Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

年末までのおおよその予定‥とても慌ただしい

2015年12月18日 21時06分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝からずっと部屋に閉じこもって、ふたつのことだけした。まずは退職者会の機関紙の正月号の作成。ふたつ目が「レオナルド・フジタ」の展覧会の感想の「その2」と「その3」。結局交互にこなしながら夕食を挟んで13時間もかかってしまった。「その2」はとりあえずお昼直前にアップできた。
 退職者会の会報はまだ依頼した原稿は出来ておらず、全体の6分の1も出来ていない。今晩寝るまでに囲み記事3つほどを仕上げておきたいところである。正月特別号ということでデザインも含めて想定したよりは時間がかかるようである。

 明日は午後からカラオケ大会の取材で出かけることになっている。夕刻からは団地の理事会にオブザーバーでの出席依頼がある。21日の退職者会の幹事会のための資料作成は20日日曜日にせざるを得ないようだ。
 この分では年賀状のデザインを考えるのと、印刷は26日、27日と年末ぎりぎりにまでかかりそうである。こんなにも慌ただしい年末とはちょっと想像がつかなかった。

歯医者

2015年12月18日 11時52分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 アルミサッシのガラス窓に着いている結露は本日は多かった。それだけ明け方は冷えたのだろう。しかし昨日よりは雲も少なく、朝日が当たると暖かい。

 朝9時の予約の近所の歩いて5分のところのA歯科医で診てもらった。以前に奥歯の1本の神経を切除して2つに分割の上金属を被せていた。分割した手前側の根がもうだめになっているという。そこの部分は抜歯しなくてはいけないそうだ。
 その後どのような処置・治療になるのかはわからないが、ここのA歯科医、すべて保険の範囲内で処置をしてくれるのが前提である。保険適用以外の処置について質問をされたこともないし、いちいち要望を聞かれることもない。実に安心してかかることができる。次回22日に抜歯することになった。今後の処置はその段階で説明してもらえば十分だと思っている。腕も信頼できる。この歯も分割処置をしてからもう15年近くももっている。その上に痛くてしようがない時にも「予約云々」などということはいわない。その日のうちに無理にでも診てくれる。

 実は200m離れたところにあるあたらしい小綺麗なB歯科医は、どんなに泣きついても冷たく一切受け付けてくれない。A歯科医が休診日のとき、妻の歯がひどく痛みだしB歯科医に駆け込んだが、門前払いを食らった。1週間後でないと無理といわれ妻はオロオロ。やむなくさらに約1キロ先の下ったところにあるC歯医者に頼んで消毒してもらい、痛み止めを貰ったことがある。C歯科医も悪くはないが、遠いし、帰りの上り坂がつらい。

 私の経験で一番ひどいと思ったのは、昔の職場の近くのある歯医者。今はもう廃業してなくなった。仕事中に私の歯が痛み出し、仕事が終わって駆け込んだ。すぐに神経を切除しなくてはいけないといって、神経を切除する処置を始められた。その作業の途中、痛みで唸っている耳元で「保険適用だとすぐに外れるものを被せるしかない。〇万円で長持ちする金を被せられる」とささやかれた。
 はやくこの痛みから抜け出したい患者からすれば、こんなことを云われたら「それでお願いします」という確立は高い。保険治療についての知識がない人は騙されてしまう。私は痛いながらムッとして「それなら神経だけ切除して、化膿止めと痛み止めだけください」と伝えた。医師は「そんなこと出来ない。型を本日中に取りたい」というので、「お金はないし、保険でできるはずのことなので、あなたの処置は信用できない」とケンカ腰で、となりの患者に聞こえるようにわざと大声で云った経験がある。
 翌日職場を休んでこのA歯科医に駆け込んだ。「神経を応急処置として切除してもらったので後の措置をお願いしたい」とだけ言って診療台に座った。「保険外の処置」なんということなどひとことも聞かれずに、処置をしてくれた。数回通って終了。

 もう20数年以上前のことである。それ以来このA歯科医にお世話になっている。あの職場の傍の歯医者はいったい何だったのだろう、と今でも腹が立つ。

「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(国立近代美術館) その2

2015年12月18日 07時50分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 南米での体験の後、秋田で壁画「秋田の行事」(1937、現秋田県立美術館蔵)をフジタは描いている。ここで祭を描くことで「群衆」の熱気、非日常の姿を描いている。この「群衆」に対するフジタの興味に私は注目したい。後の「猫」や「アッツ島玉砕」へと繋がる画家の視点があると思われる。



 さて、この絵は「南昌飛行場の焼討」(1938-39)。最初この絵を見た時、技法上のことはわからないが、構図の取り方・飛行機の配置の仕方など、私は紙芝居の絵でも見せられたようだと思った。フランスで名を馳せた「西洋画家」の作品なのかと疑った。

