Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

モーツアルト ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」、第27番

2015年12月15日 21時41分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日聴いていた曲は、モーツアルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」と第27番。「戴冠式」という表題があるだけ第26番の方が演奏される機会も多いが、私は最後の27番の方がずっと気に入っている。出だしの第1楽章のヴァイオリンの刻みがとてもいい響きである。全体をとおしても大変落ち着いた雰囲気があり、聴いていると気分が落ち着く。私にとっては鎮静剤のような曲である。
 さてこのCDの演奏者の内田光子は1980年代に入ってからモーツアルトのピアノソナタ全曲演奏・録音から俄然注目されてきたと思う。このモーツアルトの協奏曲のシリーズはソナタに続くシリーズである。私は多分1989年頃にこのCDを始め、モーツアルトのピアノソナタと、ピアノ協奏曲の全曲録音を一生懸命買い続けた。ボーナスをもらうとその足で3枚くらいまとめて購入した記憶もある。妻には「いつ購入したの? いつの間にかCDが増えていない?」と嫌味を言われたことがある。もうその時には定年になったらじっくりと聴きたいという思いもあった。無論当時からいくつかの協奏曲とソナタは繰り返し聴いていた。
 定年を迎えて3年9カ月、どういう風の吹き回しか、ようやくこのCDを続けて聴く気になってきた。当時買いそろえておいてよかったとおもう18枚のCDである。

       

元長崎市長本島等氏の死から1年

2015年12月15日 18時52分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨年の11月1日、私は以下の記事をブログにアップしていた。人の記憶は本当にあてにならないものである。その前日の2014年10月31日、長崎市長であった本島等氏が92歳で亡くなった。私は来年もまたこの記事をアップしようと当日は心に決めていたのだがねすっかり失念していた。

★長崎新聞の報道(11.1)
 昭和天皇の戦争責任発言で右翼から銃撃され、全国に論争を巻き起こした元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)氏が31日午後5時27分、肺炎のため、長崎市内で死去した。92歳。旧五島北魚目村(現在の新上五島町)出身のカトリック信徒。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は密葬で執り行い、お別れ会を後日、長崎市内で開く。
 長崎市長に初当選したのは1979年。市長3期目の88年12月、昭和天皇が重篤な状態にある中、定例市議会一般質問に答え「昭和天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、全国から抗議や称賛が殺到。当時顧問を務めていた自民党県連などは発言の撤回を要求したが、本島氏は「(撤回は)政治家の死を意味する」として応じなかった。発言から1年余り後の90年1月、市役所前で右翼団体幹部に銃撃されて瀕死(ひんし)の重傷を負い、その名が「平和市長」として国内外に知れ渡った。
 この事件以降、過去の侵略戦争に対する反省とアジア諸国への戦後処理の不十分さを「平和宣言」などを通じて鮮明に主張。核兵器廃絶と同時に、アジアへの真の謝罪と和解の必要性を一貫して訴え、外国人被爆者への日本人と同等の援護も日本政府に求めた。5期目を目指した95年の選挙で、新人の伊藤一長氏(2007年に死去)に大差で敗れた。
 かくれキリシタンの子孫として生まれ、受洗。貧しい子ども時代を過ごし、戦時中は陸軍に入隊、熊本県で終戦を迎えた。京都大工学部卒業後、長崎南山高教諭などを経て59年から県議に連続5期当選。自民党県連幹事長も務めた。市長時代には故秋月辰一郎氏らと長崎平和推進協会の設立に貢献し、初代会長に。市長退任後の97年、広島・原爆ドームの世界遺産登録に異議を唱えた論文「広島よ、おごるなかれ」で被爆者の被害者意識を批判。以降、原爆投下を「侵略と加害の帰結であり、仕方なかった」と言い続け、物議を醸した。
 02年、日本の原爆・戦争被害だけでなく加害の立場も認めた平和政策が評価され、ドイツ政府の功労勲章一等功労十字章を受章。韓国の被爆者団体などが同年に創設した「韓日平和交流功労賞」も受賞した。03年に結成された「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の代表としても活動をけん引した。
 09年春、平戸市沖で沈没した巻き網漁船「第11大栄丸」の船体引き揚げを求める県民有志の代表として尽力。平和団体の各種行事に積極的に参加し、独特のユーモアと庶民派のイメージが市民に親しまれた。今年7月から体調を崩していた。

 【http://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/354387e75f28449535c81ec9470ed161?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime

