Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(国立近代美術館) その3

2015年12月25日 21時03分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 アップするのを忘れていた。



 「アッツ島玉砕」などは私はフジタの画業の中ではひとつの大きな頂点をなすものであると今回感じた。それがプロパガンダであったり、戦争協力画としての位置付けであったりしたことはそのとおりだが、フジタの画業の一環として捨て去ることも、「なかった画業」「隠すべき所業」としてしまうことは到底出来ない。それは政治の問題として別の切り口が必要だろうが、画家の歩みとして、あるいは画業の推移としてはオープンな論議が必要であろう。特に藤田の場合は近代日本の西洋画の歴史の到達点としても、またフジタという画家の頂点としても評価が必要だと私は思う。
 評伝によれば、1946年頃から各界で戦争責任を追及することが始まった。日本美術会という団体でも画家の戦争責任がGHQの指示は無かったにも拘わらず、戦争協力者のリスト作成に乗り出す。私の印象では「GHQの意向を『忖度』してその支持の前に戦争責任の追及、戦争犯罪人のリストを作成」し始めたとのことであるらしい。戦争中には「政府の意向を事前に『忖度』して市民生活に規制を巡ら」し、戦後には「GHQの意向を『忖度』して事前に自己規制する」、末端のファシストと、戦後民主主義者の振舞いは戦前も戦後も立場は違っても同じである。そうであるがゆえに、戦前のファシストが戦後には「民主主義者」に宗旨替えも平気でできた笑えない喜劇がまかり通った。
 ファシズムから「民主主義」に何の根本的な思想の変更なしに平行移動し、権力にすり寄っていく戦後「民主主義」のいい加減さ、戦後民主主義者として振る舞った人間の醜さがそのまま表れている。
 結果として日本美術会書記長の内田巌が「戦争画を描いた画家の代表として出頭してほしい」と伝えたということになっている。後の日本共産党員内田巌の醜悪な戦後の第一歩である。フジタの文章では「私は戦争発起人でもなく捕虜虐待した訳でもなく、日本に火がついて燃え上がったから一生懸命に消し止めようと力を尽くしただが、何がわるいのか判らぬが私が戦犯と言われれば服しましょう。死も恐れませんが、出来れば太平洋の孤島に流して貰って紙と鉛筆だけ恵んで貰えば幸ですと答えて後は一切の話は打ち切って‥」と記されている。
 さらにフジタは内田巌のことばとして「何んなことがあっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください」といったという。これがどこまで真実なのかはわからない。フジタ自身の脚色や誇張があるかもしれない。しかしまったくの嘘とは言えないと思う。真実はわからないが、戦後の不幸な「民主主義」の出発点が垣間見える。
 フジタの描いた戦争画は長らくアメリカに持っていかれ、そして永久貸与という形で国立近代美術館に保管されてきた。この経緯については戦後の「戦争責任問題」と絡んで別の考察も必要であろう。
 私は別にフジタがあの戦争の本質を見抜いていなかったことを糾弾するつもりはない。だが、できればフジタには第一次世界大戦での体験だけでなく、絵を描くという行為の中で、それこそヨーロッパの都市生活の底辺も体験したのであろうから、そこでの人びとのありようや人間観察をじっくりとしてほしいと感じたことだけは記しておきたい。底辺にも近い都市生活者の諸相がどんな人間観をフジタにもたらしたか、それがどのうよ作品に反映されているのか、人間観察の独自性抜きに作品の深化は図ることができないと、私は心の底で思っている。
 フジタの戦争画も1945年の「サイパン同胞臣節を全うす」などになると軍人だけが登場する作品から軍人以外の日本人の「強いられた死」も登場する。国家の滅亡に合わせて死を強制される群像としての死である。だが、フジタと交流のあったピカソの戦争そのものを告発する「ゲルニカ」の普遍性とはとても深い溝のある作品である。
 「サイパン同胞臣節を全うす」と「ゲルニカ」(1937)を並べて比較するのは間違っているかもしれない。しかしあの「ゲルニカ」は、あたらしい時代の新しい表現としてすぐれた作品である。人間がどうしても埋葬することのできない戦争という悲劇を正面から扱っている。あらゆる戦争を告発している。残念ながらフジタの戦争画にはそのような普遍性は感じられない。

 しかしフジタは日本を脱出せざるを得ないことで、そしてニューヨークでは「戦争に加担した画家」として展覧会を国吉康雄などに妨害され、日本から捨てられるだけでなく、戦後世界秩序からも捨てられることになる。私はフジタは日本に捨てられた異邦人というだけでなく、戦争画を描くことによって、戦後の世界そのものから放逐されたと感じる。

「動物宴」(1949-60)


 日本国籍を捨てるためにフランス国籍を取得し、キリスト者となったフジタという精神は、そうすることで戦後の喪失感を何とか埋めようともがいたのだと思う。しかしその彷徨が作品として昇華したのであろうか。そのことが推察できるだけの作品を私は見ていないので断定はできない。しかし国立近代美術館に収蔵されている作品を見る限りは、フジタの作品は戦前に回帰しただけで、戦争画の成果を踏まえた画業はないと思われる。
 日本から捨てられ、そして世界から放逐されたフジタは、この日本からの仕打ちと、日本と世界の欺瞞的な戦後民主主義を見据えた人間観察の深化によって、その危機を乗り越えてほしかったというのが、私なりのささやかなフジタ批判である。フジタは自らの戦争画を超える作品を戦後は創出できなかったと思うのは早計だろうか。

冬の星

2015年12月25日 12時32分14秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 冬の星を眺めながら‥

★冬銀河かくも静かに子の宿る     仙田洋子
★再びは生れ来ぬ世か冬銀河      細見綾子
★生きてあれ冬の北斗の柄の下に    加藤楸邨
★冬銀河わが足下には紅蓮地獄     庄司 猛
★山茶花咲いて系外惑星葉の裏に    藤井誠三
★賀状書く冥王星のハート形      菅原 涼