昨年の12月初めにブラームスのヴァイオリン協奏曲を取り上げた。もう1年半以上たっている。そのときに、

特にブラームスは交響曲のように4楽章制を構想し、ヨアヒムの強い反対で現在の抒情的な第2楽章に変更となった。解説によれば「弱弱しいアダージヨ」(ブラームス)と表現したという。ブラームスは不本意だったようだ。そうかもしれない。ブラームスらしいシンフォニックな構成ではないかもしれない。
初演はヨアヒムの独奏、ブラームスの指揮で翌1879年元旦に行われた。
しかし細部までかなり強いヨアヒムの助言とブラームスの主張との折り合いで日の目を見たこの曲だが、初演以降、両者の関係に微妙な影を落とすことになったと云われる。ブラームスはおそらくだいぶ燻った感情を抱いたのであろう。芸術家としての矜持にも触れる葛藤を経験したのであろうか。
私はこの第2楽章、第3楽章が特に気に入っている。ブラームスには申し訳ないが、私はヨアヒムに感謝しなくてはいけないのかもしれない。
と記した。今でも私は第2楽章が好きである。ベートーベンのヴァイオリン協奏曲と同じく第1楽章が大変長く、第1楽章の雄大な曲想に関心を持っている方や、躍動的な第3楽章が気に入っている人が多いらしい。
本日は実に30年以上も開いていなかったスコアを見ながらこの曲を聴いた。久しぶりに押し入れの奥深くしまってあるスコアを詰め込んだ段ボールの箱をふたつ明けた。ベートーベンとブラームスを中心にしたスコアである。
楽譜を見ないで曲を聴くことと、スコアを見ながら聴くのとでは随分と違う。スコアを見ながら聴くのは、目で曲を聴く、といった方がいいかもしれない。曲の響きよりも旋律の流れを追いかけながら聴いてしまう。そして曲の構成や作曲家の楽器の選択に感心したりして、分析的な聴き方となる。この違いはとても大きいと思う。
このブラームスのヴァイオリン協奏曲の第2楽章に即していえば、スコアなどを見ないで聴くと出だしのオーボエの美しい旋律がそのまま頭に滑り込んでくる。旋律の美しさに素直に反応できる。スコアを見ながら聴くと、複雑な対位法の譜面に目を奪われて、つい戻ってもう一度聴き直したいなどという衝動に駆られながら、譜面を目で追っている。結局音の記憶が曖昧になってしまっている。
これは演奏する立場で曲を分析しているようなものである。スコアを見ないで曲を聴くと音が広がって聴こえる。音の複雑な絡み合いそのものを楽しむことができるように感じた。
一方でこの第2楽章のスコアを目で追いながら聴いていてあらためて感じたのが、この楽章を演奏するときの緊張感がよく理解できたような気がする、ということである。
特に第2楽章の後半部分のソロヴァイオリンは厳しいのではないか。そしてすぐさま躍動感あふれる第3楽章になだれ込んでいく。
作曲の過程やその後の二人の関係のエピソードを知ると、ヴァイオリンの大家のヨアヒムの演奏する立場と、作曲家の丁々発止の緊張関係の一端を垣間見たように思った。純粋に音の構築物として、音響の効果や曲の構成を考える作曲家の立場と、生身の人間が演奏する立場では自ずとより音を響かせようとするポイントにズレはあるはずである。
私は少しだけ演奏に携わっただけなので超人的な技法などとてもできないが、精神的な緊張感が持続する限界があるということは何となく理解できる。
そんなことを考えながら、スコアを片手にこのCDを2度ほど聴いた。さらに2楽章だけを2度、スコアを見ないで聴いた。

特にブラームスは交響曲のように4楽章制を構想し、ヨアヒムの強い反対で現在の抒情的な第2楽章に変更となった。解説によれば「弱弱しいアダージヨ」(ブラームス)と表現したという。ブラームスは不本意だったようだ。そうかもしれない。ブラームスらしいシンフォニックな構成ではないかもしれない。
初演はヨアヒムの独奏、ブラームスの指揮で翌1879年元旦に行われた。
しかし細部までかなり強いヨアヒムの助言とブラームスの主張との折り合いで日の目を見たこの曲だが、初演以降、両者の関係に微妙な影を落とすことになったと云われる。ブラームスはおそらくだいぶ燻った感情を抱いたのであろう。芸術家としての矜持にも触れる葛藤を経験したのであろうか。
私はこの第2楽章、第3楽章が特に気に入っている。ブラームスには申し訳ないが、私はヨアヒムに感謝しなくてはいけないのかもしれない。