「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(国立近代美術館) その1

2015年12月15日 14時01分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 私が初めてレオナルド・フジタ=藤田嗣治の作品を見た時の印象は、ヨーロッパ風の精緻で格調高い磁器作品を見たような気分であった。今回国立近代美術館で開催されている「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」を見ても第一印象は、変わらなかった。
 人の表情については無表情ではない。ひとりひとり違う表情があり描き分けているようでいて、どこか現実味が希薄である。
 室内装飾として絵画作品そのものを壁に掛ける選択もあるが、これが精巧な磁器として棚から取り出してとっておきの日に使用する晴れやかさにあふれている。そんな魅力が確かにある。様式美と芸術作品との均衡の上に成立しているように感じる。
 多くの人はこの画家の描く「猫」の姿態に共鳴する。私には猫は画家の分身のように思える。画家の目でモデルや背景を見ながら構図や色彩のあれこれを見つめ、人物に合わせた布地のガラを想定する。同時にモデルの視線で描く画家自身を覚めた目で観察している視線でもある。

   

 ここに掲げた始めの2点は1923年37歳、サロンドートンヌの審査委員となるなど絶頂期の作品。自画像は1929年、一時帰国している。パリでの成功の一方で日本では中傷記事も出る。世界恐慌直前の作品でもある。
 この猫の視線は、異国のパリという芸術仲間と交流しつつ自身の様式を確立しようとする格闘と一定の評価を得たことに対する自信も窺える程度に落ち着いている。
 私は先ほども述べたように様式美と、魅力的な色彩を生み出す優れた職人性が、猫の視線から受け取るレオナルド・フジタ=藤田嗣治の印象であると思う。
 解説ではパリ時代のフジタについて「1920年代に評判となったのは、「乳白色の肌」と呼ばれる、しっとりしたツヤ消しの画肌に、墨色の線描を用いて裸婦や猫を描くタイプの作品でした。これは、異国の地で日本人の持つエキゾチックな魅力を最大限活かそうと考えた末、浮世絵などを参考にして藤田が編み出した画風でした。」とある。
 極めて自負心が強く、負けん気の強い画家が、パリで画家として認められるために「日本人性」の否定と利用という二律背反のような苦闘を経て得た評価は、フジタという画家の立ち位置の難しさと表裏だったと思う。それは当時の日本とヨーロッパの両方の、いや社会そのものを見つめる目、観察する眼にどこか歪みをもたらしたのではないだろうか。それは第一次世界大戦という生存の危機すら味わったパリで、画家はどのような社会に対する眼を得たのかという疑問が私のなかに浮んでくる。いつも私はこのことが気になっている。



 画家の自画像からは、強い意志と自らを飾る自己主張をさらけだす計算されつくされた構図や背景とが窺われる。手にした極めて細い筆と硯と墨は手紙を書いているのであろうか。パリでのそこに自負というか自己主張が感じられる。手にした日本的なものと背景や自信の容貌の乖離、これが画家の中では何の摩擦もなく共存している。現代の私も不思議に思うのだから当時の日本の人々からはもっと奇異の目で見られたのではないか。そしてそのことに画家は自覚的ではないように思える。逆にそれを誇示しているようにも思える。



 1931から32年にかけて南米を訪れる。掲げた作品は1932年の「リオの人々」。いわゆる乳白色の肌色は影を潜めるが、オロスコの壁画という大画面に関心を持ったようである。しかしこの絵を見ても人間の表情よりも手足の関係、体の表現、そして布地の配色に極めて大きな意識が割かれている。この絵でこの時期の特徴として断言するのは無理だが、気になったのは後ろ向きの人の存在、そして残り4人のうち2人が瞳がこちら側、あるいは画家を見つめていない。中央の子どもと右側のしゃがんでいる女性の瞳はこちらを見ているようでいて、不信の眼である。
 壁画の中の群像群の習作とすれば理由はあるのかもしれないが、ここでもフジタは異邦人として振る舞っている。そしてそれを自分で否定していない。溶け込むことを端から想定していない。リオの人々を観察しつくそうという姿勢に思えない。オロスコの壁画に影響を受けたといっても、その絵を生んだ風土や社会的背景や歴史や、には思いは至っていない。技法上の新しい刺激として見ていた、と思える。私はそのこと自体を否定して、フジタという画家の存在を否定しているのではない。フジタという存在のあり方の特質を私なりに把握したいと思っているだけである。

 「藤田嗣治」は晩年、洗礼を受け、フランス国籍を取得し、ほぼ同時に日本国籍を抹消している。さらに「Leonard Foujita」(レオナルド・フジタ)と彫られた墓石の下に葬られているという。私は「藤田嗣治」と表記するよりも「フジタ」と表記すべきだと感じている。
 なお、自画像では手紙を書こうとしている、と記載したのは、フジタの肌色を際立たせている黒い描線は墨汁ではなく、リンシードオイルなどが検出され油性であったとの指摘から絵画制作のための仕草ではないと類推した(近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯)。
 さらに南米での作品が、フジタがパリであの乳白色をもたらした3層の下塗りによる独自のキャンパスを使用したのかどうかは私にはわからない。人物を描くにあたり黒い描線は私の眼には映らなかった。