雑な、そして悲しい心境である。
 ある先輩が、「昔の職場には行かない方がいいよ。同窓生同士が居酒屋で騒いでいるだけの方がしあわせだよ」と言っていたのを思い出した。それはとても実感のこもった発言だったということが、本日やっと理解できた。

「モネ展」(東京都美術館) その2

2015年12月01日 21時00分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 モネ展の感想をその2としてまとめたいと思っているのだが、頭が少々飽和状態である。とりあえず気に入った作品を上げてごく簡単な感想を記してみたい。



 まずは、「霧のヴェトゥイユ」(1879)。私のこれまでモネの作品を見てきた限りの限定的な感想でいうと、モネはひとつの題材をいくつもの光の違い、時間の違いで描き続けている。これはなかなか優れた試みであると思うが、同時にそのシーンがいくつも積み重ねられるうちに、描く対象の物質感や存在感が光の中に、色の変化の中に埋没していってしまうような気がする。物体の存在感が希薄になると同時に、色彩の特徴も背景の中に解けていってしまうようである。微妙な光線の違いや色彩の違いによって対象の物質の存在が強調されるのではなく、次第に希薄になる。ここの感覚がよく飲み込めない。しかし作品はそのことによって鑑賞者により注視することを強いているようにも思える。この強制の具合がモネと鑑賞者である私たちの会話と云える。この感覚は他の画家からは感じられない不思議な間隔である。この感覚は大事にして、もっと人にわかりやすい表現で伝えてみたいという衝動に駆られる。



 カンディンスキーはモネの「積わら」の連作の内のどれかを逆さに見ても鑑賞に耐えられるという体験をして抽象画への門戸を開いたという逸話が語られてるいる。実はこの作品「睡蓮」(1917-19)をスキャナーで取り込むときに私は当初この上下反対の画像を取り込んでしまって違和感が無かった。右下の緑の葉の造形は上下反対にすると柳の垂れた枝に見える。右上の蓮の花も違和感なく蓮の花に見える。右上の緑の塊は下草に見える。何の違和感もない。
昔の風景画ではこのようなことは許されることではなかったと思われる。たぶんこの絵の構図、現実の切り取り方がそのようなことを避けるように構図上の工夫をしなくてはいけないのに、モネはそのような約束事を故意に無視したように思える。色と物質感だけが画面を支配するということにこだわったと私は解釈してみたい。この絵もそんな試みのひとつだったと思うことにしている。



 最晩年の連作の中、「しだれ柳」(1918-19)の連作の中では私はこの作品が群を抜いて気に入った。対象のしだれ柳がその存在感をキチンと示している。他の作品では色が周囲と溶け込んで幹の存在がよく判別できないものが多い。判別できなくとも色彩のバランスのいいもの等視点を変えると面白いと思われるものも多い。逆の言い方をすると私にとっては、対象物の鮮明な方が好き、ということかとなると、宗にはならない。そこら辺のバランスが自分でもまだつかみきれていない。



 次の「バラの小道、ジヴェルニー」(1820-22)についても同様なことが云える。
 色彩の感覚から云った好悪、対象物の描かれた方か云った好悪、いづれもそんな比較は画家にとっては重みを持っていない。もうこの歳では作品の完成度ということ、あるいは価値ということから離れて、さまざまな色彩の変化や構図上の変化を楽しんでいただけとも云える。
 絵画にとっての「完成」とか、「評価」といった範疇から飛翔していたと云えるのだろう。ここまで来ると私自身はもうお手上げである。多くの鑑賞者にとっても作品の「価値」そのものを作者がこだわらないことになってしまったら、ひょっとしたら鑑賞が成り立たない地平まで突き抜けてしまったかもしれない。
 そんなことを考えてしまい、現在は頭が飽和状態で次に進めない。もう少し時間が必要である。

 私はどうしようもない迷路に入り込んでいる気分になってしまっている。出口が見えない。私の無手勝流の鑑賞の能力、鑑賞方法の限界なのであるかもしれない。



 遺作ともいえるような「バラの庭から見た家」(1922-24)は、ひょっとしたら出口を教えてくれるかもしれないと思える気がしている。この作品を眺めながら私なりの出口を探ってみたい。