Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

正月用のお酒は「松みどり」

2015年12月30日 22時01分04秒 | 料理関連&お酒
 9月21日にこのブログで紹介した「松みどり」を正月用に購入してきた。半分の2合はお屠蘇用に、のこり半分は無論私が飲むためのもの。
 このお酒に屠蘇散を漬けてしまうのはもったいない気もするが、そのまま飲むには好みのお酒なのであえて購入した。屠蘇散を漬けてどう変わるのか、元旦の楽しみである。正月用のお酒としては名前がいい。
 多分3日目には無くなるので、明日泡盛か壱岐焼酎かを購入する予定でいる。

 明日は急な用事ができて中華街のこれまで使ったことのないお店に行って予約の確認、調整をしなくてはいけなくなった。我が家で利用するわけではないが、成り行き上顔出しをする必要ができた。
 午後に行くので、家で食べる夕食のことを考えると試食をするわけにはいかない。

 

モーツアルト「ヴァイオリン協奏曲第6番、第7番、外」

2015年12月30日 12時56分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 現在ではすっかり偽作、疑作として整理されてしまっている二つの協奏曲を収録してある。これまでと同じくヴァイオリンはヨゼフ・スーク、プラハ室内管弦楽団、ともに1973年の録音。当時からすでに偽作とされており、規格車も演奏者も十分そのことを承知の上でこの全集が出来ている。あくまでも参考作品の扱いかも知れない。
 不思議なもので偽作とわかっていて聴いているので、確かにモーツアルトらしくないな、と感じる。知らなければモーツアルトの作品として受け入れてしまうものである。
 だが、そうはいっても確かに第7番などは現退風のアレンジがあるように思われる。優れた演奏家や鑑賞者というのは、真作といわれていた時代でもうすうすは感付いていたのではないだろうか。
 真作が偽作かというのは残された楽譜について慎重な史料批判から学術的な調査に基づかなければならないので、演奏家はなかなか判断を表明するわけにはいかないだろうが、分かるものではないだろうか。印象を語ることは許されるだろうが、断言的な言辞は無理なのかもしれない。
 現在ではすっかり偽作と扱われているが、6番では二つ以上の弦を奏でる重奏部分の多用とその部分の少々乱暴な筆法に思える。モーツアルトの未完成の独奏部分を手にしたヴァイオリニストがオーケストレーションも含めて完成したという推測が解説に記載されている。
 私の耳には、オーケストレーションものホルンの響きも、フルートとオーボエのユニゾン部分も、偽作という前提できいている所為もあるが大いに違和感がある。また第2楽章も美しい旋律ではあるが、唐突感のある装飾音などものモーツアルとの響きではないように思う。第3楽章の重奏部分も耳障りに聴こえるほど多用している。ここら辺も偽作といわれる根拠ではないだろうか。
 第7番では、19世紀的な要素が入り込んでいるとして、解説でも第6番以上に偽作という評価を強く記している。これは聴いていると後代の手になるものだという解説の指摘はすぐに納得できる。特に第3楽章の早いパッセージの部分などはモーツアルトらしからぬ。
 しかしはっきり云って美しい曲である。特に第1楽章。モーツアルトの偽作だといってお蔵にしまい込んでしまうのはもったいないような気もする。私の鑑賞眼がダメなのだろうか。モーツアルトというくびきを外して聴く分には悪くない。
 ともに偽作と云われるが、比べると第6番の方がずっと古風な感じである。
 3つ目の曲は「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」。これはモーツアルト自身の作曲として現在も扱われている。
 これは十分にモーツアルトらしい曲である。第7番の後に聴くとふっと懐かしい雰囲気が漂ってくる。

      

今年の反省を少々

2015年12月30日 11時26分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 最近は美術展に行っても素直に作品や作家の営為を受け入れないで、自分のこれまでの判断軸や好みを先に押し出してしまう傾向が強くなっている、と自分でも感じるようになった。その挙句に、自分の尺度に強引に当てはめようと、論理ならざる論理をひねくりまわすような文相になっている。
 マルグリットについては感想を書いていない。これもその一環かも知れない。フジタについても同様である。いくつかの美術展は一瞥しただけでげんなりして、ほとんど見ないで一巡だけはしてそのまま帰ってきてしまった。さっさと忘れることにして、感想を持つことすらやめてしまった。

 それが私の限界でもあるし、現状ではあるので、そのまま掲載してしまっている。批判は批判として、自分の感性にとどかなかったら届かなかったとして、受け入れるだけは受け入れなくてはいけないのだろうが、素直になれないのはもどかしいこともある。

 虚心坦懐に作品に対する姿勢を取り戻すことを来年は心がけようと思う。