私が初めてレオナルド・フジタ=藤田嗣治の作品を見た時の印象は、ヨーロッパ風の精緻で格調高い磁器作品を見たような気分であった。今回国立近代美術館で開催されている「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」を見ても第一印象は、変わらなかった。
人の表情については無表情ではない。ひとりひとり違う表情があり描き分けているようでいて、どこか現実味が希薄である。
室内装飾として絵画作品そのものを壁に掛ける選択もあるが、これが精巧な磁器として棚から取り出してとっておきの日に使用する晴れやかさにあふれている。そんな魅力が確かにある。様式美と芸術作品との均衡の上に成立しているように感じる。
多くの人はこの画家の描く「猫」の姿態に共鳴する。私には猫は画家の分身のように思える。画家の目でモデルや背景を見ながら構図や色彩のあれこれを見つめ、人物に合わせた布地のガラを想定する。同時にモデルの視線で描く画家自身を覚めた目で観察している視線でもある。
ここに掲げた始めの2点は1923年37歳、サロンドートンヌの審査委員となるなど絶頂期の作品。自画像は1929年、一時帰国している。パリでの成功の一方で日本では中傷記事も出る。世界恐慌直前の作品でもある。
この猫の視線は、異国のパリという芸術仲間と交流しつつ自身の様式を確立しようとする格闘と一定の評価を得たことに対する自信も窺える程度に落ち着いている。
私は先ほども述べたように様式美と、魅力的な色彩を生み出す優れた職人性が、猫の視線から受け取るレオナルド・フジタ=藤田嗣治の印象であると思う。
解説ではパリ時代のフジタについて「1920年代に評判となったのは、「乳白色の肌」と呼ばれる、しっとりしたツヤ消しの画肌に、墨色の線描を用いて裸婦や猫を描くタイプの作品でした。これは、異国の地で日本人の持つエキゾチックな魅力を最大限活かそうと考えた末、浮世絵などを参考にして藤田が編み出した画風でした。」とある。
極めて自負心が強く、負けん気の強い画家が、パリで画家として認められるために「日本人性」の否定と利用という二律背反のような苦闘を経て得た評価は、フジタという画家の立ち位置の難しさと表裏だったと思う。それは当時の日本とヨーロッパの両方の、いや社会そのものを見つめる目、観察する眼にどこか歪みをもたらしたのではないだろうか。それは第一次世界大戦という生存の危機すら味わったパリで、画家はどのような社会に対する眼を得たのかという疑問が私のなかに浮んでくる。いつも私はこのことが気になっている。
画家の自画像からは、強い意志と自らを飾る自己主張をさらけだす計算されつくされた構図や背景とが窺われる。手にした極めて細い筆と硯と墨は手紙を書いているのであろうか。パリでのそこに自負というか自己主張が感じられる。手にした日本的なものと背景や自信の容貌の乖離、これが画家の中では何の摩擦もなく共存している。現代の私も不思議に思うのだから当時の日本の人々からはもっと奇異の目で見られたのではないか。そしてそのことに画家は自覚的ではないように思える。逆にそれを誇示しているようにも思える。
1931から32年にかけて南米を訪れる。掲げた作品は1932年の「リオの人々」。いわゆる乳白色の肌色は影を潜めるが、オロスコの壁画という大画面に関心を持ったようである。しかしこの絵を見ても人間の表情よりも手足の関係、体の表現、そして布地の配色に極めて大きな意識が割かれている。この絵でこの時期の特徴として断言するのは無理だが、気になったのは後ろ向きの人の存在、そして残り4人のうち2人が瞳がこちら側、あるいは画家を見つめていない。中央の子どもと右側のしゃがんでいる女性の瞳はこちらを見ているようでいて、不信の眼である。
壁画の中の群像群の習作とすれば理由はあるのかもしれないが、ここでもフジタは異邦人として振る舞っている。そしてそれを自分で否定していない。溶け込むことを端から想定していない。リオの人々を観察しつくそうという姿勢に思えない。オロスコの壁画に影響を受けたといっても、その絵を生んだ風土や社会的背景や歴史や、には思いは至っていない。技法上の新しい刺激として見ていた、と思える。私はそのこと自体を否定して、フジタという画家の存在を否定しているのではない。フジタという存在のあり方の特質を私なりに把握したいと思っているだけである。
「藤田嗣治」は晩年、洗礼を受け、フランス国籍を取得し、ほぼ同時に日本国籍を抹消している。さらに「Leonard Foujita」(レオナルド・フジタ)と彫られた墓石の下に葬られているという。私は「藤田嗣治」と表記するよりも「フジタ」と表記すべきだと感じている。
なお、自画像では手紙を書こうとしている、と記載したのは、フジタの肌色を際立たせている黒い描線は墨汁ではなく、リンシードオイルなどが検出され油性であったとの指摘から絵画制作のための仕草ではないと類推した(近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯)。
さらに南米での作品が、フジタがパリであの乳白色をもたらした3層の下塗りによる独自のキャンパスを使用したのかどうかは私にはわからない。人物を描くにあたり黒い描線は私の眼には映らなかった。