と記した。今でも私は第2楽章が好きである。ベートーベンのヴァイオリン協奏曲と同じく第1楽章が大変長く、第1楽章の雄大な曲想に関心を持っている方や、躍動的な第3楽章が気に入っている人が多いらしい。
本日は実に30年以上も開いていなかったスコアを見ながらこの曲を聴いた。久しぶりに押し入れの奥深くしまってあるスコアを詰め込んだ段ボールの箱をふたつ明けた。ベートーベンとブラームスを中心にしたスコアである。
楽譜を見ないで曲を聴くことと、スコアを見ながら聴くのとでは随分と違う。スコアを見ながら聴くのは、目で曲を聴く、といった方がいいかもしれない。曲の響きよりも旋律の流れを追いかけながら聴いてしまう。そして曲の構成や作曲家の楽器の選択に感心したりして、分析的な聴き方となる。この違いはとても大きいと思う。
このブラームスのヴァイオリン協奏曲の第2楽章に即していえば、スコアなどを見ないで聴くと出だしのオーボエの美しい旋律がそのまま頭に滑り込んでくる。旋律の美しさに素直に反応できる。スコアを見ながら聴くと、複雑な対位法の譜面に目を奪われて、つい戻ってもう一度聴き直したいなどという衝動に駆られながら、譜面を目で追っている。結局音の記憶が曖昧になってしまっている。
これは演奏する立場で曲を分析しているようなものである。スコアを見ないで曲を聴くと音が広がって聴こえる。音の複雑な絡み合いそのものを楽しむことができるように感じた。
一方でこの第2楽章のスコアを目で追いながら聴いていてあらためて感じたのが、この楽章を演奏するときの緊張感がよく理解できたような気がする、ということである。
特に第2楽章の後半部分のソロヴァイオリンは厳しいのではないか。そしてすぐさま躍動感あふれる第3楽章になだれ込んでいく。
作曲の過程やその後の二人の関係のエピソードを知ると、ヴァイオリンの大家のヨアヒムの演奏する立場と、作曲家の丁々発止の緊張関係の一端を垣間見たように思った。純粋に音の構築物として、音響の効果や曲の構成を考える作曲家の立場と、生身の人間が演奏する立場では自ずとより音を響かせようとするポイントにズレはあるはずである。
私は少しだけ演奏に携わっただけなので超人的な技法などとてもできないが、精神的な緊張感が持続する限界があるということは何となく理解できる。
そんなことを考えながら、スコアを片手にこのCDを2度ほど聴いた。さらに2楽章だけを2度、スコアを見ないで聴いた。
昨夜は印刷所にメールを送付するのを忘れてしまった。ブログに送付すると宣言しておきながら、忘れて風呂に入って気分よく寝てしまった。しかし朝になって漢字の間違えがあるのを思い出し、さらに訂正個所もいくつか見つけることができた。先ほど訂正したものを印刷所にようやく送信。これにて取りあえずは終了。
しかし印刷屋さんも本日は休みのはずなので、見てもらえるのは明日以降になる。遅れたのは年末のためとはいえ、こちらの側が原因なので印刷屋さんには申し訳ないが、年内に原稿が確定できるか、心配である。
さて、講座の資料の整理のために、ファイルをいくつか購入しなくてはいけなくなった。午後にでも100円ショップに行く必要がある。しかし100円ショップもいつの間にか108円ショップになり、そのうち110円ショップになる。通称百均(ヒャッキン)から、百十均(ヒャクジュッキン)にしなくてはならなくなるのだろうか。
これから百均に出かけるまではしばらく読書タイムとしよう。活字の大きい、読みやすいものを探すとなると探す時間の方が長くかかるかもしれない。バックの音楽はブラームスのバイオリン協奏曲といたい。
しかし印刷屋さんも本日は休みのはずなので、見てもらえるのは明日以降になる。遅れたのは年末のためとはいえ、こちらの側が原因なので印刷屋さんには申し訳ないが、年内に原稿が確定できるか、心配である。
さて、講座の資料の整理のために、ファイルをいくつか購入しなくてはいけなくなった。午後にでも100円ショップに行く必要がある。しかし100円ショップもいつの間にか108円ショップになり、そのうち110円ショップになる。通称百均(ヒャッキン)から、百十均(ヒャクジュッキン)にしなくてはならなくなるのだろうか。
これから百均に出かけるまではしばらく読書タイムとしよう。活字の大きい、読みやすいものを探すとなると探す時間の方が長くかかるかもしれない。バックの音楽はブラームスのバイオリン協奏曲といたい。