 しかし他の画家の戦争画でもおなじように、場面としては散漫な作品が多くある。遠景で煙だけが戦争の証のような絵画が多くの画家によって描かれていた。近代の戦争というものは凝縮した場面や迫真性や集団的な場面とは想像以上にかけ離れたものなのかもしれない。兵器の進展に伴い、人の死というものがどこか遠方で実在感のないものとして生起しているのかもしれない。しかし実際には狭いところでの阿鼻叫喚と地獄図が噴出している。それを私たちは国内での空襲や原爆や沖縄戦、そして撃沈される艦艇や一方的に殺戮される戦争末期の戦闘行為、抑留者の過酷な状況を実相として戦後に語られ、伝えられた。
 多くの戦争画を描いた画家の目には、戦争の現場は人間のドラマとしては残念ながらどこか現実感のない、どこか遠い別世界の出来事のような実態であったと思う。しかしフジタは陥落直後の漢口に足を踏み入れ、銃剣を手に疲労した日本兵や、横たわる中国兵の死骸、逃げ惑う避難民、破戒された戦車など生々しい傷跡を目にしているという。それらのものは初期の戦争画には表現されていない。無論そのようなものは作品としては残っていない。描いてから拒否されたのか、描いても採用されないと忖度したのか、そのような現実には当初は興味がなかったのか、真相はわからない。
 しかしフジタは自身の作品を含むこのような戦争画にとても違和感を持っていたのではないかと私は想像している。フジタという画家は自身の中に湧き上がる表現意識よりも、フランスに行き、技法の獲得によって表現すべきものを獲得したと思える。
 このようなフジタは現実を見る眼につねに楽観的で現実とは大きな齟齬やズレがある。このような絵を描いた直後フジタは再び戦時下の日本を離れ「もう一度自由に絵を描きたい」とバリに向かう。しかしヨーロッパの戦争勃発はそんなことを許さず、日本大使館より帰国勧告を受けることになる。しかしドイツは身動きもならず戦争は終局に向かうと楽観視して、帰国勧告には当初従っていない。いよいよ危険が身に迫り、ようやく日本に帰国する破目になる。



 この時期ヨーロッパにいったん戻り描いた「猫」(1940)について、私はフジタの職人的な技法のひとつの頂点なのかと思っていた。しかし1940年という時期を考えると、ヨーロッパでの戦争の迫った時期、日中戦争という争闘の時代の反映という指摘もある。可愛らしい猫、あるいは画家の目を代弁するような視線を持つ猫ではなく、生存のために闘争本能を剥きだした猫である。この姿態を迫真性をもって描いたといえるが、同時に細部をよく見ると実在の猫の仕草とはかけ離れているようにも見える。その1でも記載したが、写実とは言えない様式化された職人芸を感じる。フジタなりの時代把握の絵なのかもしれない。
 様式化された技法を経て、南米での「群衆」を描いた壁画への着目、秋田で祭の群像を描き、そして猫の群像、それも生存をかけた争闘の場面という生の噴出する場面への着目に私は興味を惹かれる。フランスで名を成したころのフジタの作品は「何かを表現したい」という表現意識よりも、技能・技量が先行して描く対象をさがしているように思える。それが南米の体験を経て、生々しい人間の生の噴出を描こうとし始めたように思われる。大きな転換がパリを離れて以降、徐々に、そして画家本人はまだ無自覚ながらはじまったのではないだろうか。



 「哈爾哈河畔之戦闘」(1941)。この絵は実は聖戦美術展で公開された同じ題で別のものがあり、それが絵を依頼したこの戦闘に携わった司令官のもとにあったという。
 「巨大なソ連の戦車から絶え間なく銃弾が降り注いでいる。阿鼻叫喚の声上げる日本兵。死体は累々と積み重なっている。その死体の山を踏みつぶしていくソ連の戦車‥‥。凄惨きわまりない戦争の実像である。それは聖戦美術展に出品されたものとはまったく異質なもう一枚」(近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」)。
 この公開されなかった作品が「アッツ島玉砕」(1943)や「血戦ガダルカナル」(1944)、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945)などに続くフジタの戦争画におおきな画期となったと私は思う。


      

 フジタにとっては、初めて戦争画によって「表現したい対象」を獲得したのではないか、というのが私のフジタという画家に対する評価である。
 南米での壁画や秋田での祭、猫の群像を経て、人間が非日常で見せる生命の噴出、ドラマチックな生の発現を描く延長上に、戦争という極限状態での人間を描こうとしたのではないだろうか。ダ・ヴィンチやラファエロ、あるいは19世紀初頭の西洋絵画を参考にしながら描いたといわれる。私はフジタの頭の中にはジャン・グロ「アイラウの戦場のナポレオン」(1808)、ジェリコー「メデュース号の筏」(1819)、ドラクロワ「サルダバナールの死」(1827)などの新古典主義やロマン主義の絵画が念頭にあったような気もする。これらの作品のように人間の阿鼻叫喚の地獄絵図の中に人間のドラマを描きたかったのだろうか。
 さて、アッツ島玉砕にしろ、ガダルカナルやサイパン島の戦闘にしろ、このような激しい肉弾戦があったとは思われない。作品では日本兵が優位にアメリカ兵と対峙し殺戮を行っている。それが日本の軍部の意向であることは間違いがない。たがいろいろな話を聴く限り、米軍の兵器による一方的な殺戮によりほとんどの日本兵が命を奪われている。
 そして日本兵の顔はとても現実の人間の顔ではない。神がかり、というのは憚れるほど人間性を喪失した顔である。戦争による殺戮そのものが人間性を喪失した極限の状態であることを描いていることは確かであると思う。
 フジタはこれらの絵を描くことで、ようやく絵画で日本に受け入れられたという時代を得たのかもしれない。だが私の気になるフジタのことばがある。
 「(アッツ島玉砕の絵を前にして)膝をついて祈り拝んでいる老男女の姿を見て生まれて初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたということは未だかつてない異例に驚き、しかも老人たちは御賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目していた有様を見て一人唖然として打たれた。この画だけは尤も快心の作だった」
 私は自分の作品を見て肉親や日本兵の死に首を垂れ鎮魂している人を見て、ひとり悦に入っているフジタを思うと、背筋がゾクッとするほど怖くなる。人を感動させる絵を描くことができたという満足があったのだろう。だがこの「満足」はとてもゆがんではいないだろうか